すれ違い
「というかお前。それ、家出か?」
ようやく彼は、彼女の姿に気を配った。大きなリュックにキャリアケース。見ようによっては家出と思われても仕方ない。ただ家出をする人間がラノベなどにお金を使ったりするだろうか。その最新刊がおよそ一年振りに発売された待望の一冊であったとしてもだ。とはいえ、この少年は彼女がラノベを買ったなどという事実を知る由もない。やはり家出と判断しても特に間違えはないだろう。
「家出じゃないもん。引っ越しだもん」
「引っ越しだったらもっと荷物があるんじゃねーか? ベッドとか枕とか」
「そういう大きな荷物は業者に運んでもらったんだから」
ただし、どんな引っ越しであっても、ベッドを手で抱えて移動する人はこの世には存在しないだろう。もっともそんな当たり前の反論は、彼と彼女の前から完全に消え失せてしまっているらしい。
「だったらそんな重そうなものを引き回してないで、とっとと引越し先へ向かえばいいだろ」
「だから、どこからバスに乗ればいいのかわからないの」
「バス……?」
よく見ると、彼女はちょうど掌くらいのサイズのメモ帳を手にしていた。彼が覗き込むと、そこには見覚えのあるバスの系統と、自分もよく知る停留所の名前が書かれている。ただそれ以上に、いかにも女の子らしい丸みを帯びた字の方が彼の頭の中を支配してしまい、思わず顔を赤らめてしまいそうになってしまう。ただしその表情までは彼女に気づかれることもなかったようだ。
「そこ、俺んちのすぐ近くだ。案内するからついてこいよ」
やや強引とも思える急な誘いに、彼女は思わずきょとんとしてしまう。
「え。いいの?」
「なにがだよ? 場所がどこかわからなかったんだろ?」
「ううん。そうじゃなくて、もうハーモニカを吹かなくて」
ああなんだ。そのことか……。
正直なところ、彼はやや動揺していた。自分が吹くハーモニカの音色を久しぶりにちゃんと聴いてくれる人が現れたこと、しかもそれが自分が通う高校でもなかなか出逢うことのできない可愛らしい女子であること、さらには自分の住む場所の近くに引っ越してくるという事実に対してだった。だがしかし、多少鈍感なきらいもある彼女は、そんな彼の動揺に気づく気配すらない。恐らくそのことが彼女が言うところの親友から『彼氏いなそう』と思われる理由なのだろうけど、残念ながらそれに彼女は気づいていないのだ。
「ハーモニカはただここで練習してるだけだ。そもそも家でも吹けるしな」
そう言ってハーモニカをケースへしまう彼の姿を前に、彼女は少しだけ元気を取り戻していた。なんとか暗くなる前に引越し先にたどり着けるかもしれない。引越し先の部屋にはエアコンついてるかな? 早くこの冷え切った身体を温めて、熱い引越し蕎麦でも食べたいな。そんな調子で彼女の頭の中では熱々のきつねうどんが占領していく。そもそも引越し蕎麦にきつねうどんとかどうなのだろうか。確かに麺は長くはあっても、明らかに細くはないと思うのだが。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「ああ……」
そんな彼女の気持ちとは裏腹に、彼の方はと言うと……もはや書くまでもない。
だがしかし、彼が歩き出した先は、広場のすぐ下にあるバス乗り場などではなかった。駅の出口からは徐々に遠ざかっていき、しまいには階段を降りて小さな路地へと入っていく。それは彼女にとっては思わぬ事態で、すっかり温かいきつねうどんは幻の彼方へと消え失せていた。ひょっとすると強面の男子に暗闇の公園へと連れ去られて……と良からぬ光景が浮かんでくる。それってどれだけ妄想力が豊かなのだろう。
「あ、あの……どこへ向かっているの?」
「ああ。俺もそんなバス乗ったことないから乗り場なんてよく知らねえんだよ」
わけのわからない回答に、彼女の不安はますます強くなる。
「てことはやっぱりわたしを騙したのね!?」
「ち、ちげーから!!」
恐怖と不安を覆い隠そうと、強がってぷんぷん顔を彼に差し向けた。何とか声に出すことができた怒り声は、彼を思わず慌てさせる。
「その場所、歩いた方が早いって意味だよ」
「え? ……だって、知人がバスに乗った方がいいって……」
ただし、彼にも彼女が言う意味について、思い当たる節があった。実際、駅から自分が住むマンションまでは徒歩十分ほど。お金のない男子高校生にしてみたら、そんな場所までわざわざバスで行こうなどと思うはずもない。ただし彼の同居人の女性は、自宅から駅までバスで通っている。理由を尋ねると『あんな道を歩くくらいなら二百円払ったほうがマシよ』などと返ってくるのだ。彼より十歳ほど年上である女性のその言葉は、彼に年は取りたくないものだと考えさせるのに十分なくらいだった。
「いいからついてこいって」
「……あ、うん……」
少なくともこの女子は自分と同じ年くらいだ。そんな金持ちにも見えないし……彼女の服装を一瞥して、その判断が間違えないことを再確認する。今日の彼女の身なりは、彼もよく知るごく普通の女子高生という姿。特に着ている服が高級ブランドであるとか、そんな様子は微塵もない。
もっとも彼の言うところの『金持ち』というのは本当の意味で言葉通りだった。なぜなら彼は幼い頃からその世界を知っているから。それが嫌で仕方なくて、今の生活を選んでいるわけだから。
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