ハーモニカと歌声とマツバガイのカノン

 俺と華音、そして未来の三人は江島神社を辺津宮、中津宮、奥津宮の順で参拝した後、江ノ島の西南端に位置する稚児ヶ淵までやってきた。終始華音が一足先を歩き回り、それを俺と未来が追いかけるという構図。まるで俺と未来が、華音の保護者にでもなった気分だ。三人とも同学年であるはずなのに、とてもじゃないがそんな様子には見えない。

 稚児ヶ淵は岩場の海岸になっている。例によって華音が一人ではしゃぎ回っていて、俺はそれを目で追いかけるのさえ諦めかけていた。そんな時、すぐ横に座った未来が俺に聞いてきたんだ。


「君、まだ作曲できないんだって?」

「別に……。もう作曲なんてできなくてもいいんじゃないか」

「…………そっか」


 未来は俺の言葉をただただ受け止めていた。否定することさえしなかった。


 俺は鞄の中からハーモニカを取り出す。十二個の穴が開いた、濃紺のクロマティックハーモニカだ。ふぅと息を吹き込むとドの音が出て、そのまま息を吸い込むとレの音が出る。同じ要領でドレミの音階を繋ぎ合わせると、一つの曲を演奏できる。吹いても吸っても音が出てしまうので、コツをつかむまでなかなか曲にはならないが、一度吹けるようにさえなればどんな曲でも奏でられる優れものだ。

 青く広がる海を眺めながらハーモニカを吹くと、騒がしい毎日を忘れられる。その日の気分次第で吹く曲を決める。今日は何となく、明るい曲を吹いてみたくなる。そうだ、未来もいることだし、『BLUE WINGS』の曲でも吹いてみようか。作曲者は確か俺と同じ年の女子高生だったはず。ハーモニカで吹こうとすると飛んだり跳ねたり、自由気ままな曲が多くて、やや羨ましく思えてくる。


 するとすぐ隣では、俺の演奏に併せて未来が歌っていた。やっと聞き取れるくらいの小さな声で、もちろん誰かに聴かせようとしているわけではないようだ。まるで俺のハーモニカの音色を楽しむかのように、歌詞の一つ一つを紡いでいる。当然俺も楽しくならないはずがない。もはやどちらが伴奏なのかわからないほどに、俺と未来のハーモニーがぴったり重なり合って、一つの音楽を作り上げていた。


 ハーモニカと海の音が打ち消し合い、未来の歌声は微かに聴こえる程度。周囲の人達からはおよそハーモニカの音しか聴こえないかもしれない。もっともここにいるのがアイドル歌手の未来だとバレたら、それはそれでハプニングになりかねない。ただ未来の顔はそれほど知られているわけでもないようで、誰もそれに気づく人はいないようだった。そのことについて未来は何とも思っていないかのように今ここで歌い続けているけど、実際のところはどうなのだろう?


 誰にも聴かれないまま、それでも未来は歌い続けるのだろうか?


「なぁ。未来……?」


 俺はハーモニカを吹くのを一度やめて、気づくと未来に話しかけていた。未来も同時に歌うのをやめ、俺の顔をちらっと見る。その顔は海からの光の反射を浴びて、やはり輝いていたが。


「未来は一人で歌っていて、楽しくないと思ったことはないのか?」


 すると未来は黙ったまま、首を横に振った。


「あたしの場合はどっちかというと、いつも自分を励ますつもりで歌っていたことの方が多かったから。だからむしろ昔から一人で歌っていることの方が多かったかな」

「そっか……」


 笑いながらそう答える未来。まるで『バカみたいでしょ』と自分を卑下しているようにも見えた。ただ、なぜだろうか。その笑顔は美しくも思える。


「でも、あたしは一人になると歌えなくなる女の子のことを知ってるから」


 まるで近所の小さな子供を見守っているかのように、話を紡いでくる。


「その子ね、いつも強がって、いつも大胆で、誰よりも他人の笑顔を喜んでいるの。自分自身は誰よりも寂しがり屋で、舞台以外の場所では他の人を困らせることに天才的な才能を発揮するのにだよ?」


 もちろん俺には誰のことを言っているのかわからなかった。だがそんなことよりも、楽しそうに話す未来の笑顔が目に焼き付いてくる。海辺できらきら輝くその瞳に、優しい母のような温もりが感じられた。


「だけどあたしは、その女の子のおかげで変われたの」

「変われた?」

「そう。時間が止まっていたあたしの背中を、その子がそっと押してきたんだ」


 すると未来は、遠くまで続く水平線をその煌めく眼差しで追いかけた。視界に飛び込む大海原は何もかもを飲み込んでしまいそうで、未来はその中へ飛び込むことを楽しんでいるかのよう。一見すると他の女子とあまり変わらないごく普通の女子のように見えるのだが、この瞬間ばかりはやはりアイドルなんだなと感じてしまう。身体から溢れ出すオーラが活き活きとしている。

 芸能人のオーラか。そういえば以前うちにやってきた元国民的女優もそんな雰囲気があったな。いや、ひょっとするとさっき未来が言ってた小さな女の子というのは……。


「ねぇ。さっきあたしの顔見て、一瞬失礼なこと考えたでしょ?」

「そんなことは……」


 アイドルという人種は、エスパー属性も持っているのだろうか? 未来は『まぁいいや』とでも言いたそうな半分呆れ顔で、俺の顔を小さく笑ってみせた。


 どんなに大勢の前で歌って魅せるアイドル歌手であっても、根っこにあるものは皆同じなのかもしれない。今日の未来の顔は怒ったり笑ったり、変幻自在に変わっていく。いつもテレビやラジオで見聞きしているそれではなく、未来との距離が少しだけ近く感じてしまうのは、きっとそのせいなのかもしれない。


「だけどさ。君だって、もう一人じゃないんじゃないかな?」

「え、俺?」


 不意打ちのような未来の質問の直後、背後からぱしゃぱしゃと走ってくる足音が近づいてきた。


「大河く〜ん、未来さ〜ん。マツバガイこんなにいたよ〜!!」


 そういえばあいつ、ひとりで何をしていたのだろう?

 てか、マツバガイって一体何者だ……?

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