第30話 ダメダメな二人。
日曜日の朝、十時。
約束どおりの時間に、有馬真一は音無千鶴を迎えに来た。長袖の白のカットソーにジーンズ姿のラフな格好だ。呼び鈴に答えて出えてきた千鶴の顔を見た途端、長い指先で彼女の鼻先をつつく。
「な、何?!」
突然触れられ、千鶴は慌てって両手で鼻を隠す。
「鼻先が少し赤いね。何にぶつけたの?」
「……壁」
わずかな逡巡の後、千鶴は不承不承ながら正直に答えた。
「ちゃんと、前を見て歩いてね。おれが心配だから」
「……」
(やっぱり、真一はおかしい)
千鶴は鼻先を気にしながら視線を真一へ向ければ、彼もこちらを見ていた。
「何?」
「べ、別に……」
千鶴はふいっと真一から視線を逸らした。
ここ数日、明らかに真一は千鶴をからかうことがなくなっている。もちろん、からかわれたいわけではない。
でも、調子が狂って、正直困っている。
「じゃあ、行こうか」
そう言うと、真一は右手をさし出してきた。千鶴は不思議そうにその手を見つめる。
「……何? この手は……?」
「何って、手を繋ごうと思って出しているんだけど?」
「は? 何、言ってんの?! もう子供じゃないんだよ。手なんか繋がないでしょ」
「そうかな? 子供でなくても手を繋いでいる男女は多いと思うけど?」
「それはお付き合いしている人達の話でしょっ!」
「………じゃあ、キノも付き合う人とは手を繋ぐんだ?」
「そ、そりゃ、私だって,……その………付き合った人とは………そりゃ……ほら、ねぇ……」
律儀に答えようとした千鶴だったが、途中からはもぞもぞとした口調になってしまった。真一と違って千鶴は一度も異性と付き合った経験がない。
でも、付き合った人とは学校から一緒に帰りたいとか、手を繋ぎたいとか、いろいろ恋愛に淡い夢を抱いている。
だからと言って、そんな事を自分家の玄関先で、それも真一相手に夢を語るというのもどうなのか。
そんなことを悶々と考えていた千鶴は、はっとする。真一がくるりと背を向けてすたすたと歩き出したのだ。
「ち、ちょっと! 置いていかないでよ!」
千鶴は慌てて真一の後を追いかけた。すぐに追いつき横に並べば、真一の切れ長の目がちらりと千鶴を見る。
「……キノが迷子になりかけたら、その時は強制的に手を繋ぐから」
「へ?! 何の心配してんの? 迷子になんかならないよ! 子供じゃなんだからね!」
舌を出して否定をすれば、真一がくすくすと笑いだした。
「何がおかしいの?」
「いや、ちょっといろいろ思い出したから……」
「何を?」
怪訝な顔で千鶴が訊けば、真一は笑いながら近くの溝を指さす。
「例えば、キノがはまった溝って、ここだったよね?」
「?! やだっ! 何を変なことを思い出してんのよ!」
千鶴は焦った。何を言い出すかと思えば、出来る事なら消し去ってしまいたい千鶴の過去の悲劇だった。
「あの家で昔飼われていた犬は『パンツ犬』って呼ばれていたよね。キノもパンツを引っ張られて泣かされてたね」
「! ち、ちょっと、止めてよ!」
「ほら、あの木って、確か……」
「もおぅぅぅぅぅぅっ、止めて!」
目を輝かせてまだ言い続けようとした真一の口を、顔を引き攣らせた千鶴が慌てて両手で押え強引に黙らせる。肩で息をしながら睨む千鶴を、真一はもの言いたげな目で見下ろしてくる。
「ぎゃっ!」
突然、千鶴は火にでも触れたかのように、真一の口から手を離した。
「信じられない! 今、嘗めたでしょ!」
顔を真っ赤にして怒る千鶴の姿を、真一は平然と見ている。
「正当防衛だよ。口を塞がれたら、苦しいじゃないか」
何食わぬ顔でしれっと言い返してきた。
「何が正当防衛よ! 真一が人の恥ずかしい過去を言うからでしょ!」
「別にいいじゃないか。他に誰もいないし、二人の楽しい思い出……」
「楽しい思い出じゃなーいっ!」
千鶴は力いっぱい叫んでいた。すでにいつもの二人に戻っている。
でも、その事に千鶴自身は気付いていなかった。二人の間にあったぎこちない雰囲気がきれいさっぱり消え去っていることに。
だが、きっとこの場に千鶴の親友である三嶋舞がいれば、
『ダメだわ。この二人……』
と、本人達より二人の気持ちに気付いている彼女は呆れて溜息を漏らしていたに違いなかった。
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