叶わなかった事務所移籍の目的

「昨年、あたしが京都でぶっ倒れたって話、知ってる?」

「ああ。あれだけニュースになってたもんな。寝不足だっけ?」


 俺が冗談交じりに未来みくに返す。未来は『それでもいいや』みたいな顔をして、小さな微笑みを胸にしまっているようだった。

 去年の十一月末くらいだっただろうか。未来が所属するアイドルグループ『BLUE WINGS』で京都駅ライブを予定していたのだが、その直前になって、未来が救急車で運ばれたというハプニングがあった。未来はそれから一ヶ月ほど、病院で眠り続けることになる。理由は蓄積された過労ということになっているが、本当は別の理由なのかもしれない。


「あたしが眠ってる時、代わりに『BLUE WINGS』の追加メンバーをって話があったらしいの」

「それは十二月から加わったITOいとのことではなくてか?」

「それとは別の話。元々ITOちゃんはおまけみたいなもんだからね」


 未来が眠っている間、『BLUE WINGS』のメンバーは元国民的女優でもある春日瑠海ただ一人のみとなってしまう。未来がいつ目を覚ますかわからない以上、追加メンバーをという話があっても何も不思議はないだろう。十二月末からは『BLUE WINGS』の新メンバーとしてITOが参加した。だがITOは元々俺と同じ作曲家であり、正式な新メンバーと言うよりもバックバンドメンバーに近い。そもそもITOの正体は芸能事務所社長の一人娘という根本的事実もあるのだが、諸々の事情でそのことは隠しているようだ。


「まさかその新メンバーの候補に……」

「そ。文香さんはうちの事務所に移籍してきたばかりの華音ちゃんを、『BLUE WINGS』に加入させるつもりだったみたい。華音ちゃんの実績は業界でも既に有名だったしね」


 辻褄は合っていた。およそ伝説化しているのかやみななの才能を業界関係者なら誰でも欲しがっただろう。前の事務所と何があったか知らないが、少なくとも去年の春以降、全ての活動が停止していたわけだから。当然敏腕社長の文香さんは『BLUE WINGS』の動向を鑑みながら、華音の事務所移籍を手助けしていたはずだ。


「だったら華音は……。あいつ、歌手になるのが夢だって」

「文香さんもそれは知ってた。事務所の入所面接時に華音ちゃんの熱意を聞かされたらしくてね。だけど蓋を開けてみたら……」

「歌えると思っていた華音が、歌うことができなかった……と」


 未来は黙ってこくんと頷いた。

 もっともだからといって、華音の芸能事務所移籍が失敗だったという話でもないはずだ。実際に華音は事務所移籍をきっかけに、春アニメの大役を勝ち取っている。のかやみななという伝説の芸名を捨てて、七野ななのかのんとして新たにデビューする方向らしい。

 本来ならのかやみななという芸名をそのまま使った方が知名度も話題性もあったはず。だけど華音はそれを選択しなかった。本当に無名の、世間一般的には全くのゼロからスタートさせようとしている。それは見方によればギャンブルのようにも見えるし、あるいは華音の自信の表れとも取れる。


 だが……。華音の目的は声優になることではなく、歌手になることだ。


「だから文香さんは有理紗先生に華音ちゃんを預けることにしたみたい」

「なるほど…………?」


 つまり社長は、華音の歌手デビューを諦めてはいないってことか。


「……まぁあたしも知ってるのはここまでなんだけどね」

「ああ。今の話、一点だけクリアになっていない部分があるな」

「うん。あたしだって去年歌手デビューしたばかりだから、なんとなくわかってるつもりだけどね。あたしの場合は元々両親を交通事故で失っているし、それで事務所に拾われたようなものなんだけど」


 未来は苦笑いを浮かべてそれを話していた。ただその話に寂しさといった感情は見えず、『今更だよ』みたいな口振りでもあった。

 現在未来は事務所の女子寮に入寮している。入寮と言っても、それは歌手デビュー前からそこに住んでただけであって、入寮のきっかけはデビューとは全く関係ないものらしい。未来は両親を交通事故で失っており、親の知人を頼りにしながら事務所の女子寮に行き着いただけとのこと。なんだかどこかのお伽噺のようにも聞こえるが、それはそれである。


 疑問点としてはこうだ。それを華音に当てはめるとどうなるか。


「華音の両親は、事務所の移籍に賛成だったかどうか……?」


 俺と同じように未来も頭を抱えて考え込んでしまった。未来もそんな華音の家庭事情までは聞かされていないらしい。

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