7

 別の日の土曜日、田中は「ちょっと散歩しようか」と言って、優慈を家の外へ連れだした。間近に丘陵地に造られた小樽公園があった。その中に周囲を金網で囲った子供の国がある。


 子供の国には小動物と鳥の小屋があり、ミニ観覧車やゴーカードや百円で動く遊具がある。田中は子供の国に入ると、斜面をのぼり、丘の上の展望台に優慈を案内した。


 田中は金を入れ、望遠鏡を覗いた。そして「おおっ」とか「ああっ」とか、大袈裟に声をあげた。

「何を見てるの」

「着替えですよ。このナイスなプロポーションの女性は、二十代のなかばぐらいでしょうか、ああァ!」

「どうしたの」

「すげえぇ!」


 このわざとらしい叫びは、絶対に着替えではないなと優慈は思った。別の何かを見ているのだろうと思った。でも、気になったので、「僕にも見せて」と優慈は言った。田中はすんなりと「いいですよ」と言い、場所を優慈に譲った。


 優慈は、期待もせずに望遠鏡を覗いた。すると、本当に女が見えた。どこのアパートだろう。優慈は思ったが、女を見逃したくないので、ズームアウトはしなかった。


 女は窓を全開にした部屋にいて、上半身は裸、下はパンティー一枚、調度ブラジャーをつけるところだった。赤か、紫か、濃い微妙な色合のブラジャーだった。あまりにもそそるものがあったので、優慈の体の中の何かがはためいた。


「うっ」


 突然、優慈の背中に翼が生えた。マジックショーでステッキの中から造花の花が飛び出したように。


 優慈は驚いた。十五歳の秋以来の、翼との対面だった。翼は無くなってしまったわけではないのだ。吹雪の夜にクピド男に言われたように、自分でコントロールできないだけで、翼はまだそこについていたのだ。青いままで。


「ここは翼を出すところじゃじゃありませんよ」

「あれ、田中さんに言ってなかったっけ。僕はいやらしことを考えていた時に初めて翼が出てきたって。いやらしいものを見ても翼が生えちゃったぜ」

「じゃあ、そのクセをなおさないといけませんね」と田中は言った。「クピドはね、着替えをしていたり、裸になっている女の子に対して、特別な意識を持っちゃ駄目なんだ。今日君に教えようと思ったのは、そのこと。というのは、そういうシチュエーションの時こそ愛が生まれるかも知れないじゃない。って言うか、愛が生まれた直後にそういう場面になるかも知れないし、そういう場所にも僕らは立ち会うわけ。もちろん彼女や彼には、僕らの姿は見えない。消えているんだからね」

「っていうことは、堂々とのぞきができるわけ?」

「あまり下品なことを言うと、子供扱いにしますよ」

「はあい」

「意識をしていると消えることさえ難しくなります」

「女が目の前に裸でいたり、ベッドで喘いでいるのに、意識をするなっていうの。それはたぶん無理だよ。絶対に無理」

「無理無理って言ったら駄目。そんなんじゃクピドの試験に受かりませんよ」

「だって、無理なんだもん」

「僕も最初は無理と思ったけど、克服しました」

「どうやって?」

「ひたすら自分の使命を思うの。自分は世の中の愛のために、プロのキューピットになるんだって」

「使命を思ったら、いやらしいことを考えなくても、翼が生えるようになるの?」

「もちろんですよ」田中は答えてから「・・・ところで」と言った。


「君の翼は青いんですね」


 優慈は「あっ」と思い出したように視線を背中の翼へ向けた。よく見えず、肩ごしに翼を引っ張っぱった。青い羽根がちらっと、いや、ちゃんと見えた。初めて翼が生えた時から1年半が過ぎていたが、青が白に変わっていることはなかった。


「最悪・・・」優慈が唸ると、

「青い鳥を虐待したことは?」田中が尋ねた。

「ないよ、あるわけないだろう。おれは鳥にたたられるようなことはしてないって」

「じゃあ、翼が青いのは、ただ一つしか理由がありません」と田中がほほ笑む。

「何を笑ってんだよ」

「ついうれしくなってしまったもんですから」

「うれしくなった? あっ、これ、もしかして、若さとか未熟さの象徴?」

「えっ」違う理由が頭にあったが、優慈がそう言うので「そうです、その通りです」と田中は答えた。答えてから、失敗したと思った。自分の嘘はいずればれる。「翼の色は個性だ」とか、もっともらしく話しておけば優慈のためにもよかったと後悔した。


 家に帰り、部屋に入ると、優慈は田中に尋ねた。

「ところで、愛をかなえてあげるって、どうやるの」

「まず翼を広げて、そのものたちの愛を思う」


 田中は背中に翼をだした。


 優慈は改めて田中の翼をまじまじと見た。何か妙な気がした。嘘っぽい気がした。異常に大きく、可笑しかった。田中には翼は似合わないと思った。


「翼を出せることができれば消えることは難しくありません」

「僕も消えることができるの」

「邪念が心にあるうちは消えません。邪念をもったまま消えることを覚えたら、君はワイセツな犯罪に走るかも知れない。とにかく、愛を思うこと。翼を広げて愛を思うのです。それから、弓で矢を放つ」

「ほんとに弓を使うの」

「当然ですよ。クピドの基本ですからね」

「ふうん、そうなんだ。で、男女を結び付けるって、どうやるの」

「たとえば、A君の思いをB子さんのハートに打ち込む訳です。これでカップルの誕生となります」

「じゃあ、先生。そのB子さんがA君のことが好きじゃなくても、カップルは成立するのですか」

「いい質問ですね。答えは、成立します。なぜならば、カップルとはクピドが決めるものだからです」


 世の中には信じられないカップルがたくさんいる、電車の中でいちゃついている奴。男か女かいずれかがとんでもない顔をしているカップル、年が離れているカップル、それはきっと、どちらかの強い愛にクピドが動かされ、仕事を果たしたに違いない。一度、セットされると、それは逃れようがない。そう考えると恐ろしい。二年D組のクラスにとんでもない顔の女がいる。顔だけならともかく、体型もとんでもないし、性格だってとんでもない。その女の子に愛をセットされたら、優慈はどうしたらいいのだろうと思う。彼女が授業中にキスを求めてきたら・・・優慈は考えただけでゾッとする。


「クピドが決めるって言ったけど、その決定から逃れられる方法はないの」


 すると、田中は「なぜ逃れようと考えるのですか」と逆に聞いてきた。


「だって嫌いなやつとか、可愛くないやつとはつきあいたくないじゃん」

「それは君の考えでしょう」田中は言った。「いいですか、私は優慈君に言いたい。どんな愛も差別をしてはいけないと。君の大好きな美波あやちゃんの愛も、君が思い浮かべるとんでもない顔の女の子のも愛も、クピドにとっては同じなのです。たとえば君が普通の人間だとします。あやちゃんの愛がセットされたら、君はいやに思いますか」

「思うわけないだろう。大、大、大、歓迎だよ。ところが君は可愛くない女の子に愛をセットされたら、心の奥でいやだいやだと思うでしょう」

「うん」

「しかし、クピドにとっては同じ愛なのです。その愛をなんとかしてあげることこそがクピドの最高の喜びであり、使命であり、存在価値でもあるのです」

「それが相手を悲しませることになっても」

「第三者の目で冷静にみれば、好きでもない相手と付き合うのですから、確かに悲しみはあるかもしれませんね。しかし、クピドによって愛をセットされたら、自分がこの人を嫌いであったなど気づかないままラブラブな気分となるでしょう。だから、そう気にやまなくてもいいんじゃないでしょうか。もしも、相手を気に入らなければ、いずれクピドの力が心の中で薄らいだ時に別の誰かを思い、一生懸命に愛することです。そうすれば、またクピドが現れて、新しい相手と結び付けてくれるでしょう。受け身の愛に甘んじるか、それとも積極的に人を好きになるか、その人によって、男女の結びつきも変わっていくということです」

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