第14話 片思い。

『あ、あれはコショウと間違っただけ……』


 頬を赤く染め、むきになって言い訳をしようとする千鶴の姿に、真一は思わず両手を伸ばしていた。彼女の柔らかな頬を両手で包む。触れた場所から電流のように流れ込んできた熱が、心の奥に紅く火を灯す。

 どれほど側に居たとしても、触れることなどめったに出来ない。今のように触れてしまえば、熱が胸を焦がす。近頃は気を引き締めておかないと、無意識に触れてしまいそうになる。いつか抱きしめてしまうかもしれない。

 その事に千鶴が気付いているのかは分からないが、真一が近づくと表情が硬くなり、何となく警戒されているように感じる。


(つい触れてしまったが、きっとすぐにこの手は振り払らわれてしまうだろうな……)


 そう覚悟をしていたのだが、千鶴は振り払うどころか、両頬を包まれたままじっとしている。

 

「……今日は、大人しいね。どうしたの?」


 苦笑し、問いかける真一の声は掠れていた。

 

「いつもみたいに、早くおれの手を振り払ってよ」


 情けない事だが、真一は自分からは手を離すことは出来そうになかった。まるで嘆願するように言えば、千鶴が優しく微笑む。すべてを許してくれるような、少し大人びた笑みだった。

 さらに、柔らかな手が真一の手の甲に重ねられた。


「!」

 

 真一の鼓動が痛みを伴うほどドクッと大きく鳴った。見つめる先で、千鶴がそっと目を閉じたのだ。

 その姿を目にした瞬間、真一の中で何かが弾け飛んだ。己より小さな体を掻き抱くように抱き寄せ、強引に薄紅色の唇を奪う。


 ジリリリリリリリッ


 枕もとに置かれた目覚まし時計がけたたましく鳴り響き、真一は目を覚ました。気だるげに時計を止め、辺りを見回す。


「……夢、だったのか──」


 ため息と自嘲とが入り混じった声で呟き、右手で顔を覆う。


(もう一度眠れば、夢の続きを見ることが出来るのかな?)


 一瞬そんな考えが脳裏を過ぎった。夢だと分かった今でも余韻がまだ体の奥で燻ぶっている。

 しかし、すぐにその考えを打ち消すかのように、軽く頭を振った。

 もし、夢の続きを見てしまったら、次に千鶴に会った時にまともに彼女の顔を見れる自信がなかった。


(いや、何もしないでいられるかどうかも分からない……)


 真一は徐に立ち上がると、着替えを掴み浴室へと向かった。熱いシャワーを頭から浴び続けるが、夢の中の千鶴の姿がなかなか頭から離れてはくれない。

 無防備に頬を染めながら言い訳する姿に思わず手を伸ばしてしまった。そこまでは、昨日実際に起きたことだ。

 しかしながら、その後は夢とは全く違う。甘い要素など皆無で、いつものようにただ千鶴を怒らせてしまっただけだった。


(仕方がないじゃないか)


 ついやさぐれた気分になる。

 『可愛い』と思った瞬間、思わず彼女の頬を包む手に力が入り、意図せずに千鶴の顔がまるでひょっとこのようなひどく滑稽なものになってしまったのだ。そんな顔を見て、笑わずにいられる者などいないだろう。まったく悪気はなかったのだから許して欲しい。それがどれほど大爆笑だったとしてもだ。


「はぁ……」


 濡れた体を拭い、白いシャツに腕を通しながら溜息を漏らす。

 千鶴は高校生になってからというもの、雰囲気が随分と変わってきている。

 中学の頃は、もっと髪だって短く、部活も陸上部だったこともあり、肌の色は綺麗な小麦色で、弾けるような笑顔を向けられれば、さながら元気な少年にしか見えなかった。

 だから、千鶴の可愛さに気付いているのは自分だけなのだと、心のどこかで油断していた。唯一、真一が敵視していた男もすでにこの国にはいなかったことも大きい。

 しかし、今の千鶴は、先日佐倉要が言っていたように、いつのまにか他の男の目から見ても普通に女の子として可愛くなってしまっているようなのだ。肌だって、体育館で行われる部活に入っているせいもあって、すでに白い。髪の長さももうすぐ肩につきそうだ。

 もう男に間違われることはないだろう。


(このままでは、どこの馬の骨なのかも分からない男が千鶴に言い寄って来るのも時間の問題だ。恋愛に疎い千鶴は、きっと甘い言葉一つで簡単にほだされてしまうに違いない。高校は同じ学校へ行き、側で目を光らせておくべきだったんだ……)


 痛恨のミスだった。

 『真一の学校って、高等部の制服がすごくかっこいいよね。真一が着ているところ見てみたいな』と、笑顔で言った千鶴の言葉が蘇る。


(千鶴にかっこいいと言われたい!)


 その思いの所為で、まるで暗示にかかってしまったかのようにそのまま高等部へ進んでしまったのだ。

 真一は千鶴への想いは自分からは告げないと心に決めている。

 大怪我を負わせる原因を作った者として千鶴が欲しいなんて、そんな図々しいことが言えるはずがない。

 一度は千鶴から離れようとした。

 しかし、自分がどれほど彼女のことを必要としているか思い知らされただけだった。


(千鶴のいない空虚な生活にはもう二度と戻りたくない……)


 つまり、真一はずっと長い間、千鶴に片思いをしているのだ。


(きっと千鶴は信じないのだろうけど……)


 思わず苦笑が漏れる。

 真一は自分の手を見つめ、力強く握り絞めた。

 だが、もし千鶴が真一に対して好意を持ってくれたなら、話は別だ。千鶴への想いを隠し続ける必要は無くなる。


(気持ちを打ち明け、千鶴を捕まえる)

 

 そのために、真一はこれまで自分を磨く努力をし続けてきた。すべては千鶴に選ばれるためだけに。


(うっかり千鶴が別の男を選んでしまったら?)


 とても嫌な考えが浮かんできた。

 今までたまたまなかっただけで、これからも無いとはいえない。


(なぜ、おれは千鶴と同じ学校へ行かなかったんだ……)


 暗澹たる思いを抱え家を出た真一は、重い足取りのまま学校へと向かうのだった。

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