第二章「母のドレス」

「旦那、旦那ってば!」

 少年の甲高い声に、ツールは我に返った。いつの間にか目の前にいたエリンに焦点を合わせる。

「ああ、エリンか、来ていたのか……」

「もう、しっかりして下さいよ。そろそろバスティーユ牢獄の攻略も始まるんですからね!」

「ああ、そうだな、泣く子も黙る革命軍のリーダー、ツール様としたことが……」

 ツールはいつの間にか座っていた軒先の丸太から立ち上がった。だいぶ高くなった日差しが眩しく、足元が少しぐらつく。眩しい太陽を手で遮り、目の前にある自分の家を見た。

 我が家は、玩具のような可愛い家だ。壁面は、母の大好きだった薄い水色に塗られていて、その周りを飾るように、薔薇が生垣として植えられている。

 エリンは主人がぼうっと自分の家を見るばかりで、自分と目を合わそうとしないことに、不安になり、無理やり彼の視界に入っていった。

「革命軍の全員が、旦那を頼りにしているんですからね? しっかりしてもらわないと、困りますよ?」

「ああ……俺は大丈夫だ。心配すんな、エリン」

「なら、良いんですけど。パンツの方はどうなんです?」

「あいつは……ダメだ。もう戦えないかもしれない。一日の大半を母さんの墓石と話して過ごしているよ……」

 それを聞いたエリンは、声の調子をだいぶ落とした。

「そうですか……。心が壊れちゃったんですかね……。体はあんなに頑丈なのに」

「そうかもしれない。全部、俺の責任だ。なあ、エリン、しばらく俺の家に住み込んでもらえないか? パンツの側にいてやって欲しいんだよ。最近のあいつ、心配な行動が多いんだ。食事を一食分多く作ったりさ……」

 少年は、最初それがどういう意味の行動なのか分からなったが、すぐに思い至った。

「それって、パンツがパトリシアさんの分のご飯を作っちゃうってことですよね? そいつは心配だ……。分かりました。しばらく旦那の家に住み込みますよ。俺は、旦那とパンツのためなら何だってしますからね。それに、パンツの美味しい飯が食べられるし!」

 ツールは疲れた声で礼を言う。

「ありがとうな。俺があるのはいつもお前のおかげだ……」

「ちょ、ちょっと、柄にもないこと言わないで下さいよ。気持ち悪い!」

 ツールは少年の小さな肩を何度か叩き、やっと少年と目を合わせた。それと同時に、ツールの背後から声が聞こえてきた。よく通る色っぽい女性の声だ。

「ツール、久しぶりね。わざわざ足を運んであげたわよ」

 声の主は、胸元をやけに強調したワインレッドのドレスに身を包んだ女性だった。体を少しくねらせ、優雅にツールの元に歩み寄って来る。

 それを見たエリンは、顔を引きつらせ、ツールの陰にサッと身を隠した。

「うわー、嫌だ嫌だ。シモーネ伯爵だよ……」

 ツールはエリンと違い、とくに嫌悪を示すことなく、彼女に気さくに挨拶をする。

「よお、シモーネ! 久しぶりだな、何か用か?」

 そんな爽やかな挨拶とは裏腹に、彼の視線は自動的にシモーネの胸元に釘付けになっていった。

 シモーネは薄っすら微笑んだまま、ツールのところまでやって来くると同時に、彼が仰反るほど自分の顔を近づける。ツールの輪郭を両手で覆い、耳元に囁く。

「ちょっと提案があるのだけど、良いかしら?」

 彼女は、ツールの耳に絶妙に吐息を漏らし、長い髪から溢れ出るフェロモンを十分に彼に吸引させると、少し身を引いた。彼の表情を見て、色気が効いているかを良く確認する。

 彼の目は寝起きのように半開きになっていた。

 ツールは、その顔のまま、彼女に情け無い声で怒鳴る。

「バ、バカヤロウが! 普通に言え、普通に!」

 エリンはツールの背後から正面に周り込み、主人の表情からダメージを計測する。彼は大ダメージを受けており、前頭葉の機能の大半が停止している。使用人は、これはまずいと一生懸命に主人を揺する。

「ちょっと、旦那! しっかりして下さいよ。毎度毎度、色気に騙されちゃダメですって。敵軍のリーダーの提案なんて、突っぱねて下さいね!」

 ツールは顔をブンブンと振り、目を覆い、鼻をつまんだ。

「いかん、シモーネに会うのは久しぶりだったから、エロスアタックをまともに受けてしまった。エリン、アレをやってくれ!」

「合点だ! こんなこともあろうかと、いつも準備はしているんです!」

 少年は首に巻いていたスカーフを外し、ツールの目にくくりつけ、ポケットから鼻栓を取り出して、ツールの鼻に突っ込んだ。

 目隠し鼻栓の革命軍リーダーは、胸を張り上げる。

「ハッハッハッ、この装備に驚いたか、シモーネ! 革命軍を甘く見るなよ!」

 シモーネは、引きつった顔で、一歩後ずさる。

「驚いたわね……、そんなにみっともない格好になってまで、視覚と嗅覚をたってくるとは。それなら、これはどうかしら?」

「ハッハッハッ、この鉄壁の防御は、易々と崩せないぞ!」

 ツールは、そう啖呵を切ってみせた。だが、なぜか彼女からの反応が無い。不思議に思い、暗闇の中で耳を澄ました。すると、彼女のドキドキするような声が聞こえてきた。

「はー、暑い暑い。こんなに、暑いんじゃ、ドレスを脱ぐしかないわね。よいしょっと……あらいけない、今日は下着をつけてくるを忘れてしまったわ」

 シモーネは、そう言い終え、実際は何もせずに、彼の反応を伺っていた。

 ツールはあっさり目隠しを押し上げ、目を覗かせた。十分に伸びた鼻の下からは、鼻栓がポロリと地面に落ちる。

 そんな主人を見たエリンが、地団駄を踏んで、わめく。

「くそっ! シモーネ伯爵は、変態を熟知してやがる!」

 ツールは頭を抱えて、膝を折った。

「すまねえ、エリン。俺の変態のせいで、革命軍は負けるかもしれねえ」

 少年はツールに抱きつくと、シモーネを睨みつけた。

「提案って何なんです? どうせとんでもない提案なんでしょ?」

「いいえ、敵軍のリーダーからの素晴らしい提案よ。ツール、私と結婚しなさい?」

 エリンはポカンと口を開いた。前々から、彼女が自分の雇い主である、ヘッポコ変態野郎に気があるのは知っていた。だが、そこまでとは思っていなかった。なんせ、彼女は伯爵公だし、変態野郎は何でもない一般市民だし、反政府的で、テロリストだ。それに、日々刃を交えている敵同士でもある。

 エリンは素直な疑問を彼女にぶつける。

「伯爵の頭は大丈夫ですか? うちの変態は、革命軍のリーダーなんですよ? 敵なんですよ?」

「そんなの分かっているわよ。だから素晴らしい提案なんじゃない。だって、リーダー同士が結婚すれば、この戦争が無血で終わるでしょ?」

 エリンは頭に電球を浮かべ、手を打った。

「あ、そうか、それはそうだな。なんか良さそうだ!」

 シモーネはくびれた腰に手をあて、指をピンと空に立てた。

「それに、私達は許嫁だしね」

「はあっ? 嘘ですよね?」

「本当よ」

 シモーネは膝をついて項垂れているツールを見下ろす。

「そうよね、ツール? ヴェルサユ宮殿で、王妃様の前で契約したわよね?」

 ツールは気弱な顔で、シモーネを見上げる。

「あ、ああ……でも、あれはガキの頃の話だろ?」

「あら、契約は契約じゃない。守りなさいよ」

 ツールは深いため息をついてから、自分とシモーネの結婚により、革命がどのような形で終わるのかを深く考えた。

 答えはすぐに出た。それは、無難な着地だ。革命軍が求めるものは1つ、「自由」だ。具体的には、富を独占し、国体と市民をないがしろにしてまで私腹を肥やす特権階級身分を追放し、この国から永遠に特権階級制度を廃止することだ。そうすることにより、市民による市民の時代がやって来る。それは人が誰にも支配されない素晴らしい時代だ。

 だが、当然その過程で多くの血が流されることになる。追い詰められた市民と、決して譲らない特権階級身分のぶつかり合いは、血で血を洗う争いにエスカレートしていくのは自明だった。

 そして、危惧しなければならいのは、革命が失敗に終わった時のことだ。もし、失敗すれば、市民が流した血は全くの無駄に終わる。

 だが、特権階級と市民をつなぐ鎹として、自分とシモーネが結婚すれば、双方が譲歩するかたちで、革命が終わる可能性が出てくる。つまり、二人の結婚は最もリスクが小さく、賢明な道なのだ。

 しかし、そう頭を巡らせた後に、脳裏に過ったのは、パンツの青空のような笑顔だった。目を硬く閉じ、顔を振って、少女のイメージをかき殺す。

(もう大事な人の心が壊れたり、誰かが死んだりするのは御免だ。なんとしても、母さんの死を意味のあるものにしなければならない。パンツへの想いを捨てるだけで、多くの命が救える。安いものじゃないか。俺がしなきゃいけない選択は明らかだ……)

 

 * * *

 

 パンツは朝日の差し込むキッチンにいた。小粒で真っ白なマーガレットの花の茎を短く切り揃え、数本束ねると、白いリボンでそれをまとめた。朝一で、焼きあげたブリオッシュをバスケットに詰め、そこに花柄の布巾をかける。それを抱え、水色の家を後にした。

 薄緑に燃える大地を踏み歩き、オークの小橋を渡り、小さな木の元にやってきた。その木漏れ日の中にパトリシアの墓石がある。

 その前に立ったパンツは、薄く微笑み、墓石に向かってお辞儀をする。

「パトリシア様、おはようございます。朝食をお持ちいたしました」

 かがみ込み、花束とブリオッシュを墓前に並べ、代わりに古くなった焼き菓子をバスケットに移す。

 それから、取り留めの無い話を、小さな笑いを交え、ずっとしていた。ツールがすごい寝癖で起きてきたとか、小豚がエリンの後を追いかけて歩くとか、そんな話だった。ひとしきり話した後、パンツは立ち上がり、スカートの汚れを払った。

「今日はお客様がいらっしゃいますので、そろそろ失礼致しますね。またすぐにお世話に参りますので、ご安心下さい」

 そう言って、またお辞儀をすると、来た道を引き返して行った。家に帰り着き、軋む木戸を開けると、そこにはシモーネとエリンがいた。パンツは、見知らぬ彼女を目に入れた瞬間、その容姿と色気に、思わず見入ってしまった。彼女は何もかもがパンツと正反対だった。胸は放漫だし、背も高い、肌は健康的な小麦色だ。極め付けは、彼女の着ているドレスである。何とも華やかで、緻密な刺繍まで入っている。少女は、そんな彼女に見惚れていると、自分が挨拶もそぞろだったことを思い出し、急いで手を前に揃え、お辞儀をする。

「お客様、いらっしゃいませ」

 シモーネは、彼女に挨拶を仕返すこと無く、目を細めると、パンツのつま先から頭のてっぺんまで舐め回すように見た。

「これが、有名な自由の女神ね……。華やかさのカケラもないわね。洋服も地味でボロボロじゃないの」

 棘のある言葉で打たれたパンツは、自分の紺色のワンピースに目線を落とした。ワンピースはだいぶ紺色があせてしまっていて、所々に銃弾が貫通した穴や、竈門の火の粉で空いてしまった穴があった。少女はスカートの裾を摘まみ上げ、ため息混じりで嘆く。

「大事なお洋服なのですが、家事とか戦争で、どうしても傷んでしまうのです……」

 シモーネは、ケチをつけるのが大好きという表情で、嬉々として続けた。

「華やかさが無いんじゃ、ツールには不釣り合いね。致命的な落ち度よ。あの人は、華やかで、エッチな女が好きなんだから!」

 パンツはスカートの裾を恥じるように内側に丸めこんだ。

「そ、そうなのですか?」

「そうよ。それにあんた、人間じゃないんでしょう? 機械だから、命令には何でも従うって聞いているけど? 本当なの?」

「は、はい、人間では……ありません。どんなご命令も、確実にやり遂げます!」

「ふーん、そう……」

 そのやり取りを聞いていたエリンは、シモーネの殺気を感じとり、彼女達の間に慌てて割って入る。

「ちょ、ちょっと伯爵、何かする気でしょう?」

「この子はツールのお気に入りだからね。ちょっと辱めてやらないと。芽を摘み取るのよ!」

 躊躇なくそう言い放った彼女に、少年は限界まで顔をしかめる。

「うげー、いつもながら最低な発言ですね! 普通そういうことは、思っていても口にしないものですからね? 少なくとも本人の前では」

 シモーネはクツクツと笑い、肩を揺らした。自分の目の前にいたエリンを、片手で払い退け、人差し指をパンツに向ける。

「じゃあ、まず服を脱いでもらおうかしら?」

 エリンは顔を真っ赤にして、顔を両手で覆った。

「や、やめて下さいよ、伯爵! それは鬼畜過ぎますって!」

 少年はそう言いつつも、手の平にそれと気付かれない程度の隙間をしっかりと作り、パンツの脱衣を今か今と待っていた。

(ダメじゃないか、俺っ! この指の隙間を閉じるんだ。でも、指が不思議な力によって閉じない。すまない、君を見るつもりはないんだ。でも、強力な謎の力で指の隙間が閉じれないんだ……本当にすまないと思っている!)

 少女は顔を真っ赤にし、俯くと、消え入りそうな声を出す。

「恥ずかしいですが、ご命令には従います……」

 シモーネは、本当に命令に従うパンツに驚く。

「こいつは愉快だね。本当にやるのか、見ていてあげるよ」

 シモーネは、ダイニングテーブルにある椅子を1つ引き出し、そこに脚を組んで腰をかけた。テーブルにあった紅茶を優雅にすすり、少女を見物する。

 パンツはワンピースに顔を潜らせると、それをするりと脱ぎ、床に落とした。

 そして、脱ぎ終わった彼女の姿を一瞥したシモーネは、突然口に含んでいた紅茶を全て吹き出した。

「ちょ、ちょっと、何だいそれは?」

 パンツはパープルのティーバッグを履いていた。

 彼女の上半身が普通の木綿の肌着だけに、それは不自然極まりない姿だった。

 シモーネは驚きのあまり、紅茶で溺れ、ゲホゲホと苦しそうに肩を上下させる。

 その姿は、とても優美な貴族の姿ではなかった。

 エリンはしっかりと指の隙間から少女を見ていて、その映像を脳の絶対記憶領域に保存する。パンツの姿を永久保存版した後に、鼻血を拭いながら、シモーネに言う。

「ギャップを考えると、シモーネ伯爵よりパンツの方がエッチなんじゃないでしょうか?」

 シモーネは目を閉じ、額に指を当てながら、うなずく。

「悔しいけど、私もそう思う……」

 パンツは耳を真っ赤にして、もじもじと言う。

「こ、これは、ツール様のご指示でして」

 それを聞いたエリンは、引きつれるだけ引きつった顔になり、シモーネに問いかける。

「すみません、うちの旦那はとんでもないヤツなんですよ。まだ許嫁を続けます? やめた方が良いかもしれませんよ? ティーバックをはかされるんですよ?」

 シモーネは、何とか平静を装いながら、答える。

「許嫁は契約だから、仕方がないんだよ。ツールにはだいぶ引いたけど、目を瞑れるレベルだよ」

「強がっちゃって……。ちなみに僕はお2人に引いていますからね? ダメな大人の見本ワンツーです!」

 パンツはモジモジとしながら、そんな2人の会話に小声で入って行った。

「あ、あの……服を着てもよろしいでしょうか?」

 シモーネは、ため息混じりで少女に応える。

「あんたも変態に付き合って大変ね、同情を覚えるわ。でも、同情はここまで。私達はライバル同士なんだからね。それから、あんたがこれから着る服はこっちよ!」

 そう言うと、シモーネは足元に置いていた麻袋を、パンツに投げてよこした。

 パンツは足元に落ちた袋を見つめてから、屈み込んで、中を漁った。中から出てきたのは、ズタボロのメイド服だった。それを引っ張りだして、広げてみる。全体的に茶色に黄ばんだそれは、ツギハギだらけで、シミがいたるところについていた。パンツはそれを少しも可愛いとは思えなかったが、すぐにでも衣服が欲しく、渋々袖を通した。それを着てみて分かったことは、やや丈余りだということと、古びた油のような匂いがすることだった。どちらかというと、匂いのほうが不快だった。最後に、袋の底にあった、灰色のほっかむりを被ることで、シモーネの命令をやり遂げた。

「全て着ました。これでよろしいでしょうか?」

 シモーネは膝を叩いて、威勢良く笑う。

「これは、予想以上にみすぼらしいね。あんたはこれから、それを着て過ごすんだよ! 良いね?」

 パンツは足元で目を泳がせてから、やっと返事をした。

「はい、分かりました……」

 その弱々しい声は、誰が聞いても肯定的には聞こえないものだった。

 シモーネはパンツの足元にあった紺のワンピースを拾い上げる。

「これは、もう要らないね、私が処分しておいてあげるよ」

 エリンは、そんなシモーネに嫌悪に満ちた目を向ける。

「シモーネ伯爵ったら、どうしようもない鬼畜ですね。ライバルの質を落として、旦那に良く思われる作戦でしょう? 人間なら、普通そういうことできませんからね?」

「もちろん、そういう作戦よ。私が怖いかしら?」

「はい、ちょっと末代まで語り継いじゃうレベルです……」

 シモーネはそれを聞いて、嬉しそうに微笑んでいた。

 パンツは気配を消して、エリンの背後に回り込んで、少年の肩をトントンと叩く。

 肩を叩かれたエリンは、体を大嫌いな伯爵から、大好きなパンツの方に向けた。体の前面が喜んでいるのが分かる。

「何だ、どうした?」

「エリン様、さきほど『イイナズケ』と仰っておりましたが、それはいったい何なのですか?」

 エリンは動揺を隠しきれなかった。少年の小さな心臓は、釣り上げた魚のように飛び跳ね、額からは滝のように汗が流れ出る。少年の今の責務は、パンツの心を支えてやることだ。母のような人間を、自ら関わるかたちで死なせてしまった少女の心を、何とかして癒してやらなければならない。

 それなのに、傷心の彼女の心を、牡蠣殻で引っ掻き回さなくてはいけなくなってしまった。まさか、「君の婚約者は、別の女と結婚することになったよ。なんか昔から約束していたらしいんだよね。てへっ」とは、言えなかった。結局、少年の口から出てきた言葉は、自分でも耳を疑うものだった。

「そ、その……イイナズケっていうのはね、食べ物だよ! フランスの北部じゃ、ごく一般的!」

 パンツは何度かうなずくと、新しい言葉を覚えたことに喜び、目を輝かせた。さらに、興味を惹かれたようで、質問を続けてくる。

「そうなのですね! イイナズケは、どのような食べ物なのでしょうか?」

 エリンは唾を飲みこんでから答える。

「えーと……その、みんなが『良いなー』って思う食べ物を、『漬け』込んだヤツだよ!」

「なるほど! それでイイナズケと言うのですね!」

「そうだよ、へへっ」

 少年はひどい出来の作り笑顔を浮かべた。

 その時、ドアが開き、外から帰ってきたツールが家の中に入って来た。

 彼を目にしたパンツは、一瞬で顔に花を咲かせ、一目散にツールに駆け寄って行った。いつものように彼のシルクハットと、裾の長いジャケットを預かる。衣紋掛けに帽子を掛け、ジャケットのホコリを払いながら、彼の背中に無垢に質問をする。

「ツール様、今日はイイナズケという言葉を覚えました。フランスの北部では一般的らしいですね。ツール様もきっとイイナズケはお好きなのですよね? 今晩、お召し上がりになりますか? 準備を致しますよ?」

 ツールは婚約者からの背筋が凍る発言に、身を縮めた。あの穏やかなパンツからの、怨念のこもったスピリッチャルアタックに狼狽し、足元がおぼつかなくなった。後ろを振り向けず、何も答えられないまま、ただ額から汗を滴らせていた。

 エリンも口に手をくわえ、全裸で北極に来てしまった人のようにガクガクと震えていた。

 シモーネは、動揺で動けない男2人を楽しげに鑑賞してから立ち上がると、ツールに歩み寄り、正面から抱きついた。彼の肩越しにパンツを見やる。まるで獲物を捕捉した肉食獣のように目を細めた。

「ツールは、今晩からイイナズケを頂くそうよ。毎日食べるらしいわ。だから、今日から私はここに住まなくちゃね」

 パンツは、彼女のその言葉にニコリと微笑む。

「そうなのですね、それでしたら毎日用意しますね。それに、家族が増えて、とても嬉しいです。ところで、貴方様はツール様のお姉様でいらっしゃいますか?」

 シモーネは口角をめいいっぱいに上げる。

「違うわよ、婚約者よ。私はツールの正式な婚約者なの!」

 少女の顔から笑顔が消えた。小さな手からツールのジャケットが溢れ落ちる。

「へ……。一体どういうことなのでしょうか……」

 

 * * *

 

 革命軍の本部、と言ったら聞こえの良い大きな納屋の裏で、ツールとエリンが揉めていた。議題はもちろん昨日のダブル婚約者問題だ。

 ツールは頭を抱え、うめいている。

「俺はどうすりゃ良いんだ、エリン!」

「知りませんよ。僕はあんな修羅場に毎日いるのは御免ですので、今日限りで退職させて頂きます、それじゃ!」

 ツールは立ち去ろうとする少年のシャツを、破けんばかりに握りしめた。

「つれないことを言うんじゃない、エリン! 俺らは2人で1つだろ? 二個一だろ!」

「また調子良いこと言って! パンツにもそんなようなことを言っていたんでしょう?」

 ツールは少年のシャツから、スルリと手を離す。

「言った……あれは本気だった……」

「じゃあ、パンツと結婚して下さいよ!」

「できない……無理だ……」

「かあ、余命幾ばくもない女の子に、酷いことをしますね!」

「ああ、俺は酷い男だ……」

 ツールは自分の足元を見つめ、拳を握りこみ、腕に血管を浮き上がらせた。しかし、その直後にある閃きがやってきた。目を見開き、少年の両肩を激しく揺する。

「そうだ、分かったぞ! お前シモーネと結婚しろ! 俺はパンツと結婚するから!」

 少年はゴミでも食べたような顔をする。

「冗談じゃないですよ! あんな人なんだか、悪魔なんだか分からないのと、結婚したくないですよ。というか、僕が結婚しても意味ないじゃないですか。僕はただパリで鼻垂らしているだけの小僧なんですよ?」

「た、確かに……」

「じゃあ、こうしましょう。僕がパンツと結婚しますんで、旦那はおとなしくあの肉食獣と結婚して下さい」

「バカヤロウ! パンツはやれん!」

「もう、贅沢なんだから、このティーバック野郎は……」

 そう言ってエリンは、しまったと口を手で覆った。パンツがシモーネにされたことをツールに言うわけにはいかなかった。もし、ツールがそれを聞いて、怒り狂い、2人の結婚が破談になれば、どれだけの数の人が死ぬことになるか分からない。

 ツールは、少年の言葉を聞き、真剣な面持ちで少年に詰め寄る。

「おい、エリン、何で知っているんだ……俺がティーバックを履いているってことを!」

 エリンは呆気にとられ、自然と口が開いていた。

「え……? えっと、旦那がお風呂の時にチラッとね……見ちゃった」

 エリンは額の汗を拭いつつ、心の中で雇い主を罵る。

(あんたも履いているのかよ! まさかのペアルックだったとはな! この変態やろうが!)

 ツールは、少し辺りを気にしながら、口に人差し指をあてて囁く。

「ひ、秘密だぞ?」

「はいはい……。ところで、真面目な話ですが、本当に愛していない女と結婚できるんでしょうね? 離婚したら意味ないんですからね?」

 ツールは深く息を吸い込んでから答える。

「大丈夫だ。できる……これでもう血は流れない」

 その時、ツールの脳裏に母親が処刑された直後の光景がありありと蘇ってきた。

 彼はカルティエ地区の広場で、雨に打たれ、芯まで濡れた状態で、立ち尽くしていた。

 雨脚はどんどん強くなっていき、広場は真っ白に霧めいていく。

 そこにパンツが現れた。彼女は、コンコルド広場から王妃の追手を振り切って逃げてきたようで、衣服には焼けた後や、矢が突き刺さっていた。その彼女が抱いていたのは、首のない母だった。彼女の水色のワンピースは襟元から真っ赤に染まって、だらりと垂れ下がる四肢には所々アザや火傷があった。

 ツールはその光景を目にした瞬間、地面に膝をついて崩れた。そのまま四つん這いになると、うめき声をあげる。

 母の死は覚悟していたつもりだった。だが、いざ遺体を見てしまうと、女手一つで自分を育ててくれた彼女への想いが津波のように押し寄せてきてしまった。とてつもない圧力が、ツールの何もかもを押し流していく。ツールの目の内で、あれほど激しく燃えていていた革命の炎すら、押し流してしまった。もはや彼の目にあるのは、微かなくすぶりだけだ。

 しかし、これは全てツールが予想できていたシナリオだった。王妃が、自分とパンツの戦意を削ぐために、母親の死体を贈りつけてくることは読んでいたのだ。それなのに、回避ができなかった。王妃相手には、彼女の行動を予想するだけでは勝てないことが、これで明らかになった。

 ツールは、首なしの母親の遺体のフラッシュバックを抑えられずに、何度も壁に額を打ち付けだした。

 エリンは必死にそれを抑えようとした。しかし、ツールは普段からは想像できないほどの力で自分を打ちつけていたので、少年の力ではどうにもならなかった。

「旦那、旦那、やめて下さいよ! 死んじゃいますよ! 落ち着いて下さい!」

 ツールは歯を食いしばり、発作を何となか押さえ込むと、荒い呼吸と共に、地面に手をついて崩れ落ちた。額から地面に落ちた血が、血だまりになっていく。

「俺の判断ミスで、誰かが血を流すのが怖い。これまで何人死んだ。何人の人生を奪った。もうこれ以上は……仲間が死ぬことに耐えられない……」

 エリンは首のスカーフを外し、ツールの額の傷に押し当てた。

「分かっていますよ。俺は旦那のこと全部分かっています。二個一なんですからね。シモーネ伯爵と結婚して、敵と平和的に終わるのも良い考えですよ。パンツには、僕から言っておきますから、ね?」

 ツールは、それ以上何も言わなかった。

 エリンは彼の体を支えてやり、立ち上がらせると、革命軍本部に一緒に入って行った。

 今日はバスティーユ牢獄攻略に関する重要な会議が催されていて、本部には革命軍幹部の他に、シモーネも来ている。彼女は、汚くて狭い納屋に、不満気な様子で、早く会議を済ませて帰りたいといった雰囲気を醸し出していた。

 会議は、遅れてやって来たツールとエリンが着席したところで、始まる。まず、口火を切ったのは、ツールの真正面に座るシモーネだった。

「じゃあ、会議を始めるわよ。この度の、革命軍によるバスティーユ牢獄の襲撃にあたり、我々貴族軍は一切手を出さないことを保証するわ。これも私とツールの結婚による両軍の親和によるものよ。もっとも国王軍はどう動くかは知らないけれど」

 エリンがそれを聞いて、口を半開きにした。隣に座るツールに説明を求める。

「えっ? 貴族軍って何です? 国王軍とは別なんですか?」

「同じだが、別だ。この革命は、単純に革命軍と国王軍の戦いじゃないんだ。国王軍は、その内部に複数の軍を抱えている。今は、それぞれが利権のために勝手に動いている状況だ。貴族軍は国王軍の中で最も強力な存在だ。だから、どうしてもこちらの仲間にする必要がある。リーダーであるアイツとの結婚もそのためだ……」

「な、なるほど……なんか難しいですね。政治ってやつですよね。特権階級にも色々ありそうだな……」

「ああ、そうだ。人の数だけ、利害と思惑があるということだ」

 シモーネは、一通り話を終えると、ツールに目を合わせた。

「ところで、バスティーユ牢獄はどうやって攻略するつもりなのよ? あそこは山のような武器で、守りを固めているわよ? あんた達、武器が無いじゃない? 殺されに行くようなものよ?」

「まともに戦う気はないさ。こちらは人の数こそ多いが、シモーネの言う通りで、武器がない」

「パンツは使わないの? あの子を突っ込ませなさいよ。私としては死んでもらえると助かるのだけれど」

「ダメだ……あいつは、バッテリーという力で動いているんだが、それがもう残り少ないんだ。これ以上寿命を削らせて、戦わせたくない。今回は、彼女を『自由の女神』という象徴として、人々を先導する役割にさせる」

「あら、そう。それは残念ね。で、その彼女が先導する人々っていうのは何よ?」

「3千名の市民だ。彼らを丸腰で歩かせる。バスティーユの正門前まで行進してもらい、最後はバスティーユ牢獄の無血開城を、国王軍に要求する」

 シモーネは組んでいた脚を組み替えた。

「はぁ? 正気なの? 全員、国王軍に撃ち殺されるわよ?」

「俺は、国王軍は撃ってこないと思っている」

シモーネは拳でテーブルを激しく打つ。

「何を寝ぼけたことを言っているのよ?」

 ツールは構わず話を進める。

「国王軍だって、一市民だ。普通に街で暮らしている市民だ。行進する市民とは、一緒に会話もすれば、酒も飲んだりする。同じ市民が、丸腰で歩いてきて、撃てるはずがないと思うんだ。彼らの苦しみも充分に分かっているし、必ず牢獄を空け渡してくれる!」

 シモーネは、呆れた顔で、腕組みを始めた。

「あんた、穏便にやって、血を流したくないだけでしょう? ぬるいわよ? 人数を利用した消耗作戦に変更しなさいよ。ドンドン突っ込ませて弾切れに追い込むのよ。いくら国王軍だって、捌ききれる人数には限界があるわ。それしかないわよ」

「死人はもう出したくない……」

「なんとも眠たい話ね。まあ、勝手にしなさいよ。とりあえず、貴族軍は王妃様への体もあるから、バスティーユ牢獄の防衛として配置しとくけど、市民を撃たないように命令をだしておいてあげるから」

「頼んだ」

「言っとくけど、国王軍がもし仮にあんた達を撃ってきたとしても、貴族軍は守ってはあげられないからね?」

「ああ、分かっている。貴族軍も国王軍の一部だもんな」

 どんどん声が小さくなっていくツールの声に、シモーネはとうとう憤然しだす。

「本当に大丈夫なのよね? それから、バスティーユの攻略の後はどうするのよ?」

「あそこにある大量の武器が革命軍のものになる。その武力を交渉材料にして、国王軍と和解し、特権階級には一部の特権を捨ててもらう。その代わり、それ以上の要求はしない。それで、市民は負担が減り、飯が食えるようになる」

「なんとも中途半端な革命ね」

「今はそれがベストだ」

「分かったわ。付き合ってあげる。そのための条件はちゃんと覚えているのよね?」

「ああ、俺たちの結婚だ」

「そうよ。ちゃんと準備しておきなさいよ?」

 ツールは少しだけ目線を落とす。

「分かっている……俺は、お前と結婚する……」

 

 * * *

 

 パンツは最後の作業を終え、すっきりした顔をエリンに向ける。

「エリン様、出来上がりましたよ!」

 5メートルはあろう鉄の棒に、巨大な三色旗を取り付けた革命旗が完成した。

 パンツはそれを持ち上げ、青々とした空に掲げた。三色旗が風にはためく音が聞こえる。

 エリンは額の汗を拭ってから、それを見上げる。

「いやあ、なんとか間に合ったな。よし、そろそろ行進の時間だ。すぐに市街に向かおう!」

「はい、分かりました!」

 2人は革命旗を掲げながら、田舎道を歩き、石畳の市街地に入って行った。

 パリの市民達が、次々に革命旗を見つけ、待っていましたとばかりに集まってくる。腹の大きい妻と子供達に見送られる男。年老いた妻にキスをした後に、杖を鳴らしてやってくる老人。 手を繋いでやってくる学生のカップル。様々な人達が、本当に丸腰で行進に参加するためにやって来た。いつしか、旗で先導するパンツの後ろには、ものすごい数の市民が連なっていた。

 エリンは飛び跳ねて、行進の最後尾がどこなのかを見ようとしたが、全く分からなった。

「こりゃ、とんでもねえ数だぞ。なあ、パンツ、今何人ぐらい後ろにいるんだ?」

「1万人はおりますね」

「い、1万人? 目標の3倍以上じゃないか! さすが、革命軍リーダー、ツール様の根回しってとこだな!」

 パンツはツールという言葉に胸の傷が痛み、歩みをすこし遅くさせた。

 エリンはすぐに彼女の様子に気づき、口を抑えた。

「す、すまねえ。うっかり、名前を出しちまった。無神経だったよ」

 パンツはエリンに顔を向け、良くできた作り笑いを浮かべた。

「大丈夫ですよ! お気になさらないで下さい。私は命令さえあれば、生きていけますので。それに、どう考えても、ツール様にふさわしいのはシモーネ様です。お綺麗ですし、私よりもずっと長く生きられます。革命にとっても重要な方ですし、えっと、それに……私などと結婚しても何も良いことはございませんので……これで良いのです」

 エリンは、そう言いながら一生懸命に笑う少女を見つめていた。彼女にかけてやれる言葉が何かないか、自分の中を一生懸命に探し回ったが、結局良い言葉が見つからなかった。

 パンツはそんな彼の気持ちをおもんばかったのか、話題を変えようと、だいぶ近くに見えてきたバスティーユ牢獄を指差した。

「エリン様、ご覧ください! バスティーユ牢獄の上の方が見えてきましたよ! あと少しですね!」

「ああ、ちょっと見えてきたな。カルティエ地区に入れば、革命軍とも合流できるから、最終的な行進の人数はドえらい数になるぞ!」

 パンツはウンウンと首を縦に振った。

「そうなのですね、また人数が増えるのですね。これだけの人数でお願いをすれば、きっと牢獄の正門を開けてくれますね!」

「ああ、そうだな。でも、心配なのは伯爵の動きだ。本当に攻撃してこないんだろうか。だって、この間まで撃ち合っていた仲だぜ?」

「それは大丈夫ですよ。あの方はツール様のことが大好きです。絶対に撃ってきません」

「おいおい、あんな鬼畜を信じるのかよ。まったくパンツは懐が広いよな。伯爵から、あんなに酷い目に遭わされたのにさ。それに、まだそんなボロボロのメイド服を着させられているしさ!」

 パンツは奥歯を噛み締めた。本当は、パトリシアのワンピースが着たかったのだ。あれは、純粋に贈り物としてもらった唯一の物で、着ているとパトリシアと一緒にいるような気にさせてくれる物だった。願わくば、返して欲しいと思い続けている。

 やがて、行進はパンツが掲げる巨大な革命旗を先頭に、カルティエ広場まで到達した。その広場には、ツール率いる革命軍と、シモーネ率いる貴族軍が、すでに終結していた。その一団を加え、市民の行進はさらに大人数になった。一団はバスティーユ牢獄を目指し、市街の一番大きな道を進んでいく。

やがて、20メートルはあろうかと言う、バスティーユ牢獄の大きな正門が見えてきた。牢獄の壁も同じぐらいの高さがあり、周囲1キロほどをグルリと囲っている。その周りには堀が築かれており、内部に侵入するには、その堀の水を泳ぎ切るか、正面の門を突破するしか方法はなさそうな地形だ。そして。正門の前には国王軍が構えていた。ごまんといる兵士達は、大砲やマスケット銃を構えている。

 ツールは市民達の行進を一度止め、パンツの元に走り寄ってきた。そこで、彼女の横顔に話しかける。

「パンツ、ご苦労だったな。最終的に市民は何人集まった?」

 パンツは、彼の視線から必死に逃れながら答える。

「およそ5万人でございます」

「すごい人数が集まったな! これも自由の女神のおかげだ!」

「いえ、そんなことは……」

少女は彼からの強い視線から逃がれる場所を探し、地面を見つめた。

ツールは、自分でも何が目的で彼女に必死に話し掛けているのか分からないまま、話を続ける。

「牢獄の正門を守っている国王軍の人数はどれくらいだ?」

「およそ2万人でございます」

「両軍すごい数になったわけか」

「そうですね。しかし、素朴な疑問なのですが、なぜ牢獄に武器が沢山あるのでしょうか?」

 ツールは彼女から質問があったことに、少し胸を軽くさせながら答える。

「元々ここは要塞だったんだ。外国との戦争が近頃無くてな、今は武器庫兼、牢獄として有効活用しているんだ」

「なるほど、そういうことだったのですね」

「ああ……」

 そこで会話が途切れてしまうと、2人の間には重い空気が流れ始めた。

 ツールはそんな空気から逃れるように、彼女に背を向けようとした。

 パンツはその時になって初めて、去ろうとする彼を一瞬だけ見る。

「と、ところで、本当に市民の皆さんは攻撃されないのでしょうか? ずっと心配でして……」

 ツールは正門を陣取っている紅白の軍服の兵士達を見つめる。

「大丈夫だ。向こうも血の通った人間なんだ。人間なら、丸腰の知り合いは撃てない……俺なら絶対にできない……お前だってそうだろ?」

 少女は視界の端で、ツールの額に光る汗を見た。それを見て思う。彼も作戦に確信があるわけじゃないのだと。

 2人のそんなやり取りが、後方にいたシモーネの目に留まった。彼女は目を細めると、自分の存在を知らせるように、地面を踏み鳴らして2人の元にやって来る。ちょうどパンツの視界に収まる位置で、ツールに抱きつくと、彼の耳元に語りかけた。

「貴族軍はここまでだからね。武装しているから、あんたの邪魔になるだろうし、国王軍と揉める気はないからさ。後方にいるわね。ダーリン」

 ツールは首を少しだけすくめる。

「ああ、ありがとう、シモーネ。感謝しているよ」

 そう言うと、彼女からスルリと離れた。

 シモーネは彼のその態度が気に入らず、彼ときつく腕組みをする。そうやって、少し考えてから、わざわざツールをパンツの目の前まで引っ張っていき、そこで彼の顔を手で押さえながら、キスをした。そうしながら、パンツの表情を横目で見る。

 少女は何事も起こっていないような涼しい顔を保っていた。だが、みすぼらしいスカートに隠した手は、強くスカートを握り込んでいる。何かを言い返せるわけでもなく、何をするでもなく、痛みに必死で耐えることが、彼女の今できる唯一のことだった。

ツールはまたシモーネからスルリと離れると、誤魔化すように、行進の先頭の集団の方に号令をかける。

「いくぞ! バスティーユ牢獄、侵攻開始! 全体進め!」

 その声を合図に、丸腰の市民の老若男女は、国王軍に向かって、少しずつ前進していった。

 シモーネはそんツールに軽く鼻を鳴らすと、足音をたてて、後方に下がって行く。

 パンツは彼女が去ったことを視界の端で確認してから、正門を見つめ、気持ちを切り替えた。

「もう誰も死なせません。何があっても、私が全員をお守りいたします」

 革命旗を握る手に力を込めると、自分も歩み出していく。何があってもすぐ対応できるよう一番先頭に立ち、国王軍の動きに、目を光らせた。敵軍の端から端までを何度も確認しながら進む。だが、結局、国王軍は射程距離に入っても攻撃をしてこなかった。

 市民の行進は、残すところあと20メートルというところまで来ており、行進の成功は目前に迫っていた。行進の先頭にいた市民達は、胸を撫で下ろし、緊張で強張らせていた表情を徐々に緩めていった。

 しかし、少女はどうしても落ち着けず、周囲の動きをまだ確認しいていた。その彼女の視界の上方にキラリと光るものが映る。正門の上方だ。

少女は、その光りに見覚えがあった。顔を上げ、それを凝視する。そして、それが何であるか分ると息を飲んだ。

 光った物は、王妃の扇子だった。

 少女はそれに気づいた時、反射的に横にいたエリンを自分の陰に隠していた。

 正門の上にいた王妃は冷たい顔で扇子を高くかかげると、それを勢い良く振り下ろす。

 それを合図に、国王軍は市民に向け、一斉に発砲を開始した。

 数万の弾丸が容赦なく、市民を貫いていく。

 大砲が地面を吹き飛ばしていき、無数の市民が舞った。

 市民はみな、悲鳴をあげ、逃げ惑った。

 子供や老人は、人波に踏み付けられ、あっという間に絶命していった。

 血気盛んな男であっても、薄っぺらな衣服では、銃弾を防げるはずもない。

 次々に命が奪われていく。

 辺りは一瞬で、地獄と化した。

 

 * * *

 

 気を失って倒れていたツールは、徐々に意識を取り戻しつつあった。はっきりしない意識の茂みをかき分け、状況を確認しようと、気力で上体を起こしていった。上半身を完全に起こし上げたところで、右膝に激痛を感じ、うめき声と共に体を丸める。恐る恐る右膝を見てみると、右側のズボンが黒く見えるほど、自分の血で染まっていた。

銃弾が膝を砕いてしまったようだった。

彼には、もはや立ちあがれる見込みはなかった。仕方なく、座ったまま辺りを確認する。霞んだ目を擦り、焦点を合わせていく。

 正面にあるバスティーユ牢獄に並ぶ兵士達は永遠と銃撃と、大砲による砲撃を続けているようだった。だが、不思議なことに、その攻撃によって傷つき、倒れる者がいなかった。

 地面には国王軍の初撃で、犠牲になった骸が転がっていたが、平然と立っている者や、無事に後方に逃げていく者がいる。

 ツールは瞬きもせず、その光景を見ていた。

「何だ、何が起きている? なぜ俺達は、撃たれているのに死なない? こんな奇跡を起こせるのは……」

 思い当たることに、徐々に心臓の鼓動が高まっていく。

パンツの姿を探すと、彼女はすぐに見つかった。

少女は全く怯まず、まだ行進の先頭に立っている。真二つに折れてしまった革命旗も、まだ支柱をしっかりと握りしめいていた。ただでさえボロボロだったメイド服は、引き裂かれ、引火までしていた。どのような意味なのか分からないが、片手は空に高くつき立てられていた。

 ツールは歯を食いしばり、四つん這いになると、うめき声が混じった荒い息を何度かしてから、地面に血の帯を作って、彼女の元に這っていった。

 泥を舐めるように進み、骸を押し除けて進んで行くと、徐々に彼女の周りの状況が見えてきた。

そこにあった光景は、実に不思議なものだった。少女の数メートル手前で、全ての弾丸が空中で弾けて飛散し、真っ赤に溶けた破片が、永遠と地面に落ちて溜まっていたのだ。

ツールはひび割れた唇を動かす。

「どうなっているんだ……」

 顔を泥や血で真っ黒にさせながら、さらに這っていき、何とかパンツの元にたどり着いた。激しい息遣いと共に、少女の脚にしがみついて、彼女を見上げる。

「パンツ……何だこれは? お前がやっていることなのか?」

 少女は余裕のない表情を浮かべている。

「はい、曲射したガンマ線レーザーを、前面に張り巡らせております」

「レーザーだって? それは綺麗なものと言っていたじゃないか? 何も見えないぞ?」

 少女は汗を1つ垂らしながら、抑揚なく答える。

「これはガンマ線です。可視光線ではないので、ツール様はご覧になることができません」

 ツールは彼女を激しく揺すった。

「パンツが何を言っているか、分からない! 結界のようなものを作ってくれているのか?」

「はい、そうでございます……」

 ツールは最高潮に達した不安をそのまま口にする。

「お前、今……命を削っているんだろ?」

 ツールのその言葉の直後、パンツの視界に警告メッセージが現れる。

「バッテリー残量低下、残り7パーセント……」

少女はそのメッセージの内容を見もせずに、視界から消した。

 ツールは彼女の脚を少しずつよじ登っていく。

「これだけ多くの人をいっぺんに守っているんだ。相当なエネルギーを使っているはずだ……」

 彼のその言葉に少女は何も答えなかった。

 ツールは青ざめていき、彼女を力いっぱいに揺する。

「やめろ、やめてくれ、お前、死んじまうぞ!」

 それでも少女は何も答えず、ただ目を泳がせていた。そんな目に、また警告メッセージが現れた。

「バッテリー残量低下。残り6パーセント……」

少女は、すぐにそのメッセージを消し、後方の様子を伺った。

 後衛の市民の待避は非常に遅く、一部の人が将棋倒しになっていた。そのため、前衛の市民は全く逃げられていない。足元では、大勢の負傷者がうめいている。側にいたはずのエリンは、どこに行ってしまったのか、もはや分からない。

その様子を確認してから、少女は目を閉じる。

「この結界を解くわけにはまいりません。市民の皆様がここにはおります。エリン様も。そして、あなた様も……私はもう誰も失いたくないのです」

「俺がお前の代わりにみんなの盾になる。だからもうやめろ。俺はパンツの気持ちを裏切った。死んで当然の男だ。革命も、お前が背負い込むことじゃない! 俺が勝手に始めたことだ!」

 少女は目を硬く閉じたまま、強くかぶりを振る。レーザーを放ち続けている手も、降ろそうとはしなかった。

悪戯に、少女のエネルギーだけが失われていった。

残り5パーセント。

残り4パーセント。

命のカウントダウンと共に、少女の呼吸が荒くなっていく。

 ツールは膝が砕けた脚を激しく震わせて立ち上がると、彼女をきつく抱きしめた。

「止めてくれ……お願いだ。俺は、お前に生きていて欲しいんだ。これは……これは命令だ! 命令に従え!」

 ツールは彼女にとって、命令が何を意味する言葉なのか良く分かっていた。使うまいとしてきた言葉だった。それなのに、それを口にしてしまった。罪の意識に耐えながら、少女をよりいっそう強く抱きしめる。

 少女は、久しぶりに感じる彼の温もりに、徐々に呼吸の乱れが治まっていくのを感じた。呼吸が整えられていくのと同時に、命令に従う心の準備ができ始めた。ゆっくりと、空に掲げていた手を降ろしていく。

 レーザーの出力が下がり始め、何発かの銃弾が結界をすり抜けて行く。

 その光景を見ていた王妃は、扇子を左右に振る。

「良し、頃合いだ。撃ち方やめろ」

 その号令を合図に、国王軍からの発砲が止んだ。辺りに静けさが戻っていく。

 王妃の元にすぐさま付き人がやって来て、彼女に耳打ちをする。

「王妃様、パンツァーのレーザーの出力が低下したように見えたのですが、何が起こっているのでしょうか?」

 王妃は肘掛に軽く方杖をつくと、薄く笑った

「エネルギー不足だ。博士の言う通り、レーザーヘッジホッグは、ブラックホールエンジンを失っているようだな」

「あの男の情報もなかなか信頼できますな。さて、この後は如何いたしますか?」

「もはやチェックをかけるのみだ。ツールに使いを出せ。自由の女神を引き渡せと伝えさせろ。もし、引き渡したら、市民の安全を保障してやる……一時的にな」

「はっ、かしこまりました。ただちに使いを出します」

 少女は砲撃が止むと同時に、レーザーの照射をしていた手をゆっくり降ろしていき、ツールと共に膝から崩れ落ちた。命を留めることができたことに安堵するように、大きく息を吐き出す。 しばらくしてから、いつの間にか表示されたていた警告に気づいた。

「バッテリー残量低下。残り3パーセント……」

大幅にエネルギーが失われていた。

 ツールはパンツを抱きしめていた手を緩め、彼女から身を離した。

「お前、だいぶ命が削れちまったんだろ……?」

 少女は目線を落としたまま、無機質に応える。

「はい……」

「俺のせいだ。俺のせいで、いつもお前はボロボロだ……」

 ツールの目の内にある革命の炎が、とうとう消えてしまった。壊れた膝も限界を迎え、その場に仰向けに倒れた。

 だが、彼が地面に激突することはなかった。パンツがしっかりと体を両手で支えてくれたのだ。

 ツールは、少女がどういう気持ちで自分を支えてくれたのか、どうしても考えてしまった。本当は助けたくはない男だが、人間だから助けているのか、それともまだ愛してくれているのか。知りたかったが、それを口にできるほどの勇気はもう残っていない。出血のせいで、意識が徐々に遠のいていく。少女の腕の中で、仰向けで空を見ているが、もはやその目は何も捕らえてはいなかった。心はどこか遠くを彷徨っている。

 そんなおぼろげな彼の視界に、突然国王軍の使者の顔が現れた。使者は重症の彼を覗き込んで、怪我の様子など意に返さず、淡々と喋り始める。

「ツール・ド・フランスよ。貴様に王妃様からの要求を届ける。読み上げるぞ。『自由の女神を直ちにこちらに引き渡せ、そうすれば、ここにいる市民の安全を保障する』以上だ。すぐに回答せよ!」

 ツールは閉じかけている目蓋をなんとか開き、乾いた唇を動かした。

「断る……」

「何だと? 今何と言った? 貴様、正気なのか? せっかく王妃様が手を差し伸べて下さっているのだぞ? 直ぐに撤回せよ!」

「パンツの居場所は、パンツに決めさせてやってくれ……それが一番良い」

 使者は訳が分からないと、首を横に振った。そうしてからまた何かを言いおうとした。

 だが、次の瞬間、彼の心臓が銃弾に撃ち抜かれた。

 結局何も言えなかった使者は、ドサリとその場に倒れ込んだ。

 パンツがすぐに銃弾が飛んできた場所を確認する。国王軍の方からではない。まるで反対側の市民の行進の後方からだ。

「革命軍が撃ったのでしょうか? でも、今回は革命軍に銃器はないはずです」

 さらに無数の弾丸が飛来してきて、国王軍の兵士達を次々に襲っていった。パンツ達を守るように、後方から絶えることなく弾丸がやってくる。

 パンツが後方をじっと見ていると、貴族軍を引き連れてやって来るエリンとシモーネの姿が見えた。

貴族軍の兵士達は、戦闘の意思が無い市民が撃たれたことに、怒りを顕にしているようだった。貴族というのは元々騎士である。騎士たる彼らの中には未だに騎士道精神が流れており、戦場における不道徳は許せないようだった。

 彼らは、市民の行進の先頭に雪崩れ込んでくると、負傷した市民を守るように囲み、国王軍に銃を放ち続けた。その間、負傷者した市民はどんどん運びだされていった。

 だが、国王軍からの反撃も激しく、何人もの貴族軍の兵士達が凶弾に倒れていった。それでも、貴族軍による救出は続いた。

 パンツはその隙に、ツールを抱え上げて立ち上がると、後方に向かって走りだした。

 飛び交う銃弾が何度も彼女に当たる。

少女は、銃弾がこれ以上ツールを傷つけぬよう、自分より大きな彼の体を目一杯自分の影に隠して走った。逃走の最中、出血でほとんど気を失いかけているツールの譫言が聞こえた。

「愛する者達の血を流さなくてはいけない……。それを恐れてはいけない……。自由の対価は、おぞましい量の血だ……認めるしかない。俺はそれを認める……」

 

 * * *

 

 陽が登りきらないうちに、パンツは床を抜け出した。クローゼットを開け、ハンガーにかかるメイド服を眺め、ため息をつく。

 ボロボロのメイド服は破れたところを縫ったり、焦げている所を洗ったりしたのだが、どうしても綺麗にはならなかった。それでも、自分が着て良い服はこれしかない。仕方なく今日もそれに袖を通す。相変わらず古い油の臭いがするが、しばらく時間が経って、感じなくなるのを待つよりほかない。

 この家で、朝が一番早い彼女は、いつものように、豚に餌をやり、畑に水を撒き、家族全員分の朝食を作り始める。

 最近めっきり手に入らなくなったパンも、我が家の伯爵様のおかげで今はたっぷりと手に入る。それを窯で器用に焼き上げ、バターとジャムを塗って食卓に並べた。付け合わせに、野菜のスープと、焼いたソーセージを用意し、それも全員分を綺麗に食卓に並べた。

 朝食の準備が全て終わると、少女は一人で食卓につき、みんなが起きて来るのを待った。彼女はいつも、こうやって朝を過ごしているのだが、そんな時間が大好きだった。残りの人生が短いと思うと、よりいっそうこの時間が尊いと思えるのだ。

 朝の家事など、この時代の女性達からしたら、うんざりするようなことかもしれない。だが、パンツからすれば、この上ない楽しいことだった。何も無い戦艦の格納庫で、ただ時が過ぎるのを待つことより、足のつかない真っ暗な宇宙を漂っていることより、ずっとずっと心が満たされることなのだ。

 何より家事は、偽物の人間である自分を、本物の人間の女の子にしてくれるような、そんな気にさせてくれた。

 最近のパンツの願いは、このままこの時代の、この土地で、この家族とできるだけ長く過ごすことになっていた。愛する者に愛されない身となった以上、それが最も無難に心の平和を得る道だと思えるのだ。

 パンツは少し頬を緩めると、自分の身体の重要な機能を停止させていった。エネルギーの節約のためだ。生きることに必要なさそうなものから順に、思い切ってどんどん停止させていく。その結果、もはや腕力も、脚力も普通の人間とほとんど変わらない存在になってしまった。

 これで、革命軍に呼ばれる機会も減るだろうと思うと、少し寂しい気持ちになったが、戦うことより、家で家事をしている方が好きな性分なので、問題ないと割り切れた。何より、もう人が死ぬ光景を見なくて済む。それに、その方がツールと顔を合わせる機会が少なくなりそうだからだ。

 そんなことを考えていると、エリンが眠たそうな目を擦って、ダイニングに現れた。

「パンツ、おはよう……」

 少女は彼に朝日のような笑顔を向ける。

「エリン様、おはようございます!」

 少年は食卓につくと、あくびを1つしてから、彼女に取り留めもない話をしだす。

「昨日、夢を見たんだよね。俺とソフィーヌちゃんの初めての夜の夢だったんだけどさ……」

 パンツは耳を赤らめ、身を乗り出す。

「ど、どんな感じの初夜だったのでしょうか? く、詳しく……教えて下さい」

 エリンは急に顔をしかめた。

「それがさ、彼女の服を脱がして気付いたんだけど、彼女、男だったんだよね。付いていたんだよ!」

 パンツは前のめりだった体を戻す。

「あら、それは残念でしたね……」

「しかも、旦那のヤツ並に凄かったんだよ!」

 そう言って、エリンは皿の上のソーセージをフォークで転がした。

 パンツは顔を赤らめ、肩をすくめる。

「まあ、そんなに……」

 そんな話をしていると、ツールが起きてきた。もの凄い寝癖の彼は、松葉杖を不器用に操り、食卓にやってくると、ドッカと椅子に座る。

「パンツ、エリン、おはよう! 昨日、夢を見たんだよ。いやー、あれは不思議な夢だったなぁ」

 パンツはツールに軽くえしゃくだけして、無意味にスープに目線を落とした。

 少年はスープをすすりながら、あまり興味は無いが、給料分の働きをしようと思い、主人が不思議だったという夢の内容を聞いてやった。

「どんな夢だったんです?」

「いやね、俺の体がソフィーヌになっている夢なんだよ。ああ、でも、そんなにパニックにはならなかった。ちゃんと俺のが付いていたからよ!」

 エリンは雇い主に、口に含んでいたスープを吹きかけた。

「ちょ、ちょっと、やめて下さいよ、そんな夢を見ないで下さいよ! 気持ち悪い!」

 スープを被ったツールは、怒りを眉間に露わにさせる。

「はあ? 何を言っているんだよ! 夢なんて、神様に勝手に見させられるもんだろうが! でも、エリン、安心しろ! ソフィーヌの横にいたのは、ちゃんとお前だったからよ!」

 そう言って、少年にウィンクを送った。

 エリンは悪寒を感じつつ、今聞いたことを忘れようと、食事を取り始めた。ソーセージをフォークでつき、口に放り込む。

 そこに、今度はシモーネが起きて来た。食卓につくと、不機嫌な顔で語りだす。

「昨日、夢を見たのよ……もう最悪な夢だったんだから。おかされた気分だわ!」

 ツールはスープをすすりながら、彼女の話を聞く。

「へえ、どんな夢だったんだ?」

「ツールとエリンが体の関係を結んでいたのよ。ここで!」

 ツールはスープを彼女に吹きかけた。

 シモーネはびしょ濡れになった衣服を見て、言葉を吐き捨てる。

「やだ、ちょっ、汚っ!」

「俺がエリンと? いくらソウルのブラザーでもな、そんなことはしねえよ!」

「夢よ、夢! しかも、あんた達、朝食中にそんなことを始めるからもう大変だったわよ。あんたら、パンツが持ってきたソーセージまで使っていたんだからね!」

 エリンは口からポロリとソーセージを落とした。

 その日は全員が朝食をとれなくなった。

 パンツは、そんな何でもない食卓の雰囲気を愛しく思い、薄く微笑んでいた。

(このまま何事もなく、穏やかに最後の日を迎えますように)

ただ、それだけを願っていた。

 

 * * *

 

 パンツはロウソクの灯りを頼りに、軋む廊下を歩き、ツールの寝室の前までやってきた。彼女の手には救急箱が握られている。ドアをノックすると、薄いドアの向こうから彼の声が聞こえてきた。

「おおっ、パンツか、入って良いぞ!」

 この家でドアをノックする気遣いができるのはパンツだけなので、ツールは彼女が自分の寝室に来たと分かったようだ。それに、パンツはいつも毎日同じ時間に、彼の脚の治療にやってきていた。

 少女はツールに自分を待っていて欲しくて、同じ時間に来ていたのだが、自分でもそれに何の意味があるのかは分からなかった。とにかく彼にはそうして欲しかった。今日のように。

 今日の彼の声は、だいぶ明るいものだった。その声の調子は、だいぶパンツを安堵させる。

 バスティーユ牢獄からの敗走の直後の彼は、酷い精神状態だった。死んでいった市民の魂が彼の心を道連れにしたかのように、彼は言葉を喋れなかった。だが、膝の傷が癒えると供に心の傷も癒えてきたようだ。

 少女はツールの寝室のドアを開け、お辞儀をする。

「失礼致します。膝の治療に参りました」

 少女は、一生懸命に床を見ながら、中に入って行く。そうしながら、シモーネがいないかを伺った。

 彼女は、いつもパンツが治療にやって来るタイミングでツールの傍にいた。薄着で彼の横に寝転び、パンツを横目にはしゃいでみせるのだが、今日はいないようだった。

 パンツは表情にこそ出さなかったが、彼女が寝室にいないだけで、気がずいぶん楽だった。傷つかずに、治療に専念できそうだからだ。それに、包帯を交換したり、薬を塗ったりする行為自体は大好きなのだ。何となく人に必要とされているような、そんな気にさせてくれるからである。

 彼はベッドに上半身を起こして横たわっており、ランプの光で本を読んでいたが、その本を閉じた。ガウンから、包帯が巻かれた右膝をパンツに差し出す。

 パンツはベッドの横まで来ると、膝をつき、救急箱から洗濯したての包帯を取り出した。ベッドに横たえられている彼の右脚に、ゆっくり触れていく。正当な理由で、彼に触れることのできる唯一のチャンスに、胸を熱くさせながら、古くなった包帯を外していく。そうしながら、シモーネがいないことで気が緩んだせいか、気づくと彼に話かけていた。

「弾が貫通して良かったですね。中に残ってしまっていたら、大変でした。傷は化膿もしてないですし、破傷風も心配なさそうです」

 ツールは彼女を見下ろしながら、感情の読み取れない目をしていた。

「ああ、不幸中の幸いだな。パンツが俺を守ってくれなかったら、怪我じゃすまなかったよ。あの時は……ありがとうな」

 パンツは、その言葉にどう回答したら良いか悩んだが、結局何も言えなかった。

 沈黙がしばらく続く。

少女が傷口に薬品を塗り込む音や、巻き直される布の擦れる音だけが聞こえていた。

だが、2人のそんな重くるしい雰囲気は突然破られた。

少女が包帯をギュッと結んだ時、知らぬ間に伸びてきていたツールの手が、パンツの脇に差し入れられた。

 少女はそのまま、ベッドの上に引っ張り上げられると、彼の体の上に座らされてしまう。何かを期待してしまっているせいか、全く抵抗ができない。

 ゆっくりと少女の背中に彼の手が回され、何度も熱いキスをされる。

 少女はオオカミに捕まり、好きなようにされる野ウサギのように、されるがままだった。

キスの度に幸福感で頭が真っ白になっていく。

だが、その後にやってきた罪の意識によって、痛みがやってきた。

行き場のないその痛みに、白いシーツを握り締めると同時に、震える声をあげる。

「ツール様、おやめください……」

 細い手をツールと自分の間に差し入れ、少し距離をとる。

「いけまん。ツール様がシモーネ様とご結婚なさるからこそ、私達はバスティーユ牢獄で助かったのです。ご結婚は明日なのですよ? こんなところがシモーネ様に見つかってしまったら、全てが台無しになってしまいます……どうか、おやめ下さい」

 ツールは、2人の間の使え棒となっていた彼女の手を退ける。

「革命は俺の責務だ。父から託され、母に鍛え上げられ、市民に期待されているものだ。何が何でもやり遂げなくてはならない。だが……それ以上に、俺はお前を……」

 パンツはとっさに人差し指をツールの口元にあてた。

「ダメでございます。それ以上は仰らないでください……。今、私は安らかに生きているのです。せっかく自分を納得させることができているのですよ? ツール様は、また私を業火の中に投げ入れるおつもりなのですか?」

「パンツ、すまん。今宵だけは、許してくれ……」

 ツールは強引にパンツをベッドに押し当て、彼女の静かに佇む瞳に視線を注ぎこんだ。

 少女はすぐに目を背け、その先にあったランプを見つめた。彼の眼を見てしまえば、全てが終わってしまうことが分かっていた。彼の燃えるような眼に何度恋してきたか分からない。

 パンツの眼に映る頼りなく燃えるランプの炎は、自分の恋心のようだった。吹けば消けせるが、消してしまえば、恐ろしい闇がまっていて、とても消せない。

パンツは目をそっと閉じた。ツールに身を任せるしかない自分を見たくなかった。

 その時、部屋の外から廊下を踏み鳴らす音が聞こえてきた。エリンのものではない。

 ノックも無しに、ドアが開かれた。

 現れたのは、湯上りの髪をタオルで乾かす、シモーネだった。

 2人は取り繕う間もなく、言い訳のしようもない姿を彼女に晒していた。

 シモーネは髪を拭く手を止め、濡れ髪から細い目を少女に向ける。

「もちろん分かっているよ……あんたにとって、どれだけその男が大事な存在か。苦しんでいるんでしょう? でも、私だって、苦しかったのよ。王宮を離れたその男を、10年以上も恋い焦がれ続けていたんだからね。私はあんたよりずっと長く苦しんだんだ。分かるかしら? 分からないわよね? あなた、機械だものね!」

 シモーネはタオルを地面に落とすと、ベッドの上の少女に迫り寄った。

 ツールを押し退けて、ベッドの下に落とす。

 パンツの髪を引っ張りあげ、彼女を無理やり起こし上げる。

「さっさと、出て行きないよ。じゃないと、この革命を失敗に終わらせるわよ? あんたの粗相のせいで、失敗に終わってしまうわよ?」

 シモーネは、少女の髪を掴んで、部屋の外に引きずりだした。

 そのまま、廊下を引きずって歩き、彼女を裏口から外に投げ出す。

 少女は真っ暗な庭に転がり落ちた。

 口の中に泥が入り、今朝洗ったばかりのメイド服と髪の毛は、泥塗れになってしまった。うつ伏せの状態から、四つん這いになり、裏口を見る。

 シモーネは胸を荒い呼吸で上下させてから、家の中に引き返して行った。

 代わりに裏庭にやって来たのは、息を切らしたエリンだった。シモーネの荒ぶった声や、激しい物音を聞きつけて、慌ててやって来たようだ。

 少年は眉尻を下げ、哀れむような顔を少女に向けている。

 少女は、自分の醜態を見られているという苦痛に襲われたが、それを上回る気持に自然と涙がこみ上げてきた。

 それは、ツールが自分を助けに来ないという、惨めさだった。

 

 * * *

 

 ツールとシモーネの結婚式は、家の近くにある教会で行われることになっている。

 その教会は真っ白な外観が美しいのだが、それにも増して、広々とした内部を飾るステンドグラスが、美しいことでパリでも有名だった。由緒も正しいため、地元のローマカトリックの信者はだいたいここでの結婚式を夢見ていた。

 2人の式の参列者は、郊外の教会であるにも関わらず、ものすごい人数となった。革命軍と貴族軍の連合軍は、いまやこの国での最大勢力である。そのリーダー同士が結婚するというセンセーショナルは、パリ中を駆け巡り、市民という市民の関心を集めた。そういうわけで、数えきれないほどの市民が彼らを祝福するために集まって来ていたのだ。

 そんな参列者を押し除け、貴族の馬車が、続々と集まってきた。教会に続く登り坂の下にそれらは停車する。

 その馬車の中で、一際目立つ絢爛豪華なものがあり、その中からシモーネが降りてきた。彼女は、贅沢な刺繍を施したシルクのウェディングドレスに身を包み、ヴェールで顔を覆っている。 幾人もの従者が、彼女の何層にもなるスカートの裾を持ち上げると、彼女は教会に続く坂道を歩みだしていった。

 貴族も市民も歓声を上げ、彼女が教会に入って行く様子を見届けた。

 開け放たれた教会の大きな入り口では、タキシード姿のツールが待っている。

 いつになく晴れ晴れとした表情のシモーネは、坂を登り切ると、少女の時より夢見てきた光景に胸を高鳴らせていた。

 ツールは紳士的に彼女を教会に迎え入れると、彼女の手を取り、教会の中へゆっくりと進んで行った。

 その頃、パンツは家の家事に精を出していた。ダイニングのテーブルを磨きあげ、床も掃き清めていた。

 そこに、いつもよりは多少綺麗な格好をしたエリンがやって来た。せっせとホウキで床をはくパンツの後ろ姿に声をかける。

「よ、よお、パンツ……。今日の結婚式は、その、行かないよな?」

 パンツは忙しくホウキを動かす手を休めず、背中で答える。

「はい、今日は家事が忙しいですので、遠慮しようかと思います」

「そうか、大変だな……」

「はい、大事な式なのに、申し訳ございません。それに……もし、私が式に行っても、こんなみすぼらしい格好で参列したら、ツール様に恥をかかせてしまいますので……。だから、私はここにおります……」

「そうか……分かったよ」

 エリンは十分に綺麗な部屋を見回してから、ため息と共に、部屋を出て行った。

 パンツはドアが閉まる音を聞いてから、静かな部屋でホウキを落とした。

 もう全身に力が入らない。

 すがりつくものが無いと、おかしくなりそうで、気付くと、パトリシアの部屋を目指して、階段登っていた。

 パンツはパトリシアが死んで以来、彼女の部屋には決して入ってこなかった。

 彼女との思い出が蘇ってしまったら、正気でいられる自信が無かったのだ。

 しかし、今日はどうにもならない。

 彼女の残した何かにしがみつくしか、やり過ごす方法が思いつからない。

 パトリシアの部屋のドアをゆっくりと開け、中に入って行く。

 陽の光が差し込む、明るいその部屋にはまだ微かに彼女の匂いが残っていた。

 パンツはそこで、ふと、この部屋に初めてきた時の出来事を思い出した。

 パトリシアは紺と白のワンピースを少女に差し出し、どちらを着たいかと、選ばせた。パンツはその時に、自分の意思を示すことができず、結局どちらも選べなかった。それを見兼ねた彼女が、紺のワンピースを選んでくれた。そんな思い出だ。

 紺色のワンピース、あれは素敵な物だった。しかし、シモーネが持ち去ってしまったので、もうあの服に触れることは叶わない。

 あれさえあれば、それを着て、少しは安らかにいられたかもしれない。そう考えて、暗い眼を床に落とした。

 その時、ふと、思い付いたことがあった。

 白のワンピースが、この部屋に残っているはずだった。

 少女は記憶を頼りに、貴族の家にあってもおかしくないくらい素敵なマホガニーのクローゼットを開けてみた。

 そして、その中にあったものを見て、息を飲んだ。

「パ、パトリシア様、こ、これは……」

 その中に入っていたのは、白のワンピースではなく、純白のウェディングドレスだった。

 パンツは記憶を探ったが、自分の知る限り、こんなものはこの部屋には無かった。彼女がこっそり作ってくれていたとしか考えられなかった。

 そのウェディングドレスは、刺繍も無く素朴な物だったが、それ故の清楚さがあった。ところどころに、少女が大好きなレースが施されている。

 そのドレスの胸元には、一通の手紙が挟まっていた。

 パンツは震える手でその手紙を取り上げ、封筒を開いた。中にあった便箋を取り出し、それを広げる。

 そこに綴られていた文字は、暖かさと聡明さを感じさせるものだった。パトリシアの筆跡だ。彼女の筆跡を見間違うはずがない。

 そこに書かれている短い文章を食い入るように読んでいく。

 彼女の言葉を読み終えた時に、泣き崩れた。

 手紙を胸に抱き込み、大粒の涙をいつまでも流し、床に限りないほどの染みをつくった。

 しばらくそうしてから、もう一度、手紙を読んだ。

「可愛いパンツや、これをあなたが読んでいる頃、私はもういないわ。でも、悲しまないでね。私はちゃんと空からあなたを見守っているのよ。そして、いつか、あなたが自分の意思で生きられるようになったら、このウェディングドレスを着なさい。その姿を、私とツールに見せてちょうだい。あなたなら、きっとこのドレスを選べるはずよ。私は信じているわ。母より、愛を込めて」。

パンツは鼻をすすると、べそをかいたまま、ほっかむりの結び目に手を掛ける。

 ほっかむりを半ば強引に脱ぎ去り、それを勢いよく床に投げ捨てた。

 汚いメイド服に顔を潜らせ、乱暴に脱ぎ捨てると、それを引っ掴んで、窓まで駆けて行き、外に放り投げる。

 すぐにクローゼットに駆け戻り、純白のドレスを手に取る。

それを胸に押し当ててから、袖を通していく。

 真っ白なドレスの中をくぐり抜け、顔を出す。

背中のくるみボタンを止め、腰のコルセットを締める。

やや丈が短めに作られたドレスのスカートは、ふわりと美しく広がり、トレーンがあしらわれた裾が華やかに舞った。

 Aラインのシルエットが王道だと、いつしかパトリシアがそう言っていたが、このドレスも御多分に漏れず、Aラインだった。

 ヴェールを被り、真っ白なヒールを履いた。

 その姿を、姿見に写し、べそを拭う。

「着ました。私は自分で選べるようになりましたよ、パトリシア様。見ていてください。私はツール様のところに向かいます!」

 部屋を後にし、階段を駆け下った。

ドアを開け放ったまま、家を飛びだす。

 田舎道を走り、石畳を蹴り、教会に急いだ。

 間に合うかは分からなかった。

 結婚の申し込みを、ツールが承諾してくれるかも分からない。

 もし、ツールが結婚してくれても、革命がどうなってしまうかも分からない。

 もう無い無い尽くしだ。

 でも、心が走れと言っている。

 ツールのところに迎えと言っている。

 路地を曲がり、最後の一本道を走りきると、教会に続く小高い坂道が見えてきた。

 だが、その坂道の下に着いた時に、脚が止まってしまった。

 物凄い数の人だかりがそこにいた。

 荒い呼吸で肩を上下させながら、考えを巡らせたが、どうしたら良いか分からなった。とてもかき分けて進めそうになかったし、今の彼女では、飛び越えることは難しい。

 どうしようもできずにいると、群衆の中にいたエリンが、少女の姿を見つけた。

 少年は、彼女のドレスを眼に入れるや、その意味に気づき、これ以上ないほど声をあげた。

「パンツ! お前、花婿を奪いに来たんだな! そうだろ?」

 パンツもエリンに精一杯の声をだした。

「そうです! 私、私はツールの奥さんになりたい!」

 エリンは、彼女の明確な意思表示に、鳥肌が立った。

それは初めて見る彼女だった。

何が彼女を変えたのか、全く分からなかったが、そんなことはどうでも良かった。彼女の本懐を遂げさせねば、フランス男児の名が廃るというもの。エリンは目に炎をたぎらせ、ポケットから拳銃を取り出した。空に何発も銃弾を放つ。

 突然の銃声に、その場にいた全員がエリンを振り向いた。

 エリンはすかさず、パンツを指差し、金輪際声を失っても良いと思える程の大声を出した。

「お前ら、自由の女神様のお通りだ! 道を開けろ! 市民の道を作れ! 女神を導け!」

 一瞬、大衆は鎮まり返ったが、すぐに歓声が上がった。

 坂道にいたのはほとんど市民だった。彼らは内心で、大嫌いな貴族と結託するのが嫌だった。本当は、身分制度などない、真の市民平等の世を望んでいたのだ。

 そこに現れたのが、花嫁姿の自由の女神だ。

 群衆は一気に割れていき、パンツのためのバージンロードが作られていった。

 市民達が好きかってに騒ぐ。

「自由の女神様、頑張れ!」

「いけすかない貴族女から、リーダーを奪いとれ!」

 少女は、温かい声に背中を押されながら、バージンロードを直走った。

 駆けながら、色々なツールが思い浮かべる。

 フォーストキスの彼。

 真剣に身体測定をする彼。

 宇宙の構造に純粋に驚く彼。

 下着を置き忘れたうっかりな彼。

 自分が死んでも自分を守りたいと言ってくれた彼。

 結婚の前夜に自分を求めた彼。

 どの彼も、愛していた。

 彼への純粋な想いをだけを胸に、教会に飛び込んでいく。

 そこには、シモーネの薬指に指輪をはめようするツールの姿があった。

 パンツは胸に両手を当て、気持ちの限りを教会に響き渡らせた。

「ツール、私はあなたを愛しています! どんな時も、どんな状況でも、あなたの側にいたいです。あなたと結婚したい! 私を選んで!」

 ツールは、本当にパンツなのか分からないほど強い意思を目に宿した彼女を目にし、指輪を落とした。 

 そして、彼女が着る純白のウェディングドレスに目が留まった。ツールは母が毎晩遅くまで、縫っていたのを思い出した。死の前夜まで、一針一針をもって自分とパンツの絆を縫い上げると、そう言っていたのを良く覚えている。彼女がドレスに込めた想いが、パンツをここに導いたというのだろうか。そうに違いない。そうでなければ、あのパンツがこんな風に、自分の気持ちを訴えに来るはずがない。

 今の彼女が、どれだけ勇気を振り絞っているのか、想像も及ばない。彼女は、確かに昨日まで従属に支えられなければ、立っていらない脆い少女だった。それが、今は心の自由を手に入れた、自由の戦士として、自分の前に立っている。

 ツールは生前の父の言葉を思い出した。父は「革命とは、人々を自由を求める精神に目覚めさせることだ」と、良く言っていた。

 この革命に必要な精神に目覚めた最初の人間は彼女だ。そんな彼女を伴侶としなくて、何が革命軍のリーダーか、そう思えた瞬間、体のうちから蘇ってくる炎を感じた。

 ツールの目に革命の炎が再び灯る。

握りしめた拳を天に突き立て、少女に向かって叫ぶ。

「俺はお前と結婚するぞ!」

 パンツはその言葉を返すように、額に手をあてる。

「パンツァー2280レーザーヘッジホッグ、これより大好きなツールと結婚致します!」

 教会の半分側にいた革命軍達は、一斉に歓喜の声を上げた。彼らもやはり、ツールのパートナーはパンツじゃないとしっくりこないと思っていたのだ。

 ツールは彼女に向かって歩み出していった。

 だが、彼の手がシモーネによって強く引かれる。

 ツールが彼女に振り返ると、その光景に胸が締め付けられた。シモーネの泣いた顔など、見るのはいつぶりだか分からない。

彼女はうなだれ、聞いたこともない、か細い声を出す。

「お願いツール、私を選んでよ……何がいけないの? あなたのためになりそうなことは何でもしたじゃない。王妃様すら裏切ったのよ。他に問題があれば、言ってよ? ちゃんと直すからさ、だから……」

「すまない、俺はお前とは結婚できないんだ」

「私を裏切れば、貴族軍は全力で革命軍を潰すわ。死人が出るわよ? 今度はバスティーユ牢獄の比じゃないわよ? それでも、あの女を選ぶの?」

 ツールには、もう迷いはなかった。母の首をはねられ、バスティーユ牢獄で大量に市民が殺され、悟ったのだ。

「俺はもう血が流れることを恐れない。自由のために、血を流す。パンツは魂に従い、自由に生きることができる力を手に入れた。俺も魂に従い、自由を求める。シモーネすまない……」

 シモーネは彼の手を名残惜しそうに、ゆっくり離していった。

 ツールは彼女を想い、少し目を伏せたが、すぐにその目を上げる。少女に向かって駆けて行く。

 少女も駆け寄って行き、2人は教会の中央できつく抱き合った。

 パンツは、ツールの耳元で、優しい声で、ささやく。

「ああ、ツール……あなたを愛することに、もう迷わない」

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