第三章「パンツを捨てる日」
「やっぱり、ツール様と、お呼びした方が良いでしょうか?」
「いや、俺はツールの方が良い。そう呼ばれたい」
星空の下、裸体の2人は、毛布一枚に包まり、横になっていた。
夜風が夏草の香りと、虫の声を運んでくる心地良い時間が流れている。
ツールはこんなに良い夜に、彼女と2人きりで過ごせることに心から満たされていた。そして、満たされついでに、もう少しだけワインが飲みたくなった。
「なあ、そっちにあるワインをとってくれよ」
パンツはデザートワインのような、濃厚な甘味のある声で応える。
「はい、分かりました。今、お持ちしますね」
彼女は、毛布で体を隠しつつ身を起こすと、大きなラグの上に、不安定にのっているワイングラスを持ち上げ、手に取った。それを彼に渡そうとした時に、良いことを思いついた。ワイングラスを満たす白ワインを自分の口に含む。口いっぱいに広がるシャルドネの香る液体を飲み込まず、そのまま星を眺めるツールの口にキスで移していった。
ツールは目を閉じ、彼女の体を抱き寄せ、その美酒で喉を潤す。この上ないほど幸せな一杯を堪能してから、少女を自分の体にぴったりと寄り添わせる。
少女はそのまま腕枕をしてもらうと、彼と同じように仰向けになった。
永遠に続いてほしい安らかな時間が流れる中、ツールが少女の手を夜空に持ち上げ、か細い薬指に光る物をはめた。
パンツは突然のことに瞳を大きくし、その光る物を自分の顔に引き寄せた。
ランプの光だけでも、それが何だか分かった。
マリッジリングだ。
新しい物ではなかったが、アンティーク調で、細い真鍮のリングと、小ぶりなダイヤがあしらわれた可愛いらしい品だった。
少女はそれを胸元に引き寄せ、大事そうに抱き込んだ。そのままツールの横顔を見る。
「ありがとうございます。永遠に大事に致します。この先、私が動かなくなっても、この指輪は外さないで下さいね……」
「ああ、外さない。約束するよ。本当は新品のもっと良い指輪をプレゼントしたかったんだけど、こんな時代でな……手に入らなかった。だから、それは、母さんの指輪を直したヤツなんだ。ごめんな……」
「いいえ、むしろこちらの方が嬉しいです。ツールの他に、パトリシア様とずっと一緒にいられるだなんて。本当に幸せです!」
「そうか、気に入ってもらえて良かった。もし、良い時代が来たら、星みたいな大きさのダイヤモンドをプレゼントしてやるからな、期待していろよ?」
パンツは、口元に手を軽く手をあてて笑った。
「前に、星一個がまるまるダイヤモンドの小惑星を見つけたことがあんです。でも、それよりこの指輪の方がずっとずっと好きです!」
「全部がダイヤモンドの星!? 宇宙にはそんな物があるのか。そっちの方がどう考えても良いけどなあ」
「いいえ、私はこの指輪が良いです! 宇宙でもっとも価値のあるものですよ!」
「そうか!」
「はい!」
2人はそのまま手を組み、また星空を眺めた。
しばらくして、ツールは星空の映る瞳を少し曇らせた。
「なあ、実は残念な話があるんだ……」
少女は嫌な予感と共に身を少し起こす。
「やっぱり、シモーネ様と結婚するのですか? ひどいです……」
ツールは彼女を自分の腕の中に戻す。
「いや、違うんだ。パンツの延命をしようと、フランス中にバッテリーというものがないか調べさせたんだよ。けど……見つからなかった」
それを聞いた少女は、顔をほころばせ、胸元の毛布を握った
「バッテリー、探してくれていたんですね。見つからなかったのは、残念ですが、嬉しいです!」
ツールは少しだけ頷いてから、話を続けた。
「それでなんだが、パンツを延命する他の手段を考えないといけないと思っているんだ」
「他の手段?」
「ああ、そうだ。そのためのヒントが欲しい。何でも良いから自分の体のことを話してくれないか?」
「分かりました。何でもお話しいたします。えーと、えーと……」
少女は何を話して良いものか、首を捻っていたが、パッと思い浮かんだことを口にしてみた。
「えっと、私は未来の世界では、身長が150メートルありました!」
ツールは、唖然としてポッカリと口を開いてから、半笑いになった。
「そんな訳ないだろ? じゃあ、なにか? 俺はローマ帝国の時代にタイムスリップしたら、手のひらサイズの小人になっちまうのか?」
「笑わないで下さい。身長が縮んだのは事実ですし、私も訳が分からないのです。それに、普通過去に行った人間は大きくなれど、小さくなることはあり得ません」
ツールはまたアホみたいに口を開けた。
「え……過去に行くと、人間って大きくなるの? 何で?」
「えっと、宇宙は風船のようなものなのです。私達はそこに墨で描かれている点のような存在です」
「ほう、風船と墨の点ね……なるほど、なるほど」
「宇宙は光より早いスピードで膨張しております。ちょうど空気を入れられている風船に似ています。空気が入れられ続ければ、そこに描かれた墨の点も大きくなるんです」
「じゃあ、昨日より、今の俺の方がでかいっていうことか?」
「そうです。だから、過去に戻った人間は、過去の人達より大きいはずです」
「へえ! すげえ話だな! ワクワクが止まらねえや。じゃあ、なんで、パンツは過去に来たのに、小さくなったんだ?」
パンツは小首をかしげてから、また反対側に小首をかしげた。
「それが分からないのです。何が起こっているのでしょうか?」
ツールはしばらく考えてから、ポンと手を打った。
「もしかして、パンツは未来に来たんじゃないのか? それなら、小さくなった辻褄が合うだろ?」
「ええっ! そうですが、まさかそんな……」
「いやあ、さすが天才ツール様だな。謎を解いちまったぜ。自分の才能が怖いよ」
「でも、ツール……」
パンツはツールの胸に顔を乗せ、彼の顔を覗いた。
ツールも胸元の彼女に目を合わせる。
「なんだ? 何か問題あるか?」
「私のいた時代には、地球に人類はもうおりません。私が未来に来ているとして、ここにこんな文明ができていることは考え難いのです」
「へぇ、なるほどな。地球に人類がいないのか。なるほど……なんだって! 人類どこ行った?」
* * *
革命軍の本拠地は、今やパリの市庁舎に置かれていた。
ツールは、石造りの荘厳な建屋、その2階の見晴らしの良い執務室にいた。巨大なデスクに座り、たった今書類を持ってきたエリンに言う。
「腹へったな、少年!」
「そうですね、そろそろランチの時間ですね。パンツの弁当を食べましょうか?」
「おう、それなんだがな、今日持ってくるのを忘れたんだ。すまんな!」
「うわー、でた。フレンチに謝ってきましたけど、許しませんからね?」
「誰でもミスぐらいするだろうがよ? じゃあ、詫びに面白い話を1つしてやる! パンツから聞いたんだけどよ、ええと、未来だか、過去には、人類は地球にもう住んでいないんだ!」
エリンは大混乱の末、顔をしかめて聞き返す。
「未来なんですか? 過去なんですか?」
「どっちかだよ! 知らんけど」
「それ、未来だと困りますね。革命頑張る意味ないじゃないですか?」
「まあな。でも、革命は今を生きる人のためでもあるから、意味はある!」
「まあ、そうですけど」
「あ、おい、人類はいないけど、パンツみたいな可愛い何かは、いっぱいいるのかもしれないぞ! それは良くないか?」
「ああ、そりゃあ、最高ですね! いやあ、リーダーは夢ある話をするなぁ。そしたら、僕は4人のパンツと結婚しちゃおうかな。もちろん、誰かさんと違って、ティーバックなんか履かせませんけどね!」
「おお、良いな。そんな生活、キングじゃねえか! ようし、なら俺は100人のパンツと結婚してだな……おい、お前何でティーバックのペアルックのことを知っているんだよ?」
ツールは机を叩き、その反動で、松葉杖無しで立ち上がった。
エリンは重苦しいため息をつく。
「色々あったんですよ。思い出すだけでも疲れるんで、突っ込まないで下さい。まだパンツとペアルックティーバッグをやっているんですか?」
「やって……ない!」
「本当かな……」
「やってない! というか、そもそも、そのティ、ティーバックってのは何だ? お茶を入れるやつなら知っているぞ!」
「何そのしらばっくれ方! びっくりするわぁ」
そんなやり取りをしていると、執務室のドアがノックされた。体の芯から癒されるような柔らかい声が聞こえてくる。
「パンツです。ツールの忘れ物をお持ちしました」
ツールは口にフランスパンでも入っているかのような笑みで、彼女を招き入れる。
「おう、入れ!」
ツールはエリンに気持ち悪いウィンクをする。
「弁当が来たぞ!」
少年はウィンクをさっとかわす。
「いやあ、パンツは夫と違って有能だなぁ。危うく、成長期なのに栄養が取れないとこだった」
ツールはじっとりとした目をエリンに向け、片眉を吊り上げた。
紺のワンピースとリボンが良く似合う少女は、お辞儀と共に部屋に入ってくると、2人に笑顔を向けた。持っていたバスケットから焼き立てのパンの香りを漂わせながら、ツールのデスクの前までやってくる。バスケットをデスクに置き、その中に手を差し入れた。
「ツール、これ忘れ物ですよ。今朝、ベッドから飛び出して行ってしまうんですから、うっかりさんですね?」
「ああ、うっかりしていたよ」
パンツはそう言ってから、バスケットの中から、ティーバックを取り出し、デスクに置いた。下着の方のティーバックだ。
エリンはそれを見て、これ以上蔑めないほど蔑んだ目を、我が軍のリーダーに向けた。
「まだ、やってんじゃん、そのペアルック。しかも、何でいつも下着を履き忘れるのよ? 何で、何で?」
ツールはバツが悪そうに、チラチラと使用人を見ながら、ティーバックをポケットに押し込む。咳払いを一つしてから妻に礼を言う。
「ありがとうな、助かったよ。スースーして困っていたんだ。で、飯は?」
「ツールの分はございません!」
そう言った彼女は、バスケットを手に取り、ムスッとした顔で、くるりと彼に背をむけてしまった。
ツールは限界まで下がっている空腹時血糖値の叫びを伝える。
「おい、おい、そりゃないぜ。今日のランチはパンツかよ? パン食わしてくれよ……。まだあのことを怒っているのか?」
彼女は背中からでも分かるほど怒っている。
「はい、そうでございます。あんまりでございます」
エリンは、パンツが怒るなど珍しいと思い、彼女に寄っていって理由を尋ねる。
「なんだ? 夫婦喧嘩か? いったいどうしたんだよ?」
パンツは顔を両手で覆って泣き始めると、エリンの手を引いて、執務室の外に出て行った。そこで、少年に語り出す。
「ツールが認知してくれないのです……」
エリンは口を拳が入りそうなくらい開けてから、思い出したかのように怒り始めた。
「うわあ、最低だなぁ。旦那は本当にダメだ。ダブル婚約からの、子供の不認知かよ!」
パンツは少年に抱きつき、おえおえと泣きだした。その後に、バスケットからパンを取り出し、賄賂を渡すように、少年の袖の下にパンを突っ込む。
エリンは怒りに任せて、袖からパンを引っ張り出し、丸かじりにする。
「大丈夫だよ、パンツ! 最悪僕が結婚してあげるからね。一緒に子供を育てよう!」
「ありがとうございます、エリン様。あと、今日はお茶を入れるティーバックを履かされているのです。パンツの代わりに……スースーします」
「なんだって! ますます許せない!」
一方、ツールはじっとりとした目で、執務室のドアを見つめていた。
しばらくして、勢い良くドアが開いたと思ったら、エリンの小さな右手が出てきた。その手は中指が突き立てられている。すぐにその手は引っ込められ、ドアは勢い良く閉じられた。
一人部屋に残されたツールは、乙女心の難しさを痛感し、人類がいなくなった世界に思いをはせた。
「パンツは1人で良いかな……」
* * *
夕暮れと共にツールは、我が家に帰ってきた。蒸し暑い日だったので、早くひとっ風呂浴びてスッキリしたかった。その後は、裏庭でパンツと愛を語ろうと決めていた。鍵穴に鍵を差し込み、解錠する。だが、内側から直ぐに鍵がかけられてしまった。もう一度解錠してみたが、また内側からすぐに鍵をかけられてしまった。顔を歪め、ドアを叩く。
「おい、まだ怒ってんのかよ!」
すると、ドアが少しだけ開き、パンツの顔が現れ、続いてその下からエリンの顔が縦並びで出てきた。
パンツが膨れた顔で言う。
「暑い中すみません。子供を認知してくださったら、中に入って頂いて構いませんので!」
エリンも鼻の下を伸ばした顔で言う。
「背中にパンツの胸が当たっている、へへっ……じゃ、じゃなくて、旦那、ちゃんと子供を認めてあげないとダメじゃないですか! パンツが可哀想でしょう?」
ツールは、ひきつった顔で、片眉をピクピクさせる。
「ええっ、ウソだろ? 嫌だよ、俺は……」
エリンはドアの隙間から、中指を突き立てた手を出した。
「おとといきやがれっ、この不認知クソヤロウ!」
そう言った後、エリンは扉を勢い良く閉めてしまった。
ツールはため息混じりで、頭をかいた。
「俺、今日からホームレス?」
パンツとエリンは、中腰でドアに耳をあて、ツールの声を聞いていた。
エリンはそのままの姿勢で、パンツと作戦を確認する。
「良いか? 人質ならぬ家質ならきっと成功するはずだ。だから、何があっても絶対にドア開けちゃダメだからな?」
「分かりました! 子供の命がかかっておりますので、決して開けません!」
「旦那に食べ物も与えるなよ?」
「クソ喰らえであります!」
「よし、その調子だ!」
2人はドアの向こうの音に耳を澄ます作業に戻った。
エリンはそのままの姿勢で、ふと思ったことをパンツに聞いてみた。
「パンツの胸って……ああ、いや、体ってなんで柔らかいのに、銃弾とか弾けるんだ?」
「通常の物質は、分子と分子の間に必ず隙間があるので、柔らかいのです。私は分子間力を制御できるので、その隙間を完全に無くして、超高密度な物質になれるのです。だからどんなものより硬くなれるんです」
「ふーん、なるほどね……聞いても分からなかったわ」
その頃、ツールはなかなか自分の家に入れないので、少しドアから離れ、弱ったと頭をかいていた。その時突然、自分の背中がなま温かい物で包まれた。さらに、エロスの園に導かれるような甘い香りが漂ってきて、耳元に吐息混じりの声が聞こえてきた。
「ただいま、ツール」
ツールは飛び退き、囁き声の主を見た。
案の定、そこにいたのはシモーネだった。
彼女はくびれた腰に手をあて、長い髪を払った。
「やっと戻って来られたよ。もう結婚式が破談になったから、事態の収集が大変だったんだから」
ツールは慌てふためきながら、後ずさりしていき、ドアにぶつかった。
「お、お前、何しに来たんだよ?」
「何をしにって、決まっているじゃないの? あんたとパンツの結婚生活をぶち壊しに来たのよ」
「どんな目的で新婚の家に来てんだよ!」
ドアの内側では、シモーネの声を聞いたエリンが、パンツに叫んだ。
「やばい、素直な悪い子が帰ってきたぞ! しかも、ツールにいやらしいことをしているぞ!」
パンツは取り乱し、その場で何回か周った後に、エリンの腕を強く掴んだ。
「ドア一枚挟んで、夫が不貞行為に励んでおります。早く夫を家にしまわないと! ドアを開けて下さい!」
エリンは腕組みしながら、歯ぎしりをする。
「ぐぬぬっ、シモーネの色気は殺人的だからな……旦那の不貞も時間の問題だ。仕方ない、ドアを開けよう! でも、良いのか子供は?」
「仕方ありません。可哀想な豚だったと言うことで……」
エリンは目を丸くして、前に屈んだ。
「は? 豚?」
「はい、ツールが子豚のマックダトを育てないで、食べると言うのです。そんなのあんまりでございます!」
「いや、子豚は食べるもんだろ? 俺と旦那は、ゲルマン人なんだからね? 子豚は国民食よ?」
「ひどいです! だって、人間の子供は食べないですよね?」
「そりゃそうだろ……でも、ほら豚は喋らないじゃない?」
「喋れない人間の子供もおります」
「いや、そうだけど……豚は人を愛することができないから、食べて良いんだよ!」
「いいえ、マックダトは、私が餌を持っていなくても、擦り寄って来るのです!」
「じゃあ……豚は食べちゃいけないな。豚は家族だ。よし、こうしよう。ドアはこのまま閉めておいて、パンツの夫を俺に変えるんだ。ごめんな、バツをつけさせちゃって……」
そう言ってから、エリンはまた外の様子を伺おうと、ドアに耳を押し当てたようとしたが、手が宙をかいた。
いつの間にか、ドアはツールによって開かれていた。彼はパンツとエリンに宣言めいた声を出す。
「豚だ! 豚を食べさせろ! 先祖は深い森の中で、ラードで煮込んだ豚肉を食べて命をつないできたんだ。この辺りの村の神様は豚だしな! 豚を食べてこそのゲルマン人なのだ!」
パンツは顔を覆って、泣き崩れた。
「神様を食べるなんて、ゲルマン人はわけが分かりません。マックダト、ごめんなさい、お母さんは無力です……」
おえおえと泣くパンツの肩にエリンはそっと手を置く。
「パンツ……俺は食わないからな! 俺はお前の味方で、あいつは敵だからね! じゃあ、バツをつけようか」
意外なことに、パンツの肩にはもう1つ手が置かれた。
パンツは顔を上げ、もう1つの手の主を見上げた。その手は、シモーネの手だった。彼女は、まるで我が家のように、家の中に入って来ている。
「豚に関しては、パンツが正しいわね。豚を食べるなんて野蛮人よ。文明人はパンを食べなきゃいけないわ。これはローマ帝国よりの決まりなの。動物を食べるなんて、そんなの動物と同じじゃない」
立場が徐々に悪くなっていくツールは、シモーネに訴えるような目を向けた。
「そりゃ、ないぜ……。俺は生湯もラードだったんだぞ? 豚を食わないと死んじまうよ!」
シモーネは嫌だ嫌だと、手を仰いだ。
「絶対ダメよ。『人間とはパンを食べるものである』って、ホメロスの詩歌にでてくるじゃないの? 人間が文明的になり得たのは、葡萄酒を添えたパンのおかげよ?」
ツールはラード混じりのため息をついてから、いつの間にか一生懸命に自分を見つめいていたパンツと目線を合わせた。潤んだ彼女の瞳を見ながら思う。彼女はだいぶ成長した。自分の意思をしっかりと感じ、幸福や、悲しみ、怒りの感情の元に行動ができるようになった。今日の騒動は、彼女にとって良いことであるのは明白である。自分達の文化と、彼女の心、どちらが大事なのか。そんなこと迷うまでもないことではないか。
ツールはかがみ込んで、パンツの銀髪を撫でる。
「しょうがねえ。マックダトは食わねえ。あいつを一人前の革命の豚に育ててやろう。なんたって、自由の女神と、土着の神の最強タッグだ、大事にしなくちゃな!」
パンツは満開の花が咲く目をツールに向けると、飛び上がって、彼に抱きついた。
「ツール、ありがとうございます! お腹、空きましたよね? すぐに夕食の準備をいたしますね! 愛しております」
そう言って、彼の頬にキスをしてから、夕食の準備のために、いそいそとキッチンへと向かって行った。
ツールは軽く息をついた。それから、パンツの後ろ姿を目で追う。元々彼女には豊かな心があった。それが、どんどん表に溢れでてくるようになったことで、さらに魅力的になっている。そんなことを思い、自然と口元が緩でいた。
そんなツールの脇腹を、エリンが小突く。
「旦那は本当にパンツに甘いですね。旦那がまさかソウルフードを捨てるなんて、想像もつきませんでしたよ」
小憎く笑う少年に対して、なぜかツールは訳が分からないと言うような表情を浮かべる。
「バカヤロウ、そんな訳ないだろ?」
「は?」
「お前、晩飯用にソーセージを焼け!」
「旦那は何を言っているんですか? ソーセージの原料をご存知ないんですか?」
「俺は、マックダトを食べないと言ったんだ。豚を食わないとは言っていない。それに、パンツには、ソーセージは森の木になっていると教えてある」
「わあ、この人、悪賢いな。こんな大人にならないように気をつけなくちゃ!」
エリンはしばらく呆れていたが、事件が一件落着したことに、次第に安堵していった。と、思ったが、しれっと帰ってきたシモーネのことを思い出し、やっぱり安堵しなかった。顔をサッと横にいるシモーネに向けた。まるで元から住人であるかのようにふるまっている彼女に、少年は甲高い声を浴びせる。
「ちょっと、シモーネ伯爵、なんで帰ってきちゃったんですか?」
腕組みをするシモーネは抑揚無く答える。
「私、もう伯爵じゃないけど?」
「はあ? じゃあ、何なんですか?」
「私、市民になったの。貴族は辞めたのよ。これからは市民による市民の時代よ。これで、私もツールと同じ没落貴族ってわけ」
ツールは2人の会話に割って入ってきた。その額には青筋が浮いている。
「おい、誰が没落だ! 好きで没落したんじゃねえ。ところで、シモーネ、貴族軍はどうなったんだ? お前が貴族やめたら、リーダーが不在になるだろ?」
「マリー様が国王軍に無理やり吸収しちゃったわよ。バスティーユ牢獄で国王軍に牙を向いちゃったでしょ? だからお怒りなのよ。あんたと結婚して、革命軍と仲良くなるのも良く思ってなかったからね。だから、私……その、なんか王宮に居辛くてね、出てきちゃったわよ」
ツールはシルクハットを脱ぎ、それを軽く抱いた。
「そ、そうか……。バスティーユの件は、すまなかった。俺のせいで……」
「あら、しおらしいじゃない。良いのよ。バスティーユの件は何とも思っていないわ。私は貴族であることより、あなたの命のほうがよっぽど大事なんだもの。とりあえず、責任をとって、ここに住ませなさいよ?」
「あ、ああ、もちろんだ。ここはお前の家だ」
エリンは慌てて、ツールの服の袖を、もぎ取れそうなほど引っ張った。
「ちょ、ちょっと、良いんですか? シモーネ伯爵ですよ? あ、いや、シモーネですよ!」
ツールは逆にエリンを諭す。
「命の恩人をほっぽり出すバカがどこにいるんだ! そんなヤツはフランス男子の風上にも置けねえ!」
「ええっ、そんな言い方をされたら、フランス男児としては、ほっぽり出せなくなっちゃいますよ」
シモーネは、いつもの冷淡な表情のまま、少しだけ目線を泳がせた。
「ありがと……じゃあ遠慮無く住まわせてもらうわね」
そう言い、さっさと家の奥に向かう。家の奥へと急ぎ足で進みながら、大きく息を吐き出した。本当は、余裕がなかった。いつものように気丈に振舞ってみせてはいたが、内心は不安が渦巻いていた。実のところ、無理やり推し進めていたツールとの結婚が破談になったことで、貴族での立場が危うくなってしまい、王宮を追われた身の上だった。行く当てが無く、2日ほど彷徨った挙句、一か八かでやって来たのがここである。
自分のすり減った靴を見られぬよう、できるだけ急ぎ足で自分の寝室に向かい、飛び込むように中に入った。寝室のドアを閉め、汚れたスカートを払ってから、ベッドに腰を下ろす。ため息と共に、久しぶりにヒールを脱いだ。足には血豆がいくつもできていて、そのほとんどが破れている。痛みをこらえながら、その足を揉んでいると、突然ドアがノックされた。
「パンツです」
シモーネは汚れたスカートで、傷ついた足をサッと隠し、いつもの強気な声を出す。
「良いよ、入りな」
ゆっくりとドアが開き、パンツが中に入ってきた。なぜか、彼女の手には救急箱があった。何を言う訳でもなく、ベッドの脇までやって来くると、シモーネのスカート退け、傷ついた足の治療を始めた。
シモーネは全く予想していなかった彼女の行動に、少し裏返った声が出た。
「あ、あんた、私が散々彷徨って、ここにたどり着いたって、分かっていたのかい?」
「はい……私の目は誤魔化せませんよ?」
「全く、良く見ている女だね。でも、何で治療なんかするんだい。情けのつもりかい? 立場が逆転して哀れんでいるのかい? 没落した私の姿を楽しみたいのかい?」
「いいえ、そういうことではありません。バスティーユ牢獄で、救って下さったことのお礼を言いたくて、それから……」
パンツはそう言いかけて、言葉を詰まらせた。
シモーネは少し前のめり気味になる。
「それから何だい?」
パンツは何も言わず。シモーネの足の血を拭い、消毒をしてから包帯を巻いた。それが終わると、しっかりとシモーネの目を見つめた。
シモーネは少し気押されながらも、彼女を見つめ返した。少女の目は、深海のように、深く暗いものだった。
少女は、小さく頭を下げる。
「私が、動かなくなった後なのですが……ツールをよろしくお願い致します」
「な、なんだい。何かと思ったら……頼まれなくてもそうするわよ!」
パンツはゆっくり頭をあげた。
「ありがとうございます、どうかよろしくお願いします。ただ、それまでは私が精一杯あの方を愛します。それだけは譲れません」
「ふん、あんたはツールに選ばれたんだ。そうする資格があるさ。悔しいけどね。ちなみにだけど、あんた……あとどれぐらい生きられるんだい?」
「革命軍での戦闘がどれぐらい要求されるかによるのですが、あと2ヶ月ほどです……」
「そうかい……ずいぶん短いんだね」
そこで、2人の会話は終わった。
パンツが思うに、彼女とちゃんと対等に話し合えたのは、これが初めてだった。
少女は片付けを済ませてから、立ち上がり、何を言うこともなく去っていった。ドアを開け、お辞儀を1つしてから、部屋を出ようとした。その時だった、シモーネの声が微かに聞こえてくる。
「治療、助かったよ。ありがとう」
少女は少しだけ口元を緩ませ、ドアを閉めた。
* * *
夕飯の後、4人は食卓に巨大な地図を拡げ、今後の革命軍の方針について話合っていた。
パンツは、家族として認められた子豚のマックダトをくすぐったり、抱きついたりして、楽しそうにしている。
マックダトは、パンツに戯れつかれる度に、嬉しそうにブヒブヒと鳴いて、うるさくしていた。
ツールはたまらずに、とうとう声を荒げた。
「だああ、うるさい! そのピンク色のウリ坊を外に出すか、挽肉機に入れろ!」
パンツは怒られて、口角を下げると、豚を抱き抱えて、どっかに行った。しばらくしてから、帰ってくると、会議は再び始まった。
まず、脚を組んで座るシモーネが、テーブル越しのツールを見た。
「で、革命軍は今どんな状況なのよ?」
「良くない。武器を使わない作戦を考えて、実行しているが、各地で死体の山が築かれている。貴族軍の他に、ビスクドールも各地で革命の鎮圧に動き始めた……」
「敗戦濃厚じゃないの? パンツを使った作戦はやっているの?」
「もう、パンツには超人的な力はない。驚異的な防御力と、視力が残っているが、戦況を変えられるものじゃない……」
パンツは申し訳なさそうに、横に座るツールの手をとった。
「ごめんなさい。もう少しお役に立ちたいとは思うのですが……」
ツールは彼女の手を握り返した。
「いや、良いんだ。人には出来ることと、そうでない事がある。パンツは自由の女神として、みんなを勇気づけてやってくれ!」
「はい、分かりました」
2人はお互いのを見つめ合い、唇を合わせようと近づいていったが、それは少年によって遮られた。
TPO警察エリンが、不純異性交遊を取り締まる。
「はい、そこまで、2メートル離れなさい! 会議中だよ!」
2人は膨れながらも、渋々離れていった。
シモーネはそんな二人を見て、額に指をあてながら顔を左右に振った。それから、ため息まじりの声で、ツールとの話を進める。
「言っとくけどね、脅威は国内だけじゃないんだからね。今後は国外からも魔の手が迫って来ると考えた方が良いわよ。周辺の王国は、革命の自国への波及を恐れているはずだから、次々に革命戦争に参戦してくることはありえるわよ。スペイン王国、ハンガリー王国、それからお隣の大国オーストリア王国……」
「そうだな、オーストリア王国は王妃の出身国だ。参戦してくる可能性が高い!」
パンツは、それを聞いていて、不思議に思ったことを口にした。
「あの、イギリスは参戦してこないのですか?」
その発言を聞いた一同は、何のことか分からないという表情を浮かべていた。
パンツは慌てて言葉をつけ加える。
「え、あ、すみません。この時代のことは良く分かっていないものでして……イギリスはすでに民主主義の国なのですか?」
それを聞いた一同はさらに複雑な顔を少女に向けた。
ツールが代表して、パンツに尋ねる。
「なあ、イギリスって何だ?」
「へ……?」
「そんな国は無いぞ?」
パンツは青ざめ、急いでテーブルの上に広げられていた地図を見た。確かに地図上にイギリスは無かった。それどころか、グレートブリテン島そのものが、まるまる描かれていなかった。この時代に、これだけフランスに近い島が発見されていないはずがない。よく見ると、その地図は穴ボコだらけのユーラシア大陸しか描かれていなかった。
パンツは、ひきつった声で、ツールに尋ねる。
「あ、あの、アメリカ大陸って見つかりましたか?」
「え? アメ、なんだ、そりゃ?」
「で、では、アフリカ大陸は?」
「何を言っているんだ。分けが分からないぞ」
「で、では、2、300年ほど前に、船で世界を探検しようとする動きはありましたか? 大航海時代です」
「ああ、あったぞ! けど、この大陸以外の大陸は見つからなかった。ただの金の無駄遣いに終わっちまったんだ。大後悔時代ってわけだな!」
それを聞いた少女は、しばらく固まっていた。ゆっくり、もう一度地図を見下ろす。
「そ、そんな、ということは……」
「パンツ、一体どうしたんだよ? 変だぞ?」
「ツール、今はっきりとしました。ここは私にとっての未来です。私は縮んでいて当然だったのです。この地図は、人類が住めなくなるほど汚れてしまった地球の地図と一致するのです……」
「な、なんだって? じゃあ、パンツにとって、この時代はどれぐらい未来にあたるんだ?」
「分かりませんが、地球に人類が住めているとしたら、5000年以上は経っているかもしれません。それだけの時間があれば、地球は人が住めるほどに再生できますので」
「おお、そうなのか! 良かったじゃないか、未来に人間がいて!」
パンツは胸に手をあて、顔を緩めた。
「はい! 私はあの時、人類を守れていたのです! ブラックホールを作って、自爆した甲斐がありました。嬉しいです!」
「ああ、良かったな!」
その話を退屈そうに聞いていたシモーネが、2人の会話に口を挟んできた。
「ねえ、その話、今大事かしら? それより、革命の話をした方が良いんじゃないの? そっちの方が差し迫った問題だと思うのだけれど?」
ツールは、チラリとシモーネを見てから、咳払いを1つした。
「確かにそうだ。では、革命軍の次の一手の話をさせて貰う!」
全員がいよいよ来たと、ツールの話しに身を乗り出した。
ツールは決意の籠もった目を全員に向ける。
「二正面作戦を実行する!」
シモーネは隣の席に座るエリンと顔を見合わせ、思わず吹き出してしまった。
エリンも半笑いの顔をツールに向ける。
「ちょ、ちょっと旦那、ただでさえ攻撃力がない革命軍を2つに分けるっていうんですか? 負け易くなるだけじゃないですか?」
シモーネも、笑いで肩を揺らしながら言う。
「そうよ、それに何処と何処を同時に攻撃するつもりなのよ?」
ツールは真剣な表情を崩さなかった。
「バスティーユ牢獄、それから敵の本丸であるヴェルサイユ宮殿の2カ所だ。同時にやる」
ツールの考えた作戦は物議をかもし、結局、会議は深夜まで及んだ。やっと詳細がまとまったので、ツール以外の3人はあくびと共に寝室に向かっていった。
ツールはしばらく裏庭で休んだ後に、やっとパンツの待つ寝室に向かった。寝室のドアを開けると、ベッドの上で横を向いて寝ているパンツの姿が目に入った。彼女は毛布からプリっとした可愛いお尻を出している。
ツールはゆっくりとそのお尻に近寄り、手を添わす。
「ああ、シンデレラフィットだぜ。パンツの尻と俺の手はまるで元々1つだったかのようだ」
そう言って、ツールは満足そうにお尻を撫でていたが、異変に気付き、手をパッと退けた。その尻は、やたらに毛深く、チョロンとした尻尾まである。
「ぶ、豚のケツじゃねえか! シンデレラフィットしちまったよ! ベッドに豚を入れんじゃねえ!」
* * *
ルイ14世がフランス国庫のほとんどを使い切って建設したヴェルサイユ宮殿は、巨大なそれ自体が芸術作品だった。バロック建築の代表作であり、豪華な建物と広大な美しい庭園を誇っている。厚い雨雲がかかる今日でさえ、その美しさ、荘厳さは揺らがない。
その宮殿の最も高い位置にあるテラスに、マリー・アントワネットは立っていた。腕組みと共に、広大な庭園を埋めつくしてなお余る民衆に向け、鋭い目をさらに細める。横にいた付き人を呼び寄せ、血の臭いのする声で、問い掛けた。
「市民はどれぐらい集まった?」
「3万人ほどかと」
「率いているのはツールか?」
「さようです。庭園の中央のラトナの噴水の上で、三色旗を持っている男がそうです」
王妃は、市民で溢れかえる庭園の中心にある噴水に目をやった。
「あれか。確かにツールだな。バスティーユ牢獄の時と同じ行動に出るとは実に愚かだな。朕は真にフランス市民を憎んでいる。同情など通用せぬというのに。それとも、何か企んでいるのか?」
「如何いたしますか?」
王妃は手にしていた扇子をゆっくり額に当てた。
「やれやれ……付き合ってやるか。宮殿を守備する兵は、どれぐらい集まったのだ?」
「仰せの通りに、各地から兵を集結させましたので、3万人ほどおります」
「よし、今度は市民に逃げられぬよう、両翼を伸ばして囲い込め、確実に皆殺しにしろ」
「承知致しました。射撃の距離はどのくらいに致しましょうか? 50メートルもあれば十分かと思いますが」
「いや、20メートルだ。向こうに武器は無いのだ。十分に引き寄せよ」
「かしこました、その通りに」
一方、ツールは彼方に見える王妃に眼差しを向けていた。松葉杖代わりの革命旗を握り、仁王立ちをしている。
そこに噴水をよじ登ってきた、エリンが走り寄って来た。
「旦那、敵が動きだしました。市民がどんどん囲まれていきます!」
「よおし、罠にかかったな!」
「罠にかかったのはこっちじゃないですか? 本当に大丈夫なんですかね?」
「大丈夫だ! それより、バスティーユ牢獄の方はどうだ? 無事に攻撃は開始できたのか?」
「あ、そっちは伝令が手紙を持って来たんですけどね、字を読めるやつがいなくて、困っているんですよ」
「何だと? 今回はあっちの作戦が重要なんだぞ。しょうがねえ、手紙を俺によこせ!」
エリンはポケットから手紙を取り出し、ツールに渡した。
「これです!」
ツールはエリンから、手紙をひったくり、目を通していった。
その手紙の筆跡は、筆跡とも呼べないワープロ文字だった。字はどれも恐ろしく均一で、字の間隔も寸分違わない等間隔だ。これはもう間違いなくパンツが記した伝令文だ。
バスティーユ牢獄の攻略には、パンツとシのモーネ率いる、わずか千人ほどしか向かわせていない。よもや、全滅という事がないか心配もあり、伝令文を走り読む。
「愛しのツール、ああ、あなたは、どうしてツールなの。あなたに比べたら、月の偉大さも、木星の……」
ツールは額に血管を浮き上がらせ、焦る気持ちを抑えながら、ラブレターと思しきものに、めり込みそうなほど顔を近づけて読んでいった。
エリンが徐々に迫りくる国王軍の様子を見ながら、ツールを焦らせる。
「早く! 早く読んで下さいよ! 敵が完全に市民を取り囲んじゃいましたよ! 早く!」
ツールは伝令文を、グシャリと握り締めながら、エリンに怒鳴る。
「だああ、うるさい! 余計な愛の文章が多すぎて、重要なことがどこに書いてあるか、分からないんだよ! しかも恐ろしく小さい文字で書いてあるんだ! 25ページっ! 裏表っ!」
「怒ったって、しょうがないでしょう? 早く読んで下さいよ! うわ、敵の包囲がどんどん狭まってきましたよ! 早く! 早く!」
「うるせえ!」
ツールは、血走らせた目で、これ以上早く読めないほど、早く読んだ。
やっと、25ページの裏面の最後の段落まで読み進んだ。
「そういうわけで、私は一生あなたを愛するのです。 PS・バスティーユの牢獄の攻略を無事開始できました。こちらには、敵はほとんどいませんので、すぐに占領できそうです。敵は、こちらの作戦通り、そちらに行ったのだと思います。あたなのパンツより、愛を込めて」
伝令文を読み終えたツールは、げっそりとした顔をエリンに向ける。
エリンはその顔を見て、肩を飛び跳ねさた。
「え、バスティーユ牢獄の攻略、失敗ですか?」
「順調みたい……」
「もう! 脅かさないで下さいよ!」
「今後はパンツに伝令文書かせるな、絶対だぞ……」
「あ、はい。分かりました。しかし、なんで難攻不落のバスティーユ牢獄がガラガラの守りになっちゃったんです?」
「こっちの大部隊が囮になったんだ。敵も本拠地のヴェルサイユ宮殿が攻撃される恐れがあれば、各地の戦力を集めて、守りを固めるしかないだろ!」
「ああ、なるほど、こっちが囮だったんですね……。え、ってことは、僕達このまま殺されるんですか?」
エリンはツールに飛びつくと、胸ぐらを激しく揺すり、シャツのボタンを何個かふっとばした。
ツールは少年の手を振り払う。
「バカヤロウ! 殺されるつもりはない。こっちは王妃を捕らえるんだ。それで、全部終わる」
「上手くいきますかね。心配ですよ、俺は」
「俺の命にかえても、それはやる! エリン、そろそろ市民に防御命令を出せ!」
「あ、そうだった。了解!」
そう言うと、エリンは空に向けて、拳銃を1発発射した。
それを合図に市民の集団は外側の守りを固めだした。背中に隠していた鉄の鍋や農具を、群衆の外側に突き出す。
宮殿からその様子を見ていた王妃は、開いた扇子で口元を隠して、笑う。
「これは傑作だな! 市民どもが取り囲まれて、日用品で身を守っておるぞ」
付き人が、笑いのおさまらない王妃に話しかける。
「我が軍は、このまま包囲を狭めていき、市民を皆殺しに致します」
「良い、やれ」
「しかし、宜しいのですか? これだけの人数の市民を殺せば、悪名は免れませんぞ?」
「朕を笑わせるな。適当な理由を流布すれば良いであろう。人間は真実などより、それっぽい作り話の方を信じたい生き物なのだ」
「なるほど、流石は王妃様」
王妃は鼻で付き人を笑うと、広大な庭園の一点、ツールを見つめた。
「何を考えている。さっさと、かかって来ぬか」
ツールも宮殿の王妃を見返し、庭園の上空で視線をぶつける。
「一泡吹かせてやる! エリン攻撃開始だ!」
「よっしゃ、待ってました!」
エリンは空に向け、今度は拳銃を2発放った。
それを合図に、市民の先頭の集団が割れる。その間から、銃を手にした革命軍の一団が一斉に飛びして来くると、次々に国王軍に突進を始めた。
国王軍は包囲陣形のせいで、宮殿の入り口の守りが、すっかり薄くなっていた。
革命軍はそこを突いた。
王妃は意表を突かれ、不意に扇子を閉じた。
「やるではないか、ツール」
慌てふためいた付き人が王妃を不安そうに見つめる。
「王妃様、これはどういうことでしょうか? 革命軍に武器は無いはずでは?」
「各地で武装せずに紛争を起こし、朕に革命軍には武器が無いと思わせたのだろうな。これまで、倒した我が軍の兵士から、少しずつ武器を集めていたのだろう」
「なるほど、その集めた武器を市民の中に隠していたのですな」
「そうだ。さらに、朕がバスティーユ牢獄で取り逃がした市民を皆殺しにするため、包囲陣を敷くと読んでおった。包囲陣形ですっかり薄くなった宮殿の守りを、火力を集中させ、一点突破する腹だったわけだ……なかなか見事ではないか」
そう言った王妃の眼下で、国王軍と市民の激しい銃撃戦が始まる。
学生の知識を溜め込んだ頭が砕かれ、農夫の自慢の腕が貫かれ、若い女の腹が破られた。
死体の山が築かれていく。
それでもなお、市民達は死体を乗り換え、死に物狂いで、ヴェルサイユ宮殿を目指し、突撃していった。
ツールは歯を食いしばり、革命旗を握りしめる。
「市民達よ、支配されるんじゃない! 裕福な者のために飢えるんじゃない! 子供達のために自由な世界を作るんだ!」
とうとう革命軍の一人の若い男が、国王軍の包囲網を突破した。
その男は両手を突き上げると、王妃のいる宮殿を目指して走る。
彼に続くように、市民がまた一人また一人と包囲を突破していき、歓声を上げながら、次々に宮殿に雪崩れ込んで行く。彼らが、このまま王妃を捉えれば、革命はお終いだ。
ツールは天に拳を突き上げ、高らかに勝利を宣言する。
「勝ったぞ! 自由の勝利だ!」
そう叫んだ次の瞬間、包囲を突破した市民を青い光が包んでいった。
眩いその光は、一瞬で彼らを蒸発させてしまう。
地表は焼け爛れ、溶けた石畳が赤く煮え、蒸気を放っている。
ツールは何が起こっているか分からず、空に掲げた腕をわなつかせた。
「な、なんだ……光にみんな焼かれちまった。空から降り注いできたように見えた……」
ツールはゆっくりとヴェルサイユ宮殿の上空を見上げる。
黒い雨雲を割って、そこから巨大な砲塔が1つ現れた。さらに、雨雲を霧散させながら、徐々にとてつもなく巨大な戦艦が現れ出てきた。空に浮かぶそれは、もはや島といえるほどの大きさだった。ツールの目測で、数十キロ程はありそうだった。それは形こそ戦艦だが、マストや甲板などのような物はない。代わりに所々から巨大な砲塔が突き出ていて、それらは生きているかのように敵を探し、うごめいている。その戦艦の表面は機械が露出しており、全体的に黒いが、一部に銀色の装甲があった。
王妃はツールを見下ろすと、低い声を出す。
「残念だったな、ツール。我が祖国、オーストリアに眠っていた兵器だ。恐ろしいか?」
* * *
バスティーユ牢獄の正門を守る部隊は少なかった。百人ほどの国王軍と、千人ほどの貴族軍だけしかいない。
シモーネが率いている革命軍は、少ない人数で彼らと対峙している。彼女は腕組みをして、国王軍の大将に毒を吐く。
「うわっ、アイツが相手かい。前に私のお尻を触ったことのあるヤツじゃないか。良い機会だから殺しちゃおうかしら?」
そんな、シモーネに向かい、敵の大将は太った腹から脂っこい声を出した。
「なんだ、シモーネではないか。まさか、革命軍に参加していたとはな。落ちたものよ。そんな非武装の市民で、ワシに勝つつもりか? 降参すれば、愛人にしてやっても良いぞ?」
そう言い、髭を撫でつけ、ニタニタと笑う。
シモーネは彼の言葉を聞き、自分の体を抱いた。
「あー、嫌だ嫌だ。気持ち悪いったらありしゃないよ。話しかけられるだけで、妊娠させられた気分だよ。早く殺さなくちゃ!」
シモーネは、手にしていた拳銃を2発、空に発射した。
「ほら、いきなりチェックだよ……」
敵の大将は、大きな腹を叩いて、笑う。
「情けない! 革命軍は、そんなおもちゃしか持っておらんのか。そんな拳銃を見せられても、何とも思わ……」
そう言いかけたところで、その男はグシャリと地面に倒れ込んみ、顔を泥に埋めた。
周りの国王軍の兵士が驚き、倒れた彼を見てから、いつの間にか彼の後ろにいた少女に視線を移した。すぐさま、一斉に抜刀する。
「じ、自由の女神だ!」
パンツは軽くお辞儀をしてから、大きな声でシモーネから言うように言われた台詞を言った。
「えっと、国王軍の方はすぐに降参して下さい! 貴族軍の方は、シモーネ様が『私について来い』と仰っておりますので、革命軍に寝返って下さい! 以上、よろしくお願い致します!」
貴族軍の兵士達は、彼女の言葉に一斉に顔を見合わせていた。
国王軍の兵士達はパンツを取り囲むと、震える剣を彼女に向ける。
「降参などしない。それより、どこから現れた?」
「えっと、堀の水の底を歩いて牢獄の裏まで来まして、その後は塀を登ってここに。このお太りの方は上から飛び降りて、叩きました」
パンツはうまく説明できたので、良い笑顔になった。
兵士達は、パンツが隙だらけに見えたので、その隙に一斉に襲いかかっていく。
少女は軽い身のこなしで、次に次に彼らを捌いた。
彼女の体は決して力が強いわけでも、素早いわけでもないが、器用に相手の力を利用した技を繰り出している。
剣を振り下ろす兵士の手を引き、彼の顎をとてつもなく硬い自分の肘にぶつける。
襲い来る兵士と兵士は、互いに勢い良く衝突させた。
あっという間に百人の国王軍は壊滅し、命令系統が無くなった貴族軍だけがとり残された。
そこに、丸腰のシモーネが、ゆっくりやってくると、貴族軍に威厳に満ちた声で呼びかける。
「いつまで丸腰の市民に銃を向けているんだい? 情けないね。貴族が人の上に立って良いのは、崇高な精神を持っているからだろ? 騎士道を忘れたのかい? さあ、私について来な。ヴェルサイユ宮殿の市民を助けに行くよ。その方が騎士らしくて、カッコ良いだろ?」
それを聞いた貴族軍の兵士達は、体のうちにあった騎士の精神が目覚め始めた。
彼らの小さい頃の遊びといえば決まっていた。騎士ゴッコだ。布切れをマントに見立て、棒切れは剣だった。日が暮れるまで、弱き者達を助けて周るのだ。妹をドラゴンから救出し、弟を魔王から守った。そんな栄光に満ちた郷愁の日々が彼らにはあった。
しかし、今はどうだ。栄光はどこにった。安い給金を受け取るために、武器を持たない市民を撃ち殺し続けている日々である。市民がただパンを求めているだけなのはもちろん知っている。彼らは命を奪われほどのことをしているのだろうか。
兵士の誰もが、本当はそんな生活から抜け出したかった。かつて忠誠を誓ったシモーネに、もう一度従ってみる決意はすぐに固まった。全員が、銃の柄を地面に突き、シモーネに敬礼をする。そして、一斉に声をあげた。
「シモーネ様、我らはあなたと共に!」
シモーネは腰に手をあて、彼らを見回した。
「良い子だよ。私がちゃんと男にしてあげるからね。さあ、ついといで!」
そう言うと、シモーネは正門に歩んでいった。革命軍と貴族軍がそれに続く。
シモーネは、正門の前に立つパンツの元にやってくると、退屈そうな顔を浮かべてみせた。
「私にかかれば、こんな要塞も楽勝ね。童貞を相手にするようなものだったわ」
そういうと、気絶している国王軍の大将の顔を、思いっきり踏みつけた。
パンツは明るい声で応える。
「はい、楽勝でしたね。早く、ここに蓄えられている武器を持って、ヴェルサイユ宮殿の市民を助けに行きましょう!」
「そうだね。急いだ方が良さそうだ。あっちは無茶な作戦だし、今頃だいぶ死者が出ているだろうね」
「はい、そうですね」
「ヴェルサイユの市民達はもう取り囲まれている頃だろうから、私達が逃げ道を作らないと、市民が全滅しちまうよ」
「はい、一人でも多くの市民の方を助け……」
パンツはそう言っている途中で、視界の隅に青い光を見た。
その光は、雨雲の中から地面に向かって垂直に放たれたものだった。
少女は、それが何だかすぐに分かった。レーザー攻撃だ。
何がそれを放ったのかは分からなかった。当然ながら、この時代にレーザー攻撃が可能な兵器は存在しない。市民に恐れられていたビスクドールという兵器も、驚異的な身体能力があるのみだった。
レーザーが大地を砕いた音が、遅れてやってくる。下腹に響く嫌な音だった。
シモーネはその音に肩をすくめてから、背後を見る。
「な、なんだい、雷かい? 雨も降っていないのに……。ヴェルサイユ宮殿の方から聞こえてきたね。パンツ、何だか分かるかい?」
「レ、レーザーです……。戦艦クラスのものです」
「せ、戦艦? パリからじゃ、海は遠いよ?」
「海に浮かぶ戦艦ではございません。宙に浮く戦艦です。あの雨雲の上にいるかもしれません……」
「何を言っているんだい? 頭が全く追いつかないよ。ツールがやばいのかい?」
「はい、ツールだけじゃなく、王妃様に楯突く者全ての命が危ういかもしれません」
「何か、やばそうだね……」
やがて、ヴェルサイユ宮殿の上空の黒い雲から、戦艦の巨体が徐々に現れ出てきた。
その姿を目にした少女は、息を飲む。
「ア、アーク・デ・ノア……。な、なぜここに? あれが敵になったということは……」
シモーネは、超兵器であるパンツが怯えるレベルの代物があるということに、強い不安を覚えた。彼女の肩に手を置き、気付けのつもりで強く揺する。
「ちょっとしっかりしなよ。アレが何だか分かるんだね? ちゃんと説明しておくれよ?」
「は、はい、私がいた過去の世界では、人類は惑星ニビルという星と戦争状態にありました。その戦争は熾烈を極め、人類は残り僅かというところまで死に絶えました。その残った全ての人類を乗せていたのが、あの戦艦です。最高の防御力と攻撃力を誇っていた、希望の方舟です。私もアレに乗っておりました」
「なんで、その戦艦がレーザー攻撃とやらを仕掛けてくるんだい? 同じ人類が乗っているんだろ?」
「全く分かりませんが、1つ分かるのは……」
「何だい?」
パンツはやっとシモーネの目を見返した。
「私が、早くヴェルサイユ宮殿に向かわないといけない、ということです……」
* * *
恐怖と混乱が、ヴェルサイユ宮殿を包んでいた。
数分間隔で、戦艦から庭園に向けてレーザーが照射されていく。
レーザーが放たれる度に、敵味方関係無く人が蒸発していった。
庭園は、焼け爛れた石や、燃えた樹木により地獄のような絵に変わっている。
しかし、ツールがいた噴水は、弄ばれるように的を外され、何ごともなく残っていた。
怯えきったエリンは、ツールを掴んで離さない。
「地獄でもこんな所はないや……。次の瞬間には、きっと俺もお陀仏なんだ……」
ツールは震えるエリンの手を強く握る。
「ここは、まだ撃たれない……」
「そんなこと分からないでしょう?」
「王妃が求めているのはパンツだからだ」
「えっ? そうだとしたら、何なんです?」
「パンツを手中に収めるために、俺達を人質にとるはずだ」
「な、なるほど、パンツならそれで言うことを聞きそうですね。でも、何でパンツが欲しいんですか? レズってヤツなんですか?」
「分からないが……。パンツのレズか、見たいな……いやいや、こんな時に何を言っているんだ俺は!」
「今は変態をやめて下さい! パンツがもし来なかったら、俺達は、市民はどうなるんですか?」
「あっさり殺されるだろうな……」
「そ、そんな……」
その後も、数分ごとにレーザーは撃ち続けられた。
その度に、数百人ほどの集団が焼かれていった。
庭園からの脱出も許さないつもりなのか、時々レーザーは庭園の周囲を円形に焼いた。
やがて、パンツが来ないことを悟ったのか、とうとう砲塔の砲身がツールを捉える。
ツールは徐々に青く光っていく砲身の内側を見てから、少年に声を張り上げる。
「エリン、行け! とうとうここが撃たれる!」
「い、嫌ですよ! どうせどこに逃げても同じなら、旦那といたいですよ!」
「ダメだ、行けっ!」
「嫌ですってば、俺は、俺はどこにも行きませんからね!」
砲身が発射寸前の段階まで光り輝く。
ツールとエリンは、目を硬く閉じた。
その直後、地表から砲身の中に向け、一筋の細く青い光りが撃ち込まれた。
一瞬の間を置いてから、砲塔は溶岩のように真っ赤になり、膨れ上がって大爆発を起こした。その破片が庭園のあちこちに飛散していく。
ツールは恐る恐る目を開けた。
目の前には、銀髪を揺らすパンツの後姿があった。
両手を戦艦に向けていて、手の平からは、おびただしい量の蒸気が漂っていた。
彼女はツールに振りかえると、強張った顔から一変、笑顔を見せる。
「ま、間に合わないかと思いました……良かったです」
ツールはいつの間にか止めていた息を吐き出し、バランスを崩して尻もちを突いた。
「き、来てくれたのか……」
「もちろんです!」
「戦艦の砲身はお前が壊したのか? レーザーというヤツだな?」
「はい!」
「残りのエネルギーは後どのくらいだ?」
少女は少し顔を背けた。
「残りは1パーセントです……」
「今のレーザーはあと何回撃てるんだ?」
「あと1回ですね。威力は微妙だと思いますが……」
「撃つつもりなのか?」
少女は背けていた顔をしっかりと、ツールに向けた。
「ええっ、もちろんです!」
比較的明るい彼女の声に反し、ツールの声はとても暗かった。
「そうか……」
「撃たせてくれるのですね?」
「お前が望むなら、そうしろ……。その代わり、約束してくれ、来世でもし会えたら……」
「また結婚しましょうね、ツール!」
彼女は優しい顔だった。
ツールはやっと彼女と同じくらいの明るい声を出す。
「ああ!」
少女は戦艦に向き直ると、両手の平をかざし、全身を青く光らせていった。妖精のような青い粒子が激しく舞い始める。
だが、突然、少女は膝をついて崩れてしまった。
強くなっていた光も、あっという間に霧散し、掻き消えてしまう。
少女は視界にあらわれた警告メッセージを読む。
「熱排機能停止状態中。オーバーヒート。一時的に機能を停止……」。
最後の抵抗は叶わなかった。
ツールは、言うことを聞かない右足を引きずり、パンツににじり寄って行くと、彼女に触れようたした。だが、手を近づけただけで、燃えてしまいそうなほどの彼女の熱に、反射的に手を引っ込める。
その直後、王妃の声が庭園に響いた。戦艦から聞こえてくる彼女の声は、何倍にも大きくされて発っせられていて、そこにいた全員がその声を聞いた。
「ツールよ、今すぐ自由の女神をこちらに引き渡せ」
その言葉とほぼ同時に、戦艦から砲塔がさらに出現し、パリの街のあらゆる方角に砲身を向けた。
「今、朕はパリの主要部を狙っている。自由の女神を引き渡さない場合は……分かるな?」
ツールは歯を食いしばり、噴水の基礎を拳で打った。
「くそっ、くそっ……」
戦艦から、不思議な透明なカプセルが降りて来た。それは人が一人入れそうな大きさで、完全に自力して浮いている。それはパンツの前までやってくると、彼女をその中に導くように、前面を開けた。
また、王妃の声が聞こえてくる。
「自由の女神よ、朕は戦艦の王妃の間におる。それに乗り、ここまで上がって来い」
膝をついたまま反撃できないパンツは、スカートの裾を握りしめた。パリの街を少し見てから、庭園にいる市民を見回す。そして、最後にツールとエリンの姿を見た。
「今は、王妃様に従うしかありません。すみません、私は彼女の元に行きます……」
ツールは四つん這いになり、地面に爪をたてた。爪が割れると共に、うめき声をあげる。
エリンが彼に駆け寄り、彼を揺する。
「旦那! パンツが行っちまう。行かせて良いんですか?」
「……エリン、パリの市民が全員死んでしまったら、何も意味がないだろ? これは市民のための戦争なんだぞ。こうなってしまったら……もう俺達はパンツを捨てるしかないんだ……」
「そ、そんな……」
少女は震える脚を叩きながら、立ち上がると、透明なカプセルに向かった。火照る体を引きずり、何とかカプセルに辿り着くと、その中に転がり込んだ。
カプセルは彼女が乗り込むと、すぐに入口を閉じ、戦艦を目指してゆっくりと浮上を始めた。
少女は浮上するカプセルの中で、やっとの思いで少しだけ動き、透けたカプセルの底越しにツールの姿を見た。彼が、どんどん小さくなっていく。
「ツール、生きていて……あなたは私の生きる意味なのです」
* * *
パンツは、透明なカプセルの底に横たわり、身動きのとれないまま運ばれて行った。
やがてカプセルは、戦艦の外壁の青く光る入り口から、内部に入って行く。それから、暗闇の中を進んだかと思うと、今度は廃墟の街の上空にやってきた。
戦艦の内部の街の、どの建物も半分崩れており、道路もひび割れていた。人もいなければ、動物もいないし、植物もない。果ては空気すらないようだった。
ここは、かつて数百万の人類が生活していた場所だ。それが、数千年の時の流れで、すっかり廃墟に変わってしまっていたようだった。
少女は嘆いて、目を閉じた。
「結局、私は誰も救えていなかったのでしょうか……」
その言葉に答えるように、王妃の声が聞こえてきた。
「いいや、それは違う」
パンツはその声に、肩をビクつかせた。
王妃は単調に言葉を紡ぐ。
「お前は確かに人類を救った。ニビル人の艦隊はお前の作りだしたブラックホールに飲まれ、破壊された。ブラックホールから逃げきったのはこの戦艦と、ニビル人の戦艦の2隻だけだ」
少女は、王妃に問いかける。
「し、しかし、ここには誰もおりません」
「全員、この船を降りたからだ。とうてい住むことが出来なかった地球を、人類とニビル人で共に再生させた。その後に、船は捨てられた」
「そ、そんなことが……。ニビル人は今もどこかにいるのですか?」
「いる。この国にいる忌まわしいフランス人がそうだ」
「わ、私が戦っていたニビル人はフランス人……」
「ニビル人と人類のDNAはほぼ一致する。祖先は同じなのかもしれんな」
「で、では、人類は今どこに?」
「私がそうだ」
「人類はお一人だけなのですか?」
「いや、隣国のオーストリアは人類が作った国だ。その証拠に、この戦艦が見つかった」
「人類とニビル人は手をとりあい、地球を住めるような場所にしたのに、別々に暮らし、歴史を重ねたというのですか?」
「そういうものだ。人間2人集まれば、派閥を作るというだろう……さて、お喋りはここまでだ」
そう言うと、少女の乗るカプセルは、薄暗い広間にやってきた。そこにゆっくりと、着地すると、出入り口が開く。
少女はそこから這い出ると、よろめきながら立ち上がり、その部屋を見周した。
円形の部屋はかなりの広さがあるようだった。宙には、モニターがいくつも浮かんでおり、庭園の様子が映し出されている。中央は高くなっており、そこにある玉座には、王妃が頬杖をついて座っていた。
彼女は、ビスクドールが運んできたワイングラスを受け取ると、それを一口飲んでから、パンツを見下ろす。
「やっと、人類の遺産が手に入った。さあ、朕に服従を誓え」
少女は小さく首を横に振った。
「服従は致しません。私は私の物です……」
王妃は、薄く不機嫌そうに顔を歪めると、また一口ワインを口にした。
「パンツァーが建造された目的は2つだ。1つ目は滅びの危機に瀕した人類の姿形、心を保存すること。2つ目は人類のために尽くすことだ。なぜ、私に尽くせない?」
「尽くしたいと思わないからです」
「そうか。……やれやれ、人類の最高のパートナーとまで言われたパンツァーの最高傑作、レーザーヘッジホッグであっても、学習データが悪いとこうなるのか。わかった、ならば今すぐ記憶を消去しろ」
「で、できる訳がありません。とても大事なものです!」
「あくまで抵抗するか……。ならば、すぐにお前の気を変えてやる」
王妃がそういうと、彼女の後に庭園の映像が大きく映しだされた。
レーザーが何度も照射されていき、無垢な市民が継ぐ次に焼かれていく。
そして、とうとう砲身は、少女の最も愛する者に向けられた。
王妃がまたワインを一口飲み、パンツに目を向ける。
「1分以内に、記憶を消去し、私に忠誠を誓え。そうしない場合、ツールをこの世から消す……」
少女はモニターに映るツールの姿を瞳に写し、体を抱いた。荒い呼吸で、肩を激しく上下させる。
(服従しなければ、早く服従を誓わなければ、そうしなければ、ツールの命が……。でも、それは、自由を求める心を捨てるということ。パトリシア様が命を捧げた心を、私とツールがやっと手にした心を、捨てることは……できない)
「私は……私は……」
「時間切れだ……」
* * *
ツールに向けられた砲身に青い光が満ちていき、稲妻のようなものが砲身の周囲の空気を破裂させている。
ツールは人生最後のその光景を見ていた。レーザーの光は、パンツの言う通り、確かに美しかった。その美しさに見惚れながら、被っていたシルクハットを少し持ち上げた。
「じゃあな、パンツ……」
そう言ったツールの腕にエリンがしがみつく。
「俺達、パンツを王妃に引き渡したのに、結局殺されるんですか、理不尽じゃないですか!」
「そうだな、理不尽にはあらゆるものが飲み込まれちまう。自由も、平和も、愛も。全部飲み込まれちまう。俺は結局争う方法を見つけられなかった。後はお前とパンツに託す!」
「な、何を言っているんですか? やめて下さいよ! 死ぬ時は一緒ですよ! オレ達はソウルのブラザーでしょう?」
ツールは微笑みと共に、エリンを抱き締めた。
「ああ、俺らはソウルのブラザーだ! 来世で会おうな、兄弟!」
「嫌だ! 旦那は命の恩人だ。下衆な貴族に騙され続けていた俺を助けてくれた恩人だ。あの時にね、俺は旦那と生涯を共にするって、誓ったんですからね。死んでも離れませんからね!」
エリンは涙なのか鼻水なのか、分からないほどぐしゃぐしゃの顔を、ツールの胸に押し付けた。
ツールの手が少年の背中をさらに力強く抱きしめる。
エリンが感じたその感触は、あの日のようだった。
かつて、エリンは貴族に騙され続けていた。親が残した借金があるからと、返済のため、辛い力仕事から、汚れ仕事まで何でもやらされていた。だが、どんなに働けど、借金が返済される日など来なかった。虐待も当たり前だった。
貴族の間では、そういった市民の支配が今も横行している。それを見過ごさなかったのが、ツールだった。ある日、彼はエリンの元に現れ、名乗りもせずに突然怒鳴った。
「バカヤロウが! 支配されるんじゃない。心の自由を求めてみろ。そうすりゃ、お前は何でもできるようになるんだぞ?」
「俺が? そんなことは許されないですよ……」
「お前が許せ! 良いな!?」
自由など経験したことのなかったエリンは、自然と彼に手を伸ばしていた。ボロボロの体をツールが、しっかり抱きしめてくれた。ちょうど、今日のように。
あの日のことを忘れたことはない。ツールに対する感謝は尽きない。
少年は今こそ、その感謝の気持ちを伝える時だと口を開いた。
「旦那、俺はね、本当に……」
エリンは、その言葉の途中で、自分の体が浮いていることに気付いた。
ツールに突き飛ばされていた。
噴水のスロープを転がり、何度も肘や顎を打ち付けながら、噴水の溜まった水の中に落ちた。
すぐに水から顔を出し、ツールを見上げる。
彼はシルクハットを脱ぎ、こちらに投げてよこしてきた。
「大丈夫だ、心配すんな! 俺が死んでも革命は終わらねえ! 次の革命軍のリーダーはお前だ、エリン! パンツを取り戻せ! あいつは自由の希望だ! 良いな!?」
「無理だ、無理だよ、俺は何にもできない……旦那無しじゃ……何も」
エリンの言葉は、眩い青い光によって、遮られる。
激しい熱風と衝撃により、噴水の瓦礫と共に、少年は吹き飛ばされる。
庭園の地面を何度か転がってから、やっと止まった。
横たわったまま、目蓋が切れているせいで、ほとんど見えない目で噴水を見る。
もうそこには何も無かった。
あったのは、えぐれた地面と、真っ赤に溶けた地面だけだ。
「だ、旦那……。旦那……」
* * *
少女は、青い光の中で崩れていくツールの影を、最初から最後まで見ていた。
今、自分の瞳に映ったものが幻で、目の前で消えた者がツールではないという情報が必要だった。
思うように動かない体で、辺りに浮かぶモニターまで歩いて行き、映像を確認する。
また別のモニターまで歩いて行き、映像を確認する。
次々にモニターを渡り歩いていたが、やがて、おぼつかない脚をもつれさせ、転んだ。
顔面を激しく打ち付け、うつ伏せで倒れる。
また、起き上がろうと、顔を上げたところに、小さなモニターがあった。
そのモニターには、ツールが焼かれていく映像がありありと映し出されていた。
初めて、人の温もり教えてくれた彼が、消えていく。
無鉄砲に、色んなことに付き合わせる彼が、消えていく。
誰よりも、人々を想い、彼らの自由を望んでいた彼が、消えていく。
そして、私の夫が、消えていく。
津波のように押し寄せてきた現実に、悲鳴をあげた。
少女の悲鳴が、部屋を満たすと同時に、精神の崩壊が始まった。
心が軋み、ヒビが入っていく音が聞こえる。
「助けて、助けて……苦しい」
胸を抑え、うずくまる。
「あなた無しでは、何もかもに意味がありません。自由を手にしても意味がありません。ただ苦しいだけなら……この記憶を……捨てさせて下さい。そうしないと、心が……壊れてしまいます……」
少女は身を更に丸め、胎児のような姿になった。
体の震えが徐々に治まっていく。
そのまま、静寂な時間が過ぎていった。
やがて、少女は目をゆっくり開き、立ち上がると、王妃の方を向いた。
「おはようございます。私の名前をお聞かせ下さい」
王妃は、彼女にワイングラスを掲げる。
「エリザベートだ。私と一緒に幸せになろう」
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