雪の降る日
コハルは顔を上げて俺を見た。猫を思わす目がじっとこちらを見つめている。琥珀のような黄色味を帯びた瞳。
形の良い唇が開いて、俺に告げた。
「お父さまが、虫に自分の身体を食わせたのです。お父さまを食べた虫は死に、そこから魔力を取り出しました」
――――
俺はぞっとした。虫に身体を食わせた? それは――。
「違法だ」
俺はきっぱり言った。虫が食べてよいものはゴミだけだ。他のものを食わせるのは犯罪だ。ましてや人の身体など。
「でもお父さまはそれを望んでいたのです。自分が死んだら、身体の一部を虫に食べさせるようにと。そしてそこから得られた魔力で、よい夢が見られる食べ物を作るようにと」
コハルは無表情で言う。そしてそのまま続ける。
「私が虫を操って、その依頼に応えました」
俺は黙る。親父もとんでもないことをやらせたものだ。そしてはっと思い出すことがあった。
「俺は葬式で親父の遺体を見たんだ。でも食われてなんかなかった」
そうだ。これは確かなことだ。だからコハルは嘘を言っているのか? 何のためにかはわからないが。
「でも全身ではないでしょう? 身体は服に包まれていた」
コハルは簡単に俺の考えを覆す。そうだった。コハルは付け加えた。
「服の下の、見えないところを少しだけ食べさせたのです。私の弱い魔力では、多くの虫を操ることはできません」
見えないところって、どこだよ、と思う。けれども尋ねる気分になれない。コハルの手の上で赤い色が光る。禍々しくさえ感じる。しかもハートの形。ハートは心臓だ。
俺は目を逸らしながら言った。
「二つあるが」
一つは俺のものとして、もう一つは何なのだろう。コハルの声がした。少し笑みを含んだ声だった。
「あなたの分と私の分です。私も頑張ったのだから、私の分があってもいいでしょう? お父さまに確認したらよいとおっしゃったので」
頑張った、か。確かにそうだな。法を犯したんだから。コハルの声はさらに続く。
「一緒に食べましょう」
嫌とは言えなかった。俺はぼんやりしていて、コハルに誘われるままに、ベッドへと近づいた。二人並んで、ベッドに腰掛ける。コハルが赤いハートを一つ、俺に渡す。
コハルはなんでもないように、それを口に入れた。俺は恐ろしかったけれど、臆病者だと思われるのが嫌だった。だから何も考えないようにして、無理やり口に入れた。
それは甘かった。懐かしい、胸が少し痛くなるような甘さだった。
――俺は夢を見た。
気付くと、やはりベッドに腰掛けていた。壁の時計を見る。まだ五分と経っていない。
けれども俺は夢を見たのだ。確かに見た。それがどんな夢だったか――それはよく覚えていない。けれども良い夢だった。遠い昔の出来事が暖かく蘇っていた。いや、遥か未来のことだった。そこで俺は幸せで、人生を謳歌していた。ううん、違う――過去でもなく未来でもなく、そのどちらでもあって、そしてそれは切ないほどの優しさで、俺を打ちのめしていた。
甘く柔らかで、それなのにどうしようもないような強靭さを持つような、そんな不思議な靄に包まれたような気分になって、俺はただ、そこに座っていた。
しばらくぼんやりしていた。そして、はたとコハルを思い出した。隣を見る。コハルは声もなく泣いていた。
俺は何を言っていいかわからない。
けれども俺の視線の気付いたのだろう、コハルがこちらを見た。涙を拭って。
「よい夢が見られましたか?」
コハルが尋ねる。俺は笑って言う。
「とてもよい夢が見れたよ」
内容は覚えてないが。俺は言葉を探して続けた。
「ずっと――ずっと、夢の中にいたくなるような――」
いや、どうだろうか。夢の世界がどんなだったかわからないので、何とも言えない。ただ、夢は終わったことは確かだ。俺は現実に戻って、寒くて狭い殺風景な部屋にいて、そして隣にはコハルがいる。
「そんなこともないな。夢もよかったが、現実だって、極上だ。すぐ近くにこんないい女がいるんだし」
おお。何を言っているのだ、俺は。夢の余韻か、少しテンションがおかしかった。こんな口説き文句今まで口にしたことがない。そして、口説きなれていない人間なので、言葉が陳腐なことこの上ない。
「あなたは――いい人です」
コハルが真面目な顔でこちらを見て言う。うん。いい人だとは思うよ。何を持って、コハルがそう判断したのかいまだによくわからないが。コハルは真面目な顔のままで続ける。
「いい人と、いい男は同じものなのですか?」
さあ、どうなんだろうな。
コハルが腕を伸ばし、その細くて美しい手が俺の手に触れた。俺はびっくりしたが、どうすることもできなかった。ああ、臆病者よ。ここで、コハルを抱きしめるべきか? ベッドもあるし。いや何を考えているのか。
哀れな俺は狼狽えて、視線を逸らした。窓の外を見る。汚れた窓ガラスに切り取られた灰色の外の世界に、ちらちらと舞うものが見える。
雪だ。
寒いと思ったら、雪が降ってきたのだ。この街には珍しい雪だ。雪は音もなく降っていく。小さな弱々しい雪だ。風に飛ばされながら、けれども後から後から降っていく。
俺は思う。ひょっとしたら明日の朝は、うっすらと積もっているかもしれない。
街は白く覆われるだろう。たとえそれが、たちまち溶けて消えてしまうものであったとしても。
雪の降る日 原ねずみ @nezumihara
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