第19話 四つ葉のクローバー。
四つ葉のクローバーは幸せの象徴。
客用布団のカバーの柄は大小のそれで覆いつくされている。この布団を使っていたのは小学生だった頃の千鶴だ。彼女は毎年夏休みになると、数日間だけだが、真一の家に泊まることがあった。
昨夜はその布団に要が寝るのかと思うと、どうしても嫌だと思ってしまった。要も驚いていたようだが、真一は自分のベッドを譲り、千鶴との思い出が詰まった布団に包まって眠りについた。
布団に対してでさえこのあり様だ。出口の見えない千鶴への想いがどんどん膨らんでいるような気がしてならない。彼女のことを考えながら眠ったせいなのか、とても久しぶりに子供の頃の夢を見た。
初めは千鶴に対して何の恋愛感情もなかった。
ただ、千鶴の話をすると母の表情が和らぐから、いつも千鶴の話しばかりしていた。時には笑い声を聞くこともできたから。
『千鶴ったら、鬼ごっこばかりするんだ。でも鬼ごっこって、いろんな種類があるんだよ。高鬼に色鬼、けいどろに隠れ鬼、缶蹴りもしたことがあるよ。「ぼんさんが屁をこいた」なんて変な名前のもあるんだ。昼休みはドッチボールをしてる。千鶴と遊んでると、ずっと走ってるような気がする。そのせいなのかな、千鶴はとても足が速いんだよ。勝てるのは僕と千里だけなんだ』
『母さん、今日、千鶴はランドセルを逆さに背負って地面に中身をバラまいたんだ。すごくびっくりした』
『今日、千鶴ったら犬のうんこを思いっきり踏んづけたんだ。僕が笑ったら、千鶴、僕を引っ張ったから、僕も犬のうんこを踏んでしまったんだ。母さんも犬のうんこを踏んづけてしまったことある?』
彼女が繰り広げる日常のあれこれを母へ披露することが真一の日課になっていた。
そして、それをきっかけにして少しずつ母との会話ができるようにもなっていた。
だが、いつのまにか彼女といることがただ面白くて、楽しくて、ずっと一緒にいたくて、自分のために千鶴のそばにいるようになっていた。
『し~んいち! あ・そ・ぼっ!』
子供の頃の千鶴は、呼び鈴の使い方を知らないのかと疑うほど、真一を遊びに誘う時は必ず彼の部屋の窓に向かって大きな声で名前を叫ぶ。それは門の外からだったり、向かいの窓からだったり、彼女の気まぐれでどこからでも呼ぶので、まず彼女の姿を探さなくてはならなかった。
そして、真一が窓を開け、声の主を見つけることができると、彼女は決まってとびきりの笑顔を浮かべた。その無邪気な笑顔を目にするたび、空虚だった真一の心は満たされていた。
千鶴は家柄や見た目で人を判断なんてしなかった。一人の人間として真一を真っすぐに見てくれた。千鶴が真一の名を呼ぶたび、鉛のように重く動くことなどなかった心が心地いい音を響かせて弾むのだ。
真一が以前いた学校には、千鶴のような子供はいなかった。いたのかもしれないが、真一のまわりには一人もいなかった。
旧家の御曹司であり、尚且つ大手で有名なグループ企業の総帥である父を持つ真一は、富裕層の子弟が通う学校に身を置いていた。
だが、真一はクラスに、いや学校自体に馴染めなかった。
『お父さんが、有馬君とは仲良くしたほうがいいって言うんだ』
近づいて来る子が良く口にする言葉だった。何に対して『いい』と言っているのか、言っている本人が理解出来ていないことが多かった。低学年では当然だ。
だから、しばらくすると『つまらない』と言って去って行く。
だが、時には感覚で理解している子も稀にいて、真一の側に居ることが重要だと、ただそのためだけに近づいて来る子達もいた。
『カナダにまた別荘を買ったんだ。これで別荘は5つになる』
『私のお父様ったら、また車を買ってしまったの。もうすでに車庫には4台もあるのに。だから、どこに置くかまだ悩んでいるのよ』
『久しぶりにドバイにある七つ星のホテルに泊まってきたんだけど、そのホテルの部屋が……』
休み時間になると必ず自慢話が始まり、真一を憂鬱な気分にさせた。内容もどうでもいいことばかりで、興味を引くような話など皆無だった。クラスには陰湿な虐めこそなかったが、自分の自尊心を満足できそうな人を探すクラスメイト達の姿にいつも辟易していた。
だから、真一はいつも教室では本を読むか、窓の外を眺めて時間が過ぎ去っていくのを待っていた。
そんな真一に対し、時々「女顔」だとからかってくる者もいたりしたが、ただ鬱陶しいだけで、相手にするのも面倒なので、学校ではわざと人を寄せ付けない雰囲気を出すようにしていた。
そのせいなのか、いつのまにかそれが板についてしまって、本来の自分がどんな性格だったのか分からなくなっていた。
だが、それさえどうでもよかった。
そんな学校のことよりも、真一の母が旧家のしきたりに縛られ、父方の親戚や姑からの嫌がらせに耐え続け、次第に弱っていくことの方か心配で仕方がなかった。
父は両親の反対を押し切って母と結婚をしたらしい。母はすでに両親を亡くしていて、天涯孤独の身だったという。その母の事をまだ幼い真一にも聞こえるように罵る親族達の姿が人の皮を被った悪魔か鬼のように思えてならなかった。母は自分を選んだ父のため、父の親族達に認めてもらえるように必死だった。そんな母の姿を真一はどうすることもできず、ただそばで見守ることしか出来なかった。
『真一、私は大丈夫。大丈夫なの。お父さんには、何も言わないでね。約束よ』
母はいつもそう言って、真一に口止めしていた。母は多忙だった父に心配をかけたくなかったのだろう。父は母と真一の事をとても大切にしてくれていたが、仕事で家を空けることの方が多かった。
だが、母の状況に気付いていない父ではなかった。母をかばいいつも冷静沈着な父が激怒しているところを何度か見たことがある。その後しばらくの間、悪魔や鬼達は鳴りを潜めるのだが、それはほんのつかの間のことで、母はとうとう倒れてしまった。
父と母は話し合い、離婚を選んだ。
その時は、もうずっと笑わなくなってしまった母を捨てるのかと、父に対し憤りを感じていた真一だったが、今は父の気持ちが痛いほどわかる。
おそらく、あのままでは母の心は完全に壊れてしまっていただろう。
しかし、母の性格からだと、父が母を選び一族を捨てたとしても、きっと母は自分の至らなさが原因なのだと自分を責め続けたに違いない。
そう、父は離婚という形で、あの家に縛られていた母を自由にしたのだ。
そして、あの父のことだ。表面上では、母を自由にはしたが、手放したわけではない。どんな手を使ったのかは分からないが、今は仕事にかこつけて母と逢瀬(おうせ)を重ねているようだ。おそらく母が出張する先々で待ちかまえているか、自分のいるところへ出張させるように母の会社へ手をまわしているのかもしれない。母もどんなに忙しくても今の仕事が楽しそうなので、真一は心の底から安堵している。
それに、母に何かあれば、父がすぐに動くだろうし………。
だが、そんな父でも、真一でも出来なかった、感情が抜け落ちてしまっていた母に笑うということを思い出させてくれたのは千鶴だった。彼女は、止まってしまっていた真一親子の歯車までも動かしてくれた。
千鶴には、どんなに感謝してもしきれない。
そして、太陽のように明るくて元気な千鶴に、真一はいつのまにか好意を寄せるようになっていた。それもこの世にたった一人の特別な存在として心の底から求めている。
砂漠で水を欲する旅人のように。
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