第13話 手料理。

 夕闇の中。

 暖かなオレンジ色の明かりが灯るお洒落なイタリアンレストランで、楽しそうに食事をしているのは、音無千鶴の母の桜子(さくらこ)と有馬真一の母の綾芽(あやめ)だった。


「綾芽さん、今日は夕食にお誘いいただいて、本当にありがとう。どのお料理もとても美味しいわ。私、すごく幸せ。うふふ」


 花が綻ぶように笑う桜子の姿を見て、つられるように綾芽も微笑む。


「桜子さんに喜んでもらえて本当に良かったわ。こちらこそ、いつも私達親子がお世話になっています。桜子さんと千鶴ちゃんには、どんなに感謝しても感謝しきれないわ」

「感謝だなんて、綾芽さんはいつも大げさね」

「いいえ、本心よ」


 そう言って綾芽は桜子のグラスに白ワインを注ぐ。桜子は笑みを深くしてお礼を言うと、そのグラスを手に取った。


「……私達は何も特別な事はしていないわ。ただ真一君と一緒に食事をしているだけ。真一君が美味しそうに食べてくれるから夕飯も作り甲斐があって楽しいのよ。それに、真一君はあの勉強が苦手な千鶴に勉強を教えてくれているわ。とても丁寧にね。綾芽さんだって、お米や野菜、珍しい果物をお土産って言いながら何かと持って来てくださるでしょ? 感謝しているのは私達の方よ」


 桜子は姿勢を正した。


「いつもありがとうございます」


 頭を下げる桜子に対し、綾芽は止めてよ、と言いながら左右に首を振る。


「……桜子さんのお宅に、私達親子が初めて挨拶に行った日の事を覚えているかしら?」

「ええ、覚えているわ。綾芽さんがとても素敵で、真一君がとても可愛かったわ~」


 両手を合わせ目を閉じた桜子はその時の事を思い出しているのか、うっとりとした表情で呟く。


「もう、嫌だわ。桜子さんったら」


 顔が整っている分どこか冷たく見える綾芽だったが、桜子に褒められて頬を染める姿は、とても可愛らしかった。

 だが、ふと綾芽の顔から笑みが消える。


「……最近、こうして生活が落ち着いて来たから特に思うようになったのよ。桜子さんのお隣へ引っ越して来ていなかったら、私と真一はどうなっていたのかしら?って……」


 綾芽は桜子に視線を合わせた。その表情はどこか思いつめているようにも見える。


「……桜子さんのところでお茶をいただいて家へ戻って来た時に、真一に言われたの。『お母さんって、笑えたんだね』って」


 少し驚いたように一瞬目を見張った桜子だったが、すぐに優しく包みこむような眼差しで綾芽を見つめ返した。綾芽は固い表情のまま言葉を続ける。


「実は、……私も真一があんなに笑っている姿を見るのは初めてだったのよ。あの時、真一は笑っていたけれど、目には涙を浮かべていたの。あの子は、私が笑えると知ってなんだかほっとしたら勝手に涙が出て来たって言っていたわ。その日から、私達は少しずつ話をするようになったの。……私と真一はとても長い間ボタンを掛け間違ったようにどこか歪な状態で暮らしていたんだわ。でも、それに気付けないほど私には余裕がなかったのよ」


 綾芽の目にうっすらと涙が浮かんでいた。


「真一が中学受験をするって言いだした時もそうね。私の仕事も忙しくなって、あの子の異変に気付いていてもどうしてやることも出来なかった。誰とどこにいるのかも分からない日もあったわ。そんな私達親子に惜しみなく手を差し伸べてくれたわね。桜子さんの所で夕食を食べるようになってからは、真一の表情が本当に良くなったのよ」


 そう言うと、綾芽は突然笑みを浮かべた。雨が上がった後の青空のような笑みを。


「私達は桜子さんと千鶴ちゃんに出会って、すべてが良い方向へ変わったわ」

「綾芽さん……」

「特に、真一は変わった。目を見張るほどにね。あの子は元々何にも関心を示さなかったのよ。でも、千鶴ちゃんのこととなると違うみたいね。……真一は千鶴ちゃんが好きなのよ。迷惑ばかりかけているのに、ごめんなさいね」

「あら、どうして謝るの? 真一君はとても千鶴のことを大切にしてくれているわ。それに、千鶴も真一君のことが好きなのよ。でも、あの子ったらまったく自覚がないの。とっても鈍感なのよ」


 『困った子よね~』と、桜子は溜息を漏らす。


「あら、本当なの? 桜子さん!」


 パッと表情を真剣なものに変え、綾芽は身を乗り出た。桜子が笑顔で頷くと、二人はお互い『ふふふ』と笑い、ほほ笑みを交わし合うのだった。



************



「こんばんは……」


 いつものように、夜の7時になると、真一が千鶴の家にやって来た。

 だが、今日は扉を開けた千鶴の姿を見た途端、涼やかな目を丸くする。


「……エプロン?」


 真一は唖然としながら呟く。出迎えた千鶴は制服の上からエプロンを付けていた。もちろん彼女の母親のエプロンだ。フリルの付いたピンク色の非常に可愛らしいタイプのものだ。


「今日の夕飯は、私が作ります!」


 そう宣言すると、千鶴は玄関で突っ立ったままの真一に背を向け、急いでキッチンへ戻った。ちょうどパスタを茹でている途中だったのだ。火から目を離してはいけません、と千鶴は母からきつく注意されていた。


「お母さん達、今日は外で夕飯を食べるんだってね」


 ピーマンを切りながら、リビングに入って来た真一へ話しかける。


「お母さん達?」

「そう。私のお母さんと真一のお母さん」

「……」


 どうやら真一は母親達が一緒に出掛けている事を聞いていなかったようだ。


「真一、ちょっと待っててね、私、少し前に帰って来たばかりだから、まだ夕飯出来てないの。サラダとスープは作ってくれているんだけど、なぜかメインのスパゲティーは私が作らないといけないんだよね」

「……何を作るつもり?」

「ナポリタン」

「ふ~ん」


 ふいに千鶴は顔を上げた。真一が近づいて来る気配を感じたからだ。真一は腕まくりをしながらキッチンの中へ入って来る。


「……何? どうしたの?」

「おれも手伝うよ」

「え? いいよ……」

「二人でやった方が早い。……おれがナポリタンを作るから、キノはお皿の用意をしてくれる? お皿の場所とか分からないからさ」

「いやいや、私が作るよ」

「……前に、キノが作ったナポリタンはシナモンまみれだった」


 ぼそりと呟いた真一の言葉に、千鶴の頬が一気に赤く染まる。


「あ、あれはコショウと間違っただけ──」


 慌てて言い訳をしようとした千鶴の両頬を、真一が両手で挟んだ。両頬を押されていてはうまく話すことが出来ない。


「む、むぐっ……」


 それでもしゃべろうとする千鶴の顔を見て、真一が勢いよく顔をそむけた。


「ぷっ、……く、くくっくっ!」


 笑いを堪えているようだが、声が漏れている。千鶴は真一の両手首を掴むと、自分の頬から力いっぱい引き剥がす。


「ちょっと! 何笑ってんのよっ!」

「ああ、ごめん。ごめん。でも、早く食べたいんだ。千鶴の手料理はまた今度作ってよ。楽しみにしているから」

「……」


 珍しくそんな言い方をされてしまったら、千鶴は何も言えなくなってしまう。

 この前の黒焦げのケーキを食べてからというもの、真一の雰囲気が変わったような気がする。どこがどう変わったのかはうまく言えないのだが。

 千鶴は気持ちを切り替えるように体の向きを変えると、冷蔵庫の扉を開けた。

 そして、振り返る。


「真一、必要なものは?」

「オリーブオイルとケチャップ。バターも欲しいな。ソースも少し入れようかな。それと塩、それから、……コショウ?」


 真一がちらりと視線を向けきた。千鶴は言われたものを台の上に並べ、最後にコショウを勢いよくドンッ!と置いた。


「ヨ・ロ・シ・ク!」


 とうとう真一は声を上げて笑った。


「……了解」


 笑いがおさまると、真一は手際よくナポリタンを作り始めた。

 確かに、真一が言ったように、二人ですればあっという間に夕飯は出来上がった。千鶴がサラダとスープ、バケットを切ってをテーブルへ運んだりしている間に、真一はナポリタンを作り終えてしまったのだ。

 正直、部活をして帰って来た千鶴はかなりお腹がすいていた。だから、少しでも早く夕食を食べられることはとても有難かった。


「いただきま~す!」

「いただきます」


 たった二人で夕飯を食べるというのは、何とも不思議な感じがした。


「味は、どう?」


 ナポリタンを口に入れた途端、向かいの席から作った本人が聞いてくる。


「……とても美味しいです」


 千鶴は素直に感想を口にした。本当に美味しかった。

 それも、文句のつけようがないほどに。

 千鶴はガクリと肩を落とす。『天は二物を与えず』というが、真一の場合、二物も三物も与えられているように思えてならない。


「そう、良かった」


 ほっとしたような真一の声が聞こえてきて、千鶴は顔を上げた。視線が合った途端、真一が微笑みながら言った。


「こういうのも、たまにはいいね」と。

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