歌姫と江ノ島と

「大河君、お久しぶり」

「おう。華音のやつが連れてきたいって言ってたのは、奇跡の歌姫様とやらだったか」


 華音がネットラジオ番組に出演したのは昨晩、金曜の夜のこと。華音はその後帰ってくるなり、『江ノ島に案内したい人がいるんだけど』と開口一番に切り出してきた。その人というのは想像通りと言うべきか、華音が番組で一緒していたアイドル歌手という具合だ。

 アイドルグループ『BLUEぶるー WINGSういんぐす』のメンバーとして活動している奇跡の歌姫こと、未来みく。元々『BLUE WINGS』というグループは元国民的女優でもある春日かすが瑠海るみを主体としたメンバー構成であったが、突然のメンバー卒業に見舞われ、一時的に春日瑠海一人だけとなってしまう。そこへ救世主の新メンバーとして現れたのが未来だった。そのせいもあり、彼女には『奇跡の歌姫』などというレッテルのようなものも付けられているようだ。もっとも未来本人はその呼ばれ方をあまり好ましくは思っていないようなのだが。


「うん。昨晩ラジオ番組で一緒になってね。やっぱし君のことだったんだね」

「聴いてたよ。相変わらず危ない話を許す事務所だな。あの女社長に怒られないのか?」

「ま、文香さん厳しい人だけど、結果さえ残せばって人だから……」


 江ノ島大橋の上で、くすくす笑う未来。白い朝日を浴びながらその笑みは輝いている。

 未来は去年の夏に『BLUE WINGS』のメンバーとして歌手デビューを果たす。そのつい二週間くらい前だっただろうか、有理紗に歌のレッスンを受けるという目的で、俺の部屋にも何度か来ていたんだ。最初はどこの素人だろうと思うほどそわそわしていて落ち着きがなく、二週間後に歌手デビューとか絶対無茶だろと思ったのだが、一度マイクを手にするとまるで人が変わったかのように力強い美声を響かせる。なるほど。事務所の敏腕女社長である文香さんがGoを出すわけだと、思わず納得してしまう程だった。


「未来さ〜ん、大河く〜ん。早く早く〜!!」


 ちなみに江ノ島へ最初に行きたいといい出したのは未来の方だったらしい。ラジオのオンエアが終わった後、二人は再び『華音の噂の彼氏』の話になり、そしたら未来が『噂の彼に江ノ島を案内してもらおうよ。あたし海を見に行きたい』とか言い出したんだそうだ。なんでも未来の胸の中には大切な人をしまっているらしく、その人が海を見ると喜ぶからという理由らしい。もちろん『胸の中の大切な人』という表現にも気にはなったが、それ以前に俺は華音の彼氏になった記憶は一ミリもない。

 だが江ノ島へ来て一番はしゃいでいるのは、間違えなく華音だった。そういえば未来がデビューを飾った『BLUE WINGS』の夏のライブはすぐそこに見える海岸で行われていたわけだし、改めて未来が江ノ島を選ぶ理由なんて特になかったのだろう。本当にただ海を見たかっただけなのかもしれない。逆に華音の方はというと、あのはしゃぎよう、間違えなく江ノ島に来るのは初めてのようだ。華音が藤沢に引っ越してきてから一週間ほどだが、前に住んでいた場所は埼玉の山の方だって言ってたし、海を見るとか未来以上に珍しいことなのかもしれない。


 俺と未来をあまり気にすることなく、とっとと前を走り回る華音。まるで首輪を外された小さな子犬がはしゃいでいるかのようで、その大きくぱっちりと見開いた瞳は、海から放たれる光を美しく反射している。


「ほんと華音ちゃん楽しそう。きっと大河君とのデートがよほど嬉しいんだね」

「またその話かよ……」

「ひょっとしてあたし、お邪魔だったかな?」

「なわけね〜だろ!」


 未来はからかい混じりの笑みを浮かべながら、全然的外れなことを言ってくる。というよりこれはどちらかというと、俺の反応の一つ一つを確認しながら、完全に楽しんでいるかのようにも見えた。まったく、夏に未来と出逢った時は真面目一辺倒な性格だと思っていたのに、一体いつからこのような悪戯なノリを覚えたのだろう。


「でも良かったよ。華音ちゃんの周りに君みたいな人がいて」

「え?」

「あたし心配してたんだ〜。のかやみなながうちの事務所に移籍してきたこと」

「ああ。それは俺も有理紗から聞いて驚いた。何か複雑な事情があるんじゃないかって」


 すると、目を丸くさせてこっちを睨んできたのは未来の方だった。ただどちらかというと睨んできたと言うより、まじまじと俺の顔色を伺っているだけかもしれない。


「ひょっとして君、その理由までは知らないんだ?」

「ん、なんのことだ?」


 未来はやや困惑な表情を浮かべている。するとすぐに何かを決意したような顔に戻り、俺の顔をもう一度睨み、いやじっと真正面から見つめてきた。


「やっぱり君には話しておいた方がいいと思う」

「何を……?」


 そしてひと呼吸を置いた後、その事情を話してくれたんだ。


「華音ちゃん、歌いたくても歌えないんだって」


 それはただただ、冷たすぎる言葉だった。冬の海風が俺の身体を叩きつけるかのようで。

 俺と未来をすっかり置き去りにして、前方を走り回る華音の姿が、とても小さく見える。華音は既に江ノ島大橋を渡り終えていて、その間には遠い距離が存在していたんだ。

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