第三章 愛野村へ

8

 ある日のこと。

「こんどの日曜日、気分転換にドライブへ行きませんか」と田中が誘ってきた。

「田中さんと?」

「ええ。これも教育の一環です」

「田中さんとドライブへ行くことが?」

「えっ? あっ、いいや、そうじゃなくて。愛野村ヘ行くことがですよ」

「愛のムラ?」

「ええ、その村を君にぜひ知ってもらおうと思って」


 日曜日、優慈が住む小樽から車で約二時間半、山林に囲まれた長い一本道をすすむと、道路の上に横断幕が見えてきた。


  キューピットの里へようこそ


「クピドを商売で使ってもいいの」助手席で優慈が聞いた。

「村おこしに協力しているんですよ」ハンドルを握りながら田中が答える。

「村おこしって?」

「君に一つ質問しよう。僕らクピドにとって最大の喜びは何だと思う」

「やっぱ、男と女の愛を結びつけることかな。どうしようもない不細工な女と、油肌の薄禿おたく男をいっぱしの恋人同士に仕立てるのって、まっ、それなりにやりがいはあるよな」

「君は、時々まともなことを言うよね」

「まあね、おれって、天才だから」

「で、我々クピドの喜びはね、多くの人々に感謝されて、クピドなり、キューピットの名前が世間に広まることなんだ。前に、有名人相手に仕事をしているやつがいるって言ったじゃない。覚えてる?」

「いや」


 田中の急な質問に、優慈は肩を萎めた。


 田中は話を続けた。

「報酬を得てカップルを成立させているって」

「へえー、お金をもらえるんだ」

「協会の中でも賛否両論があるわけだけど、彼らはクピドの知名度アップに貢献していると思うんだ。アイドルの愛を取り持ってあげたら、記者会見なんかで『キューピットのおかげです』なんて言ってくれるからね」と田中は言った。「それで、クピドは二つのタイプに別けられるの」

「ふたつ」

「そう」

「クピドが愛を叶える時は、まず消えるって言ったよね」

「うん」

「それがオーソドックな我々のようなタイプ。でも、クピドの中には消えないでそのまま翼を生やした姿で愛のカウンセラーのようなものをやっている人がいるんだ。結婚相談所ってあるじゃない。翼の能力を持たない普通の人間がやっているのがほとどなんだけど、中には顔を見せて自分はクピドであると名乗ってやっている人がいるの。クピドの宣伝と言う点では、この人たちがいちばん貢献しているかな。そういうタイプのクピドは結婚相談所だけじゃなく、この愛野村にもいるんだ」

「ふうん」

「クピドはもともと約束事があるの、地域の愛の世話をしろって。僕らみたいにそこそこ人口が多い所に住んでいるものはいろんな街で暮らせるし、仕事もできる。でもね、小さな町や村で生まれたクピドは、その地域から出られないんだ。他の人口の多い地域から助けも呼べない。クピドがいない地域では男女が結びつかないから益々過疎になる」

「大変だね」

「でも、愛野村はクピドの長老が健在だから観光客も集まり、かなり潤っているみたい。村おこしにもなっているし、長老自身もライフポイントを相当溜め込んで長生きしている」

「ライフポイントって」

「前に言いませんでしたか。愛をひとつ叶えるごととに一日長生きできるって。これから会うクピドは百四十歳くらいかな。もしも普通の人間だったらとっくに死んでいるよね。愛を叶えたおかげで長生きしているわけだけど、村としてもたった一人のクピドに死なれちゃ困るから村の予算の10%も使って万全の医療体制で世話をしているみたいなんだ」


 車は愛野村の役場前に到着した。


 人口二千人もいない簡素な村だったが、結構活気があり、土産物屋「らぶ&はーと」は、観光客で賑わっていた。それはたった一人の年老いたクピドのおかげだった。クピドは縁結びの神様でも占い師でもないが、全国から恋愛の相談に訪れるものが後を断たない。『男女の愛を叶えます』という商売は村の基幹産業であり、恋愛グッズやキューピット関連の商品を観光土産として売っていた。


 クピドは「らぶ&はーと」の隣に設けられたキューピット館にいた。キューピット館は赤や黄色やオレンジの縦縞模様のカラフルなエアドームで、中には直径七メートル程の空間があった。中央に丸いベッドがあり、太った白装束の老人が横になっていた。傍らに、白衣姿の医者と看護婦とスーツ姿の男がいて、老人を見守っていた。老人の体のあちこちにコードやチューブがつけられ、点滴の袋や心電計やわけのわからぬ計器とつながっていた。明らかにその肉体は弱っているようだが、顔立ちは百歳くらい。体は一頭のセイウチがベッドの上にいるみたいにおそろしく太っていた。


 優慈を見るなり、

「おまえは、いつも結ばれたいと思っているね」と聞いてきた。

 おいおい、このじいさんは何を言ってるんだ。優慈が思っていると、田中が優慈を見つめていた。あっ、こいつもしかしたらおれのこと好きなのかって優慈は思った。そして、田中はホモなのかと思った。クピドだから女の子と結ばれないのではない。ホモだから結ばれずに独身を通しているのだ。それで納得できる。そうか、田中はホモか。


「いや、そうじゃないんです。私は田中と申します。あ、これは森村少年」田中は老人に優慈を紹介した。

「こんにちは」優慈は取りあえず老人に挨拶をした。

「そうじゃないとは」と老人。

「クピド協会から連絡がきませんでしたか。見学に行くと」

「聞いていたかもしれんな。でも、おまえらとは思えんかった。おまえ、クピドっていう顔してないからな、こっちの坊主はそれなりに」

「ひどいな、もう」

「証拠を見せてみろ」

「でも、一般人の前で」田中は医者と看護婦、スーツ姿の男を見やった。

「ここはキューピットの里だ。かまわない」


「じゃあ」

 田中は両目を軽く閉じ、深呼吸し、吐く息ととも、背中に翼を出した。医者たちは見ていたが、別に驚きも感動もしなかった。が、なぜか看護婦が、プッと短く吹き出した。


「羽ぶりがいいな。いままで何ポイント溜まった?」

「五千五百ポイント程。好田さんは」

「三万」

「と、言うと、えーと、だいたい八十年近くですか」と田中。

「いまいくつなの?」優慈は聞いた。

「百四十四歳」

「すげぇ、そんなに生きてるんだ」

「今引退してもあと二十年は生きられる。で、若いの」

「あっ、おれ?」

「おまえも翼を見せてみろ」

「こいつは見習いで、まだ、ちっちゃな翼しか出せないのです」田中が言い繕った。

「かまわん。さあ」


 じいさんに促され、優慈は翼を出そうとした。しかし、

「あれ」

 翼が出ない。そう、優慈はいやらしいことを考えたり、いやらしいものを見ないとまだ翼を自由に出せないのだ。

 いやらしいことを考えようとしてもこんな老人の前で、こんな空気の悪そうな建物の中で、卑猥なイメージは湧いてこない。


「どうした」田中が耳元で聞いてきた。

「エッチな想像ができない」

「じゃあ、看護婦を脱がせろ」

「ちょっと年がいってる」

「いいから脱がせろ」


 看護婦は四十歳に近かった。美人でもないし、普通のおばさん顔だったが、優慈はちょっいやらしいことを想像し、翼を出した。


「ほう」と老人。

「ほう、って?」と優慈。

「見事だ。小振りだが、無駄がない」

「あ、今の言い方って、私の翼には無駄があるみたいに聞こえるんですけど」

 田中が横から口を挟んだ。

「おまえのはハサミでばっさり切ったほうがいいな」

「ええっ、そんなぁ」

「で、今日は何のようだ?」

「仕事を見せてもらおうかなと」

「これから昼寝の時間だ。あとにしてくれ」

「はい、わかりました」

「それと若いの。おまえは突然変異ではないな」

「どういうこと」

「おまえはクピドになるべくして生まれたんだな」

 そう言ってじいさんはそのままベッドで横になった。

 優慈はこのじいさんが何を言ってるのか、さっぱりわからなかった。


 表に出ると、今日ここへ来た目的を田中は優慈に伝えた。

「ひとつはクピドの仕事を生で見ます。よく見るのですよ。先生、あとで感想文を書かせるかも知れません」

「ええっ」

「ええっって、言わないの。で、もうひつの目的は弓です」

「弓?」

「ええ、弓は我々クピドの必需品です」と田中は言った。「街でも売っているけど、先生はこの愛野村の弓がとっても気に入っています。出来栄が素晴らしいのです。それはあの好田老人が工房の弓づくり職人を永年鍛えてきたからでしょう」


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