6
黄金週間前の土曜の夕方、優慈は居間のソファで、父親と家庭教師を待っていた。
午後三時。約束の時間になっても家庭教師は現れなかった。
爽彦はちょっと不機嫌になった。仕事熱心で、まじめな性格の爽彦は時間を守らない人間を誰よりも嫌うのだ。
「協会に電話をしなくては」
「まだ十分遅れているだけだよ」
「十分あれば、愛という字を何回書ける? 何度声に出して叫べる? 愛とは相手を思いやることだ。最初の家庭教師の日に遅れるなんて、思いやりがないとしか思えない。そういう人間にお前の家庭教師が務まるものか。協会にかけあって、別の教師に代えてもらわねば」と爽彦がリビングボードの上の電話機に手をのばした時だった。
「しー」優慈が言った。
「どうした?」
「二階で物音がする」
爽彦は居間の天井を見上げながら、耳をそばだてた。確かに、音がする。それは、誰かが二階の板張り床の上を革靴で歩き回っているような音だった。
優慈と爽彦は階段をのぼった。
二階には、階段から正面の窓まで幅の広い廊下が設けられ、左右に四つのドアが二つずつ向い合わせに並んでいた。左側の手前のドアは爽彦の部屋、奥のドアは納戸。右側の手前のドアはフリールーム、奥のドアは優慈の部屋だった。足音は優慈の部屋から聞こえている。
優慈は自分の部屋のドアの前に立った。足音が消え、静かになった。確かに、誰かがいる。優慈は勢いよくドアノブを引いた。
猫背の長身男が、あやとキスをしていた。うっとりと、目をつぶり・・・
「あー!」
優慈のその声に男はハッと目をひらき、「あっ、いや、あっ」
「てめぇなにやってるんだ」
「いや、あまりにも吸い付きたくなる唇だったもんで、つい」
「じゃなくて。それ、おれのポスターだろう」
「すみません」
「きったねぇー、あやちゃんの唇につばをつけるなよ。お父さん、警察を呼んで!」
優慈は階段のところにいる父親に言った。
「警察? ちょっと待ってください。ポスターのあやちゃんの唇を奪ったくらいで警察を呼ぶんですか」
「違うだろう。勝手に人んちに入ってきたから呼ぶんだ。どうやって部屋に入ったんだよ」
「どうやってと言われても」
「繰り返すな」
「すいません」
「で、どうやって」優慈が聞くと、
「まず目をつぶり愛を思う」男は答えた。
「お父さん、やっぱり警察呼んで!」優慈はまた父親に伝えた。
「いやほんとに、愛を思えば、家に入るのは簡単なんです。やってみせますから、警察は呼ばないでください。いいですか、よおく見ていてくださいよ」
男は目を瞑った。精神統一をするかのように息を吸い、吐いた。男の背中に翼があらわれた。うっとうしいくらい大きな翼だった。鳥の翼じゃなく、馬の翼だなって、優慈は思った。
「で、今度は消えますよ」
「消える?」
「そう」
「どうやって」
「もう一度愛を思うのです。いいですか、やってみせますよ。消えますよ、消えますよ、ほら」
男は得意げな顔で言ったが、翼を出している以外、変化は見られなかった。
男もすぐに優慈の驚きのない表情に気が付き、
「と言っても、翼の持ち主である君には、私の姿が見えていると思いますが」と言った。
「見えている? だって消えていないじゃん」
「いま、証拠を見せますよ」
男はそのまま窓の方へ向かって大股で歩いていった。窓にぶつかると思ったら、男はそのまま窓と壁を摺り抜けていった。優慈は窓のところへ歩み寄り、窓からおもてを見た。下の道路に男がいて、二階の優慈に向かって軽く手を振っていた。
「お父さん、見てごらん。今部屋にいた男が外にいるから」
爽彦が部屋に入ってきた。窓から外を覗いた。しかし、男はもうそこにはいなかった。
「どうです、すごいでしょう」
あやちゃんのポスターの前で、男は二人の背中に言った。
優慈は振り返り、表情をいくぶん輝かせながら男に尋ねた。
「翼を出して、愛を思えば、そういうことができちゃうわけ」
「ええ、メカニズムは良く分からないのですが、翼を持って気を送ればできるようになります」
優慈は中学の教室にいた耳ピアスの男を思い出した。彼も翼を揺らしながら、教室の扉を摺り抜けていった。
「で、おまえは」爽彦が言った。「なんでひとりごとを言っているんだ。それに協会からきた家庭教師はどこへ消えたんだ」
父親は男の姿が見えないばかりか声も聞こえないようだ。
「家庭教師は、ここにいるよ」
優慈が言うと、男は姿を現し、大きな翼を引っ込めた。
「家庭教師の田中です」
男は丁寧に挨拶をすると、名刺を爽彦に渡した。優慈は名刺を覗いた。
日本クピド協会北海道支部 職員 田中恋志
「ああ、田中さん」
ココリコの田中みたいなやつだった。背が高く、天パー髪の、ラクダ顔で、にやけていて、かつぜつが悪かった。
「遅れてすいません、ちょっと仕事に手間取りまして」
「仕事?」
「ええ、恋のキューピットの。今日は、大安でしょう。世の中、結婚式ばかりじゃなく、大安の日に愛を打ち明けようとするものが結構多くいまして、予定外の仕事が急に入ってくるんですよ。本来ならば、玄関からお邪魔したいところ、一秒でも早く愛について教えようと先に部屋に来たわけです。と言っても最初は優慈君の部屋がわからず、向かいの納戸に入ってしまいましたけど」
「いや、たいしたものだ。一秒でも時間を惜しんでと言うのが気に入りましたよ。一秒が勝負の愛もありますからね」爽彦が言った
「ええ、」
「じゃ、優慈を頼みます」
「はい」
爽彦が階段を降りていくと、優慈は田中に文句を言った。
「田中さんは、大人だろう。こんなポスターとキスなんて、情けなくない」
「いや、そうとも限らないですよ。我々クピドは実際の女性とキスをできる確率はゼロに等いですからね。ポスターだろうがテレビだろうが、奪えるものは誰だろうが奪わなきゃ」
優慈はあやちゃんの唇をティッシュで念入りに拭いた。それから愛の家庭教師の授業が始まった。
「君ってさ、クピドになることが特別なことだと思ってない」
机の前に座っている優慈の顔のすぐ横に、真面目ぶった田中の顔がある。
「違うの?」
「そりゃ選ばれた人間には違いないけど、僕らは神ではない」
「神ではないけれど、普通の人間でもないんでしょう」
「普通の人間だよ。ただ翼があるだけさ」
「その翼があるのが、普通なの?」優慈が言うと
「君はさ、特別な人間になりたいのかな?」田中が逆に聞いてきた。
「そうじゃなくてさ、普通の人間には翼なんて生えてこないじゃない」
「じゃあ君は、翼を持っていることが、不安なんだ」
田中の言葉に優慈は素直に頷いた。「そうかもしれない」
「じゃあ君はなんでもみんなと同じように生きたいわけ?」
「そういうわけじゃないけど」
「だったら翼があることを気にしなきゃいいじゃない」田中は言った。「でも、仕方ないか」
「仕方ないって」
「クピドの中にもね、翼を持っている自分は特別なんだ、自分は選ばれた人間なんだと思っているやつらは大勢いるからね。中には勘違いをしているものもいる。自分を神だと思ってるやつ。そういうやつに限って一般人の愛にはまったく興味がなくて、金持ちや芸能人やプロスポーツ選手の愛ばかりを扱うんだ。クピドの地位を向上させたい、そういう気持ちはあるにはあるんだろうけど、たいていは金さ」
「金?」
「そう、かなりいい金になるらしい。大きな声では言えないけども、ミュージシャンや俳優、政治家、資産家、超有名人の結婚となると、カップルの成立まで億という金が動くらしいですよ」
「田中さんは有名人を扱ったことがあるの?」
「ないですよ、私は庶民の味方ですから。ところで、君は愛についてどのくらい知っているのかな」
「どのくらいって言われても。愛と言うと、キャッと顔を赤らめてしまうくらい恥ずかしい言葉だと思ってるけど」
「恥ずかしい! ・・・まあ、高校生だから、その程度かな。高校生だから。愛と聞いただけで、スケスケのネグリジェとか、ナイスなボディのオネーチャンとか、真っ白シーツのダブルベッドとか、エッチなことがすぐ浮かぶんじゃないの」
優慈はムッとした。小ばかにされ、子供扱いをされるのを優慈はいちばん嫌う。
田中はかまわず話を続けた。「とにかく、小説でも、映画でも、漫画でも、舞台でも、音楽でも、なんでもいいからさ。見たり、読んだり、聴いたりして愛について積極的に学ばなきゃ」
「ええっ?」優慈はいやそうに声を上げた。
「だって、君は愛について、何も分っていないんだろう。手っ取り早く愛を知るのは、小説や映画がいちばんですよ」
「っていわれても、どんなのを選んだらいいのか、わかんねーし」
「選ぶのに悩む必要はありません。クピド予備軍のような初心者は愛というタイトルをついているのを学べば十分です。『ある愛の詩』とか『愛と誠』とか」
「なにそれ、わかんねーよ」
「とにかく、愛を覚え、男女が結びあう意味を学べば、プロになるためのクピドの適性試験にも合格するでしょう」
「そんな面倒くさいことよりさ、女の子とつきあったほうが愛を早く学べるんじゃないの」
「ハハッ」田中が笑いだした。
「ハハッ」優慈もつられて笑った。
「残念ながらクピドは異性とは結ばれません」田中は真顔で言った。優慈のうすら笑いが止まった。「交際も、結婚もできません。だから、映画を見たり、小説を読むしか愛を学ぶことは出来ないのです」
「えつ、交際もできないの」
「ええ」
「ほんとに?」
「そう。どうしてかわかる?」
「さあ」
「クピドの愛など、クピドはかまっていられないからなんですよ。君は男女を結び付けているのはわれわれクピドだって知ってるよね。世の中にはカップルになりたがっている者が大勢いてね、結構忙しいから、翼をもった者の恋は面倒見切れないの」
ああ、それで、自分はマリアと交際できないのかと思った。
「愛が実らないって、いつまで?」
「いつまで、というのは?」
「いつまで愛が実らないの。そのクピドの試験の時まで?」
「まさか。クピドになったら、死ぬまでずっとですよ」
「ええっ、じゃ僕はずっと独身なわけ」
「そう」
「死ぬまで、独身なの」
「そう」
「こんなにいい男なのに」
「あの、こんなことを言ったら、世界中の独身の人に怒られちゃうかも知れないけれど、独身の多くはクピドなんです。キューピット役ばっかりで、人生を全うする。結婚をしないんじゃなく、結婚ができないんだよ」
「ええっ、やだよ。誰かを好きになっても振られ続けるか、片思いのまま終るかっていうことでしょう。って言うか、キスもエッチなことも何もできないんでしょ。いやだよ、僕、クピドにはならないから」
「だいじょうぶ、本当のクピドになったら、キスもエッチもしたいとは思わなくなるから」
「ええっ。そうだ、試験に合格しなければいいんだ」
「それはクピドの仕事をプロとしてやっていけるかどうかの試験であって、翼をもった以上、クピドはもうクピドなんだよ」
「もう人生終ったって感じ」
「でも特典がある」
「なに?」
「愛を一件かなええるごとに、一日寿命がのびる」
「たった一日でしょう」
「結構愛を叶えなきゃいけないから、一日が数カ月にも数年にもなるよ。僕はもう平均寿命より十五年くらい長生きできるみたい」
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