第29話 戸惑い。

 夕食の後、真一はいつものように勉強を教えてくれている。いつもと変わらない日常。そう、いつもと変わらない……。


『覚悟しててね』


(じゃあ、あの言葉は一体何だったの?!)


「……ノ…………キノ……キノ?!」

「え? あ、はい?!」

「……俺の説明、全然聞いてないみたいだね」


 テーブルを挟んだ向かい側で真一が千鶴をじっと見つめていた。思わず顔がかっと熱くなる。


「き、聞いてるよ! こ、ここを読めばいいんでしょ!」


 動揺を誤魔化したくて、千鶴は手にしていた本を慌てて開き、真一から顔を隠した。


「……」

「何をやってんの? 教科書が逆さま。それじゃ読めないでしょ? ……それに、今は英語じゃない。数学だよ」

「あっ……」


 持っていた英語の教科書が手からするりと引き抜かれ、千鶴は茫然としたまま教科書の軌跡を追う。

 そして、それは真一の手元でパタンと音を立てて閉じられてしまった。


「────全然、勉強に集中出来てないよね。今日は、もう終わりにしようか?」

「……ごめん」

「謝らなくてもいいよ。そんな日もあるから」

「……」


 もし、変わったことがあるとすれば、真一が何だかとても優しくなっていることだ。いつもなら、からかってくるか、嫌味の一つは言っているはずだ。


(何で? ……もう、分かんないよ!)


 千鶴は頭を掻きむしりたくなった。

 近頃、真一の言動や仕草にいちいち振り回されてしまう。特に今日は、真一がせっかく勉強を教えてくれているのに、まったく勉強が手につかない状態だ。千鶴は自分の不甲斐なさに泣きたくなってくる。


(明日は絶対にちゃんと勉強に集中しよう!)


 心の中で固く決意する千鶴を真一が呼ぶ。


「キノ」

「……何? 真一」

「次の日曜日も部活?」

「ううん、次の日曜は久しぶりに休み」

「予定は?」

「まだ、な~んにも」

「じゃあ、付き合ってよ」

「ええっ?! つ、付き合う?!」


 真一は微笑んでいた。

 仲が良かった子供の頃に戻ったような、とても久しぶりに見る無邪気な笑顔だった。その笑顔が眩しい。


「あっ!」


 重ねて持ち上げようとしていた教科書とノートが千鶴の手から滑り落ち、バサバサと音を立ててテーブルの下へ落ちていく。


「大丈夫か? 怪我は?」


 心配そうな声と共に真一が急いでテーブルを回って来る。


「だ、大丈夫。そ、それより! つ、付き合うって……」

「うん。最近開店したパンケーキの店が美味しかったって佐倉が言っていたんだ。行ってみたいんだけど、さすがに俺一人では行けないからね。付き合ってよ、キノ」


 あからさまに狼狽え始めた千鶴に対し、真一は落ち着いた様子で散らかってしまった教科書やノートを拾い上げている。


(なんだ、そういう事……。それに、一人って……。真一ってば、付き合ってる人はいなかったんだ!)


 体の奥から笑いがこみ上げてきた。


「アハ、アハ、アハ……」


思わず変な笑い方をしてしまった千鶴に、真一は首を傾げる。


「……嫌?」


 どこか不安そうな声で真一が聞いてくる。


「ううん。私も行ってみたい!」

「そう。良かった」


 真一の目がふっと和らいだ。


(真一って、そんなにパンケーキが好きだったんだ!)


「すっごい並ぶって聞くよ? でも、一度は行ってみたいなって思ってたんだ!」

「じゃあ、決まりだね」

「うん!」


 嬉しそうに返事をすれば、見つめてくる真一の目がさらに優しく細められた。千鶴は心の中で、真一がいつもこんなに優しければいいのになと思った。

 だが、その一方で、胸の奥がそわそわする感じに戸惑ってもいた。

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