海色に染まる青いリュックサック
そもそもの話、事務所の移籍自体は何も不思議な話ではない。うちの子供を他の事務所に移籍させたほうがさらに儲かるかもと考える親だって、いてもおかしくはないだろう。ましてや華音の場合、去年の春以降全く出演実績がないわけだ。これが全クール出ずっぱりの声優であれば、移籍に際して前の事務所とひと悶着があってもおかしくはない。だが華音にはそれすらなく、ひと悶着など起こりようもないはず。
問題は、華音が俺と有理紗の部屋にいるということ。
自宅が関東近郊になく芸能活動に支障があるという場合は、親元を離れたタレントが寮などに住むという話はあるだろう。未来と一緒に『BLUE WINGS』として活動している春日瑠海だって、確かそんな事情だったはず。歌のレッスンで有理紗の元を春日瑠海が訪ねた際に夕食をご一緒させてもらったことがあるが、その時自分は名古屋出身だと話していた。元国民的女優らしく気品に溢れたその姿からは、てっきり都会のお嬢様というイメージが染み込んでいて、唐突に名古屋と言われても俺にはぴんと来なかったくらいだ。もっともその話を後で未来に話したら、『それ絶対瑠海に騙されてる!』と言っていたが、少なくとも俺と有理紗には未来の言ってる意味がよくわからなかった。
華音の場合、藤沢に引っ越してくる前は、埼玉の山の方に住んでたと言っていた。
飯能の辺りと言ってただろうか。ともすれば埼玉の山の方であることに間違えはない。飯能には一度有理紗やその知人とバーベキューをしに行ったことがあるが、非常に緑豊かで、川の水が綺麗な場所だったことも覚えている。
ただし、東京都心から急行電車で一時間以内の場所だ。東京などという魔の世界にしてみたら、通勤時間が一時間程度というのは決して遠い場所とは言えないだろう。藤沢からだって、東京までやはり一時間くらいかかる。飯能との違いは、近くにあるのが山か海かくらいの差じゃないだろうか。
であるなら、華音の両親はわざわざ自分の子供が親元を離れることを許す必要があったのか? しかもそれが、事務所移籍直後というタイミングでだ。その点だけが妙な違和感として残り、未来の話がすっぽりと霧の中に覆われる要因となっていた。
「ひょっとして華音って……やっぱり家出娘だったりするのか?」
俺は華音が初めて藤沢にやってきた日の姿を思い出していた。大きな赤いキャリアケースと青いリュックサック。それは見れば見るほど滑稽で、でかい荷物が二つ歩いているかのよう。見ようによっては小柄な女子中学生を彷彿させる華音の体型だったら、もう少し小さめのものを使えばいいのに。
ちなみに今日の華音はあの日と同じ、青いリュックサックを背負っている。『江ノ島って山なんでしょ?』と今朝有理紗に確認していた。だから手ぶらがいいんだって。とはいえ、藤沢から江ノ島に出かける程度で、何故そんな大きなリュックサックが必要だったのだろう。もっとも今日の中身はほとんど空らしく、あの日ぷっくり膨れていた青いリュックサックは、今日はぺちゃんと潰れている。まるで……
「ちょっと。どこ見てるのよ?」
「ん……!?」
ふと未来の方を見てしまった。特に深い意味はないはずだが。
「まぁでも、華音ちゃんが家出ってことはないんじゃないかな」
「そうなのか……?」
「だってあの子、しょっちゅう楽しそうに両親のことを話してくるのよ?」
そこから十五センチほど視線を上げると、未来の顔はぷくっと膨らんでいた。やや怒っているのかもしれない。あるいは、急な坂道で構成されるこの江島神社の参道に、息を切らしているだけかもしれない。俺もこの急斜面な坂道で転ばないよう、もう一度しっかり前を向いた。なお俺達より遥か前を歩く華音の姿は、既に人混みの中に埋もれてしまい見失いそうになっていた。
「でもあいつ、俺と有理紗の前では両親の話なんてしないぞ?」
唯一話したかもしれない記憶と言えば、華音がやってきた日、家族でほとんど食事したことがないとかそういう話をした程度か。それはどちらかというと家出娘そのものという具合で、未来の言う楽しそうな話であるとか、はっきりと真逆な話でもある。
「それは華音ちゃんなりに、君と有理紗先生に気を遣ってるんじゃないかな?」
「え?」
「だってあの子、昨日番組が終わった後だって、ずっと君の話をしていたんだよ」
「あいつが、俺の話……?」
嫌な予感がした。あいつが藤沢に来た日、俺が冷たい態度を取ったとかバカ呼ばわりしたとか、そのせいかもしれないが、華音はどことなく俺に冷たい態度を取ることが多い気がする。口調だけは優しく、ただしその言葉の中に冷たいナイフを隠し持っているかのようで、俺は毎日華音に脅されているかのようだ。学校の中を案内してる時だって、『なるべくわたしに話しかけてこないで』と口ではなく、態度でそう言っている。正直近寄りがたい。俺の友人からは『なぜ大河って転校生から嫌われてるんだ?』などと直接的に聞かれたことだってある。もちろんクラスメイトは先生以外誰も、俺と華音が同じ部屋に暮らしている事実を知らないはずだが。
「なるほどね。華音ちゃんが有理紗先生のところにいるの、君のせいかもしれないね」
「は? どういうことだ!?」
だがそんな俺を試すような顔で、未来はそんなことを言ってきた。
俺は何かを勘違いしているのだろうか。未来の顔は明らかにくすくすと笑っていて、それを隠すことはとっくに諦めているかのよう。急な上り坂、俺の歩く半歩先から見下ろすような姿で、目に見えない何かを思い描いているようにも感じた。
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