第11話 手作りのケーキ。
焦げた匂いがキッチンを満たしていた。換気扇をフル稼働しているのに、一向に消える気配がない。
「……」
自宅のキッチンで、茫然とした表情のまま立ち尽くしているのは、音無千鶴だ。彼女の目の前に置かれた白い皿の上には、真っ黒な物体が横たわっている。その正体とは、それは見事に焦げたパウンドケーキだった。
事の発端は、親友の三嶋舞と、幼馴染の有馬真一と共に駅前でお茶を楽しんでいたのだが、千鶴は途中で席を立たねばならなくなった。用事を済ませ、急ぎ戻って来てみれば、真一の姿はすでに無く、待っていてくれた舞が真一が支払いを全部済ませてくれたと教えてくれた。家に戻ってくるとすぐに、千鶴はお礼のつもりで真一が大好きなパウンドケーキを焼くことにしたのだ。
だが、どうしてなのか、出来上がったものは、まったくケーキには見えないこの黒光りした真っ黒な塊だ。
「どうして、こうなった?」
いつも母がとても楽しそうに作っている姿を見ている千鶴には、とても簡単そうに見えていた。
(なのに……)
出来上がってみればこのあり様だ。何がいけなかったのかも分からない。眉間に皺を寄せ、苦悩する千鶴の耳に、インターフォンの鳴る音が飛び込んできた。顔を上げれば、時計の針は夜の8時を指している。親戚の家に行っている母が帰って来たのならば、自分で鍵を開けるはずだ。
(こんな時間に誰?)
急いでインターフォンに出た千鶴は、モニターに映し出された顔を見て思わず『うげっ』と短く叫ぶ。
『……変わった挨拶だね』
声の主は相変わらず嫌味な事しか言えない男、真一だった。『うげっ』が挨拶なわけがない。反射的に千鶴はモニターを消す。
「ど、どうして来た?」
千鶴は酷く動揺する。
土曜日と日曜日は通常真一は音無家には来ない。母親の仕事が休みなので、真一は自分の家で夕食を食べるからだ。
(まさか! 私がケーキを失敗したのがバレた?!)
忙しなく目を彷徨わせていた千鶴の視線がキッチンに置かれた黒い物体へ注がれる。
ガチャッ
「ぎゃっ!」
リビングの扉が勝手に開き、驚いた千鶴は悲鳴を上げ、文字通り飛び上がった。『こんばんは』と言いながら、姿を現したのは真一だった。
「……」
真一は尻もちをついた状態で池の鯉よろしく口をパクパクと開け閉めしている千鶴を無言で見下ろしてくる。
「な、な、な、な……」
「何で入れたか、って? 玄関の鍵が開いていたよ。不用心だな、キノ」
「ど、ど、ど、ど……」
「どうしてここにいるのか、って? 出張先の北海道で母さんが買ってきたお土産のメロンを持って来たんだ」
そう言って、真一は手に持っていた袋を千鶴の前に置いた。
「メロン?! 嬉しい! ありがとう! 真一のお母さんは凄いよね~、日本中を飛び回ってるんだもんね! 今度の出張は北海道だったんだ!」
喜々として千鶴はお土産の袋に飛びつく。
「……キノだけ? 桜子さんは?」
母が『桜子って呼んで』と言ったので、真一は母を『桜子さん』と律儀に呼んでいる。
「親戚の家に行ってるの」
目を輝かせながら箱の中のメロンを見ていた千鶴は、真一がキッチンの一点をじっと見つめていることに気付いていなかった。
「すごいっ! 編み目だよ! 高級品だよ! メロン大好き! ありがとう! ちゃんとお母さんにお礼を言ってよね! 真一!」
「キノ、あれ何? あの黒い塊は……?」
鼻歌を歌いだしそうな勢いでメロンを取り出していた千鶴は、真一のその言葉で凍り付いた。
「えっ………」
ギギギッと音がしそうな動きで首を回せば、真一の視線は失敗したケーキに向けられていた。
(やばい! 絶対に真一にだけは見られたくなかったのに!)
「あ、あれは、……そ、その─────」
「ケーキ、……だよね? 一人で作ったの?」
「! ケーキって、分かるの?!」
「まあね」
ケーキだと分かってもらえたことが嬉しくて、千鶴はここに至るまでの経緯を自らばらす。
「私から誘ったのにバタバタしちゃって、今日はごめんね! それに、私と舞の分まで払ってくれたんでしょ? 舞もお礼を言ってたよ! ありがとう! で、いくらだった?」
「いいよ」
「でも、私が誘ったんだよ?」
「うん。大丈夫」
「じゃ、今度は私が奢るね!」
「うん。楽しみにしてるよ」
「……それとね、何か真一にお礼がしたくて、パウンドケーキを焼いてみたんだ。真一ってば、好きだったでしょ? でも、お母さんみたいにうまく焼けなかったんだよね。えへへへ」
失敗したことが恥ずかしくて照れながら素直に話せば、真一は珍しく茶化してこなかった。
「……おれのために、焼いてくれたんだ」
どこか明るさが滲むような声で呟くと、真一はキッチンへ向って歩き出した。
「あっ! ダメダメ! あまり近づかないほうがいいよ! 焼くというより、燃える? って感じになっちゃったから。近くに行くとさらに焦げ臭いんだよ!」
真一の前に立ちふさがった千鶴の制止をスルリとかわし、ケーキとは絶対に呼べない代物を目指して何の躊躇いも無く突き進んで行く。
「もしかして、お腹すいてるの?」
真一の服の裾を引っ張り、千鶴は真一の顔を覗き込む。
「いいや、家で夕飯は済ませてきた」
食べて来たという割には、真一のケーキを見る目が尋常ではない。
「切り分けてよ、キノ」
「え?! 食べる気? 無理! 無理!! 絶対にお腹を壊すって!」
「まさか、捨てるつもり?」
「だって、仕方がないでしょ!」
「……焦げているところを切り落とせば、食べられるんじゃないかな?」
「え?」
千鶴は耳を疑った。見た目も匂いも食欲をそそるものでは到底なかった。作った本人でさえ、味見をしようとも思わない。
(どうしたの?! どうしてこの焦げたケーキを食べたがるの?! 真一がパウンドケーキを好きなのは知っていたけど、これほどとは思いもしなかった!)
少し怯むほど驚きつつも、折角焼いたケーキを少しでも真一に食べてもらえるのは正直嬉しいと思う千鶴だった。真一の提案どおり焦げた所を切り落とし、二人で少し味見してみることにする。
「苦っ! うっっ、やっぱり無理! 味だけじゃないね! 匂いも酷い! 焦げ臭い!」
「うん。そうだね」
「ぎゃっ! 食べないで!」
慌てて真一が手にしていたケーキを奪い取る。
「また、おれのために何か作ってよ。千鶴」
そう言って、笑いかけてきた真一の顔はとても輝いて見えた。
それは、まるでお花畑の中で『うふふ』『あはは』と笑うような笑顔だった。
(? 何でそんな顔で笑ってるの? 『キノ』じゃなくて、『千鶴』って呼んでいるし……)
どこか頭のネジが一つ抜け落ちたかのようないつもと違う真一の様子に、本気で心配になる。失敗したケーキの味があまりに衝撃過ぎて、真一がどうにかなってしまったのではないかと思う千鶴だった。
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