もう俺達はパンツを捨てるしかないんだ

オオクラテス

第一章「少女と革命」

 過去に行くことは可能である。

 ニュートンの運動法則、相対性理論、量子力学、その全てが時間の逆行を許可している。つまり、過去には行くことができるのである。

 しかし、実際問題として、坂道を転がる石が坂の途中で止まり、坂道を登って行くところを見たことはないし。過去に行ってきたという人物、あるいは未来からやって来たという人物が、テレビ番組に登場することはない。

 それはなぜか。単純に私達が、時間に干渉するための、条件を満たしていないからである。その条件とは、わざわざ述べるまでもないことではあるが、「恋心」である。

 空間を歪めるほどの、莫大なエネルギーをもった「恋心」だけが、時間という4番目の次元への干渉を唯一可能にする。

 

 * * *

 

「ずっと好きでした……」

 150メートルはゆうに超える巨大なロボットの少女は、意を決して、そう告げた。

 少女は気恥ずかしさで、人間よりも白く美しい肌を紅潮させ、海王星のような青く丸い瞳を、爪先の辺りで漂わせている。かかとを、そわそわと上げ下げさせているので、その度に銀色のボブヘアがフワフワと踊っている。

 少女のいるこの部屋はいわゆる巨大ロボットの格納庫だ。全てが黄金に輝くこの部屋は、彼女の巨体をしまっておけるほどなので、広大である。その大きさを旧時代の表現で言うならば、東京ドーム百個分だ。そもそも東京ドーム何個分という表現はイメージがつきにくいが、どこまでも広い場所なのである。また、この部屋の黄金に輝く素材は、宇宙で最も高度の高い合金性であるため、良く音を反響し、少女の告白の台詞をいつまでも響かせていた。

 その反響が納まってなお、告白を受けた相手は沈黙を守っている。

 少女は告白の返答を待つ間、気が気ではなく、胸の内にあるブラックホーエンジンを宇宙創世の日のように熱くさせていた。そのせいで、そろそろオーバーヒートぎみで息苦しい。たまらず、口から言葉が飛び出す。

「あ、あの、お返事を……お返事を頂けないでしょうか?」

 少女はぜいぜいと喘ぎながら、そう言い切った。今の彼女にかかる、人生初の愛の告白の重圧は、天の川銀河の全質量の80パーセントほどに達している。耐えることは容易ではない。

 一方、愛の告白を受けた相手はというと、少女のすぐ足元にいた。普通の人間サイズのその男は、普通の人間である。両手を白衣に突っ込んだまま、口を半開きにして、ただ固まっている。

 この男の反応は特別なものではない。自分が論文を元に製造した巨大ロボットが、突然自分に愛の告白をしてきたのだ。誰だってそうなる。

 しばらく経ち、ようやく我に返った彼は、白衣のポケットから片手を出し、歳の割に白髪が多い短髪をかきあげながら、低い声を出す。

「恋心とは驚いた。まさかお前にそんなものが芽生えていたとは……。いったいいつからそんな感情が芽生えていたのだ?」

 少女は男の目を見ることなく、小さな声で答える。

「私が初めて起動いたしました、3年前からでございます。その時からずっと博士のことが……す、好きでした……付き合って下さい……」

 その言葉から伝わってくるものは、自信の無さばかりだった。

 男は冷たい調子で、とうとう告白への返答を口にする。

「好きだと言われて、はいそうですかと、付き合えるわけがないだろう?」

 少女は分かっていたはずの返答に耐えられず、顔を両手で覆う。だが、挫けずに、涙の混じりの声で最後の押しにでた。

「博士は長身の女性がお嫌いなのでしょうか? 凸凹カップルは世間には沢山いるものだと聞きます。私達の身長差なんて、たったの150メートルちょい、ではありませんか……」

 その言葉の最後は、涙に変わっていた。そう言ってみたものの、抵抗を言葉にすればするほど、不可能な恋であることを痛感するだけだったからだ。

 博士と呼ばれるその男は、深くため息をついてから、きりりとした狐目を少女に向けた。

「良いか? 私がお前と付き合えないのは、身長差のためではない。お前が人類の最終兵器だからだ。私は、恋愛を擬似体験するためのロボットとして、お前を作ったのではない。さあ、わずらわしいことを言っていないで、さっさと出撃しろ!」

「わずらわしいことだなんて……そんな……。い、いえ、そうですよね。申し訳ございませんでした。直ちに出撃致します……」

「そうだ、直ちに出撃しろ!」

 その言葉の後に、沈黙が2人を包んだ。音を伝えるための空気が、この格納庫からすっかり漏れ出てしまったかのようだった。

 沈黙の中、少女はまだ何かを言いた気に、口を開きかけては閉じを、繰り返していた。

 博士は、出撃すると言っておきながら、一向に出撃する気配の無い少女に苛立ち、とうとう怒気を帯びた声を浴びせる。

「いい加減にしろ! 早く出現の準備をするんだ! もう人類にはこの宇宙戦艦アーク・デ・ノアしか残されていないのだぞ。その頼みの綱ももう轟沈寸前なのだ。この船が沈めば人類は全滅だ。良くても、宇宙人達の動物園で飼われるか、博物館で剥製にされて飾られるか、そんな道しかない。残されたパンツァーも、お前が最後の一機だ……」

「そ、そんなに人類軍の戦況は悪いのですか……。お姉様達も全員やられてしまったなんて……信じられません」

 少女は透き通っていた青い瞳を、徐々に濁らせていった。

 その時、2人のいた巨大な格納庫が激しく揺れると共に、灯火が消えた。

 格納庫は暗闇と化してしまう。

 すぐに灯火管制により、オレンジ色の光が室内を満たしたが、再び視界が戻った世界はすっかり不気味な空間となってしまっていた。

 少女は起動してから、まだ数分と経っていなかったが、今の揺れと博士の話で状況を完全に飲み込んだ。

 旗艦であるこの戦艦が、今のような攻撃を受けたということは、人類が誇っていた宇宙艦隊が全滅しているということだ。人類の最期はもうそこまで来ている。

 少女はやかましく叫び続ける恋心を縛りあげ、心の奥底に押しやった。そこで、やっと博士を見返す。

「私は人類を全力でお守り致します。立派に戦ってみせます!」

 そう言い、自分を固定していたケージから抜け出て、体に繋がる無数のケーブルを引き抜いた。数歩前に出て、そこにあったタッチパネルに軽く触れる。

 すると、方々の床や天井から、無数のロボットアームが飛び出してきた。それぞれのアームは兵器や部品を掴んでおり、瞬く間にそれを少女に取り付けていく。

 初めは白い水着のような戦闘スーツ姿だった少女の身に、数秒も経たずに、鋼の鎧が組み上げられた。さらに様々な兵装が彼女に取り付けられていった。

 その兵器の1つ1つが取り付けられていく度に、少女は自分に言い聞かせる。

(私は兵器、私は兵器……)

 ガンマ線レーザーファランクス。電磁加速キャノン。反物質照射ブラスト。光子魚雷ポッド。人類の英知を終結させた兵装が、百点以上取り付けられていった。それらで、少女の肌がすっかり見えなくなる頃には、乙女心はすっかり鋼鉄の奥底に埋もれた。

(私の価値は命令に従い、戦うこと……)

 少女は最後に砲身が100メートル以上はあろうかというライフルを片手に持たされる。そこで意を決した。

(身も心も命令に捧げます。それが正しい道なのです)

 ロボットアーム達は、全ての兵装を少女に取り付け終わると、内側に一斉に引き返していった。

 少女は戦闘の準備が整うと同時に、かかとを揃え、背筋を伸ばした。片手を斜めに額にあて、勇ましい声を格納庫中に響き渡らせる。

「パンツァー2280レーザーヘッジホッグ、戦闘準備が整いました! 作戦をお聞かせ下さい!」

 博士はそれを聞き、大きく息を吐き出し、肩の力を抜いた。そして、少女に作戦を伝える。

「自爆しろ」

 その言葉は、少女が愛する者から貰いたい言葉ではなかった。少女の内側にある鋼でできていない部分が、強く締め付けられる。どれだけ決意しようと、言い聞かせようと、心が消せなかった。握り潰される度に、痛いと悲鳴をあげる心が、邪魔で仕方なかった。

 博士は復唱しない少女を睨みつけ、こめかみに力を入れていった。とうとうその怒気は、言葉になる。

「聞こえなかったのか!? 自爆しろと言っている。お前に搭載されているブラックホールエンジンを暴走させ、この宙域にブラックホールを作りだすのだ。そのブラックホールが敵を全て飲み込み、圧し潰す。それで人類は勝てる!」

 少女は瞳孔を開いたまま、なんとか過呼吸を押さえ込み、言わなければならない言葉を絞りだす。

「りょ、了解いたしました。確実にやり遂げてみせます……」

 少女は、自分がブラックホールの永遠の闇に呑まれていく姿を思い浮かべ、恐怖で脚がすくんだ。その闇に落ちてしまえば、人生の最後の瞬間まで、地に足がつくことはない。しかし、どんなに恐ろしくても、愛する者の命を救える可能性があることなのだと、そう考えれば、なんとか体は動いた。しっかり啓礼をしてから、勇ましい声を格納庫に再び響き渡らせる。

「それでは、出撃致します! 博士、どうかご無事で」

 なんとか声は滑らかに出せたが、握りしめているライフルの銃身は震えていた。

 その刹那、激しい爆発音が格納庫を襲った。

 凄まじい振動と共に、嵐のような熱風が部屋を満たす。

 吹き飛んだ内壁の巨大な破片が、何度も少女を打ちつける。

 少女は顔を両手で覆い、爆発に耐えていた。

やがて状況が落ち着いてくると、黒煙が立ち昇る部屋を見回す。

 辺りの視界がほとんど無い中、名前すら知らない彼を呼んだ。

「博士っ、博士っ!」

 どんなに叫べど、彼からの返事は返ってこなかった。

 体が勝手に彼を探していた。

 何もかもが溶けるほどの熱さの中、センサーを最大限に使い、手探りで瓦礫を退かし続ける。

 やっと、巨大な瓦礫の下で彼を見つけた。見たところ、彼の外傷は浅く、気絶しているだけのようだった。

 少女はぐったりとした彼の体を持ち上げ、一つだけ残っていた退避可能な通路に彼を押し込み、エアロックを硬く閉ざした。

「ここなら安全でございます。どうかご無事でいて下さいね。ご命令も愛しく思っておりますので、しっかりやり遂げます。それでは……自爆してまいります……」

 少女は爆発が起こった場所を探し、見つけた場所に駆けて行った。

 そこには巨大な穴が開いていた。

 その穴を通ってきたと思われる全長200メートルはあろう巨大な砲弾が、金色の天井につき刺さっていた。

 少女は、人類の喉元に深く突き刺さる牙を見上げ、呟く。

「この戦艦の重要な場所『コア』には、レーザー攻撃が効かない構造ですから、このような前時代的な実弾を撃ってきたのですね……」

 少女は見上げていた顔を、再び足元の大穴に戻す。

 首を伸ばし、中を覗き込む。

 底が全く見えない。

 室内の空気を永遠と吸いこむ音が、腹の底に響き、不吉な予感を感じさせた。

 少女は、二の足を踏み、後ずさりをしかけたが、なんとか踏み留まる。

「何をしているのですか、私! お願いですから、飛び降りて下さい!」

 そう言ってから、ライフルを強く抱き込み、勢いよく大穴に飛び込んだ。

 穴に落ちている途中、無数に漂う瓦礫や人の死体、鉄の軋む音が、少女の不安をさらに煽った。

 少女はその長い暗闇をやっと抜け、宇宙空間に飛び出した。

 摂氏マイナス270度の闇の世界は、静寂で、人が死ぬのには充分過ぎるほどの有害な宇宙線が降り注いでいる。

 少女は戦艦の表面に着地すると、大嫌いな暗黒の世界を見渡した。

「相変わらず恐ろしい世界です。どうせ、死ぬのならお花畑とか、博士の腕の中が良かったのですが……」

 小さなため息と共に、天を見上げる。

 そこには、果てしない数の巨大宇宙戦艦が漂っていた。

 その光景は、まるで宇宙の星々全てが少女に敵意を向けているかのようだった。

 全天を覆う敵は、少女を確認すると、全ての砲身を彼女に向け、上空からの艦砲射撃を開始する。

 すぐに砲弾の嵐が少女を襲ってきた。

 巨大な砲弾が何度も少女に命中し、その度に、鎧のが砕けていく。

 少女は両の腕で顔を守りながら、身をかがめているが、破壊されてしまうのは時間の問題だった。

「お願いですから顔は撃たないでくださいね。女の命ですので……」

 敵からの攻撃に耐えていると、腕の隙間から、自分が立つ宇宙戦艦の船体が見えた。

 全長50キロはあるその船体は痛々しいほど傷ついていた。かつては美しく銀色の輝きを放っていたのだが、その装甲はもうほとんど残っていない。宇宙一とまで言われた巨砲群ですら、もう数えるほどしか残っていないようだった。だが、残った砲塔が懸命にレーザー砲を敵に撃ち返し、抵抗している様子が目に入った。まだ生存し、戦っている人間がいるようだった。

 その様子を見た少女に、戦意が少しずつ沸き上がってくる。拳を強く握り込んでいく。

「これ以上この戦艦を傷付ける訳にはいきません。それに、敵の群れの中心部で、自爆する必要があります……」

 片目を閉じながら、豪雨の空を見上げる。

「本気で戦わないといけませんね……アルティメットモードになります!」

 その言葉と共に、少女は目を刺すような紺碧の光に包まれていった。おびただしい数の青い粒子が舞い、彼女の周囲を渦巻きだす。それを纏った状態で、少女は姿勢を低くしてから船体を強く蹴り、跳躍する。

 宇宙に青い粒子の帯を描きながら、飛ぶ。

 飛行する彼女の速度は急激に上がっていき、第三宇宙速度をあっという間に超え、遂に亜光速の域に入った。そのスピードのまま敵の群れに突っ込みながら、所持している火器を一斉に放っていく。全ての武器の弾倉が空になるまで、全ての武器の砲身が焼き切れるまで、撃ち尽くした。狙う必要などない。この宇宙が全て敵なのだ。

 数万、数十万の敵戦艦が一瞬で破壊され塵となっていく。

 そこで、少女の持つ全ての武器の弾が尽きた。

 漂う塵が晴れてくると、敵の艦隊が徐々に現れ出てくる。この程度の攻撃では数が減ったうちに入らない彼らは、少女からの猛攻に怒ったように襲いかかってきた。宇宙がうごめき、凄まじいスピードで少女に迫ってくる。

 少女は、敵のその様子を目に入れ、少し顔を緩ませた。

「良いですよ! その調子で私を追いかけてきて下さい……」

 武装を全て切り離し、再加速を行う。宇宙で最も早い少女は、暗闇に青い軌跡を残しながら、敵の群れの中心を目指す。

 しかし、すぐに進路を妨害する敵の艦隊が現れ、少女に向けて深紅のレーザーを一斉に放ってくる。

 少女は何度も攻撃を受けながら、全身を再び眩い青い光で包んでいく。

「丸腰と思わないで下さいね。ブラックホールエンジンから供給される無限のエネルギーを味わって下さい!」

 彼女が発する青い光はどんどん強さを増していき、最高潮に達したところで、レーザー光線へと変わった。

 鋭く輝くレーザーは全方位に向け、無限に放出されていく。

 少女のその姿はまるで、ヘッジホッグ、ハリネズミだった。放たれたレーザーの数は凄まじく、宇宙が青く染まるほどだった。

 個々のレーザーは、初めは直線的な動きだったが、徐々に湾曲し始め、最終的には敵を目指し、蛇行して進みだした。進路上の敵をひたすらに貫き、群れを縫うように走っていく。その軌道には、百万隻の船の爆発した光が残った。

 少女はそうやって進路を確保しながら、さらに敵の中心を目指し、飛んだ。

 その飛行中で、少女は胸に両手を当て、ブラックホールの生成を始める。

 少女の胸が黒く不気味な光を放ちだし、その光の中から、漆黒の球体が現れた。

 ブラックホールエンジンだ。

 少女はそれを両手の平で包む。

「さあ、みなさん、私と一緒に無限の闇に落ちましょう!」

 球体は小粒に見えるが、本来の質量は木星と同程度である。少女が行っていた重力制御により、極めて軽くなっていたが、徐々にそれが本来の質量に戻っていく。

 超重力が発生しだすと共に、半径数百キロ以内にある岩石が動きだし、少女の周辺に引きずられていく。

 少女は、黒い粒子のうねりに包まれていき、ほとんどその姿が見えなくなっていった。

 そうやって飛行している中、少女は突然深紅のレーザーに背中を撃たれた。さらに、少女を血のような真っ赤なレーザーが360度から浴びせられる。

 その攻撃のはずみで、少女の手にあった漆黒の球体は弾き飛ばされ、どこか彼方に飛んでいってしまった。

 少女は必至にそれに手を伸ばす。

「待って、いかないで下さい!」

 だが、少女は激しい攻撃で、ブラックホールエンジンを全く追うことができなかった。2万キロほど弾き飛ばされたところで、なんとか踏み止まることが出来たが、依然として敵の攻撃にさらされされている。

 まとっていた鎧も、ことごとく破壊されていき、もう僅かに残るのみだ。

 少女は、もうほとんど頼ることのできない鎧に触れる。

「ま、まずいです。もう一度こちらから攻撃をしかけて、ブラフックホールエンジンを取りに行く隙を作らないと……」

 少女は再び、体から強い光を放ちだした。

 だが、その光は発散して、かき消えてしまう。

視界の端に警告が現れる。

「エネルギー不足、バッテリー残量10%」

 少女は震える体を抱き込んで、ゆっくりと体を丸めた。

「そ、そうでした。無限のエネルギーを持つブラックホールエンジンを切り離してしまいましたから、今はバッテリーで細々と動いているのでした。エネルギーが足りません。ど、どうしましょう……」

 敵の集団はうねりながら、赤く発光しだすと、鮮血に近い色のレーザーを一斉に放った。

 無数の深紅の閃光が、暗闇の空間を突き進んでくる。

 その閃光は、少女に瞬きをする間も与えないスピードで、飛来した。

 少女は目を硬く閉じ、死を覚悟した。そして、最後の言葉を言い残す。

「博士、申し訳ございませんでした。作戦は失敗です。もし、私が生まれ変わって人間になることができたなら、その時は……恋愛して下さい。よろしくお願い致します……」

 少女の顔がレーザーの光で真っ赤に照らし出されていく。

 だが、レーザーはいつになっても、やってこなかった。

 少女は異変に気付き、そっと目を開ける。

 真紅のレーザーは宙で止まっていた。

 少女はすでにブラックホールの中にいたのだ。

 ブラックホールの中では時間が無限に引き伸ばされる。それ故に、一秒が無限秒に引き伸ばされるので、永遠にレーザーは少女に命中しないのだ。

 漆黒の球体は少女の近くのどこかで、無事にブラックホールに成長してくれていたようだった。

「博士、ブラックホールの生成に成功致しました! やりました!」

 少女は、何度も両手を突きあげた。

「宇宙人さんには申し訳ないのですが、これで、人類は生き残ることができます!」

 少女が確認することはできないが、おそらくブラックホールはどんどん成長していき、敵戦艦を吸い込み。とてつもない重力で艦隊を圧し潰している頃だろう。

 少女は胸が軽くなる思いで、たった一人の作戦の成功に浸っていた。

 だが、喜びも束の間だった。

 彼女は、自身も無限の闇に落ちていることに気付く。

 知らぬ間に、あらゆる計器が使用不能になっていった。

 やがて、超重力による故障で、アラートが鳴りっぱなしになる。

 辺りは完全な暗闇と化していき、星はもう見えなくなっていた。

 粒子のうねりが、海の大流のように少女を幾度も襲う。

 少女の体は全く言うことを聞かず、ブラックホールの中心に向かって、ただどこまでも引きずられていった。

 ブラックホールの震度が深くなるにつれ、徐々に超高密度、超重力になっていき、わずかに残っていた鎧も、分子の結合が引きちぎられ、湯に雪を浸すように消えていった。

 少女はボロボロのスーツだけとなった体を両手で抱える。

「こ、怖いです。怖いです。助けて下さい。誰か……助けて……」

 闇はさらに深みを増し、その中心である特異点に少女を誘う。

 特異点にあるのは無限の重力だ。

 少女の体はミシミシと不快な音をたて始めたている。

 圧壊まであと僅か。

 視界も、もはや警告メッセージで埋めつくされている。

 その時、ブラックホールの中心にあった特異点に変化が起きる。重くなり過ぎた特異点が、空間を破いてしまったのだ。ブラックホールの深い深い場所にポッカリと穴ができる。

 少女はそれに気付き、その穴を見た。

 穴の向こうには、暖かそうな光がある世界が広がっている。

「ワ、ワームホールです。なんとラッキーなことでしょうか。安全そうな場所が見えています。は、早く飛び込まないと!」

 ワームホールは空間と空間をつなぐトンネルだ。何らかの原因で空間が破れた際に、一瞬だけ発生する。そのワームホールの先がいつなのか、どこであるのかは誰にも分からない。だが、少女が助かる道は、飛び込むことだけだ。

 少女は持てる力の全てを使い、ワームホールを目指す。

 超高密度、超重力のブラックホールの中心は遠く、体がもつかは賭けだった。

 限界が近づき、徐々に意識が薄れていった。

 

 * * *

 

 そこは、ゴッホが描いた抽象画のような、美しい夜の街並みだった。

 男は、僅かな星明かりを頼りに、石造りの街並みを走っていた。石畳を蹴り、息を切らし、時々後ろを振り返っては、追手を確認している。頭に乗せているシルクハットは何度もずり落ちそうになり、その度に直していた。

 その彼の肩には、不気味な人形が一体抱えられている。それは人の大きさほどもあり、言うなればマネキン人形である。

 重たそうにそれを抱える男は、貧しい市民が住む地区に走り入る。

 その地区に住むパリっ子達が、数階建ての住居のあちらこらから顔を出し始めた。彼らは、男がここを通ることを知っていたようだ。

 部屋のロウソクや、オイルランプの灯りが一斉に路地に漏れ、男の行く手が、あっという間に明るく照らしだされていく。

 パリの市民達は、石と木ででた粗末な住居の窓から、身を乗り出し、彼に声援を贈る。

「いいぞ、ツール! 頑張れっ!」

「もやし男がとうとう強奪に成功した!」

「革命バンザーイ!」

 その声に応えるように、男はシルクハットを手にとり、それを彼らに振る。

「俺はやったぞ! 見直したか!」

 そう叫びながら、走り去って行き、路地には長く伸びる彼の影だけが残った。

 その影を全速力で追う者達がいた。4体の着飾った女性のマネキン人形だ。彼女達は見た目に反し、中に人間でも入っているかのように滑らかに動いている。糸で操られている様子もないため、彼女達がどうやって動いているかは、誰も知らない謎だった。

 彼女達の見た目は、誰もが背筋を凍り付かせるような化物のそれである。目には瞳が描かれておらず、のっぺりとした顔にはおびただしい数の血の痕が染みついている。そんなおぞましい彼女達の手にあるのは大斧だ。見るからに重厚そうで、とても人間が振れそうな代物には見えない。彼女達には相当な腕力があるようである。

 パリの市民達は、自分の住居の下まで彼女達がやって来ると、ツールの時とは打って変わり、ブーイングを始めた。さらに、部屋にある目についた物を次々に投げ落としていく。一日働いた夫の臭い靴下、かなり匂うアンデゥイエット、妻の体臭が染みついた肌着などを、どんどん投げ落としていく。その結果、彼女達の軌跡には、汚いゴミの山ができたた。

 彼女達は、市民にそうとう忌み嫌われている存在のようだ。

 ツールと呼ばれ、もてはやされていた男は、シャンゼリゼ通りに入る少し手前のところで、裏の路地に入っていった。ここはいつも追手をまく時に通る場所である。

 その路地を少し行ったところに、首にスカーフを巻いた金髪の少年がいた。彼はツールを見つけると、手にしていた拳銃を振り回しながら、彼を呼ぶ。

「旦那! こっち、こっちです!」

 ツールは少年の甲高い声に気付くと、彼のいる細い路地に走り入っていった。息を整えながら、少年への挨拶代わりの文句を言う。

「なんだよ! 増援ってエリン一人だけなのかよ?」

 少年は尻上がりの声で返す。

「そうですけど?」

 ツールは額に血管を浮き上がらせながら叫ぶ。

「こんな大事な作戦なのに、増援がヒョロヒョロのエシャロットみたいな野郎だけって、おかしいだろう?」

「ちょ、ちょっと、怒んないで下さいよ。一応、みんなに声はかけたんですよ? けど、今回はビスクドールに襲われるかもしれないから、みんなビビって来なかったんです」

 それを聞いたツールは手で目を覆って嘆く。

「かぁ……情けないね。俺達は革命をやってんだよ?」

「そうですけど。革命軍には武器がありませんからね。仕方がないですよ」

「武器より大事なもんがあるだろうがよ。革命の心がよ!」

「知りませんよ、そんなもの。それより、捕まえたビスクドールを見せて下さいよ? 一度近くで見てみたかったんです」

 そう言ったエリンの目は、宵闇で見えそうなほど輝いていた。

 ツールはそれを聞き、一転ニンマリとした。誇らしげに、薄い胸を張りあげ、鼻下を擦る。

「へへっ、すげえもんだぜ。まあ後でじっくり見せてやるからよ。それより、早くアジトに隠れちまおう!」

 彼はそう言ってから、背後を振り返り、辺りの様子を伺った。

 エリンはやたらに焦っているツールを訝しむ。

「旦那、何でそんなに焦っているんです?」

 少年に向き直ったツールは、あっさりと答える。

「ああ、俺、ビスクドールに追われているんだ!」

 それを聞いたエリンは、肩をすくめ、手にしていた拳銃をガシャリと地面に落とした。

「お、脅かさないで下さいよ? やだな、冗談でしょう?」

「すまねえ、ヴェルサイユ宮殿からビスクドールを盗みだす時に、見つかっちまったんだ。じきにここにやって来る!」

「そ、そんな……。俺達殺されちまうじゃないですか?」

 少年はパニックを起こし、ツールにしがみついた。彼の黄ばんだシャツを、破れんばかりに握って揺する。

 ツールはというと、逃げてきた身分であるにも関わらず、勝ち誇った表情を少年に向けている。

「なあに、心配はいらねえ! とにかく、早くアジトだ。アジトの中に隠れるんだよ」

「隠れたって、無駄でしょうよ? あっちはあのビスクドールなんですよ? こっちはインゲンみたいな男と、エシャロットみたいなお子様なんですからね? 弱っちい野郎2人じゃ、すぐに斧で首チョンパですよ!」

「大丈夫だ、エリン! 今回は負けねえ! なんたって、今回はこっちにもビスクドールがあるんだからよ!」

 ツールはヨイショと、抱えていた古びた人形を持ち上げてみせた。人形からは関節が軋むひどい音がして、その後にヒビ割れた箇所から、何やら大事そうな部品がコロリと落ちた。錆びの粉もモワッと出てきたので、ツールの肩が茶色く染まった。

 エリンは、雇い主が盗み出してきた物から、ポンコツの匂いを嗅ぎ取ると、両の眉がくっつきそうなほど眉を寄せた。

「そのビスクドール、二日酔いの旦那みたいにグンニャリじゃないですか? ちゃんと動くんでしょうね?」

「動く……と思う!」

「でた! 今回もそんなこったろうと、思いましたよ。旦那の作戦はいっつも賭けばっかりだ。でも……今回はそいつを使うしか道が無さそうだしな。仕方ない、早いとこアジトの中で、そいつを調べましょう。人形の体のどこかに、動かすための仕掛けが、あるかもしれません」

「おう、そうだな!」

 2人はエリンの真後ろにあった両開きの厚い木戸を開け、アジトの中に入って行った。そこは元々農具などを保管していた場所だったらしく、床には藁が散乱していて、有輪犂などの大型の農具もあった。

 2人は急ぎ足で、地下に続く階段を駆け降りる。

 こじんまりとした地下室には、工具やガラクタが散乱していて、中央にはベッドがあった。

 ツールはオイルランプに火を灯すと、ベッドの上にビスクドールを寝かせる。

「いやー、肩こった、エリンちょっと揉んでくれ?」

「嫌ですよ! 今は、旦那の肩の1つや2つどうだって良いんです。早くこいつを動かしちまわないと、俺たち挽肉にされて、明日にはハンバーグ定食として、王妃のランチにされるんだ……」

 少年は、雨にうたれる捨て犬のように、震えていた。

 ツールはそんな少年の肩を軽く叩く。

「まあ、落ち着け。とりあえず、何か仕掛けがないかを調べる。お前、人形の服を全部脱がせ!」

「ええっ! 俺がやるんですか? 嫌ですよ! 初めて女の子の服を脱がすのは、ソフィーヌちゃんって決めているんですからね。人殺し人形なんかじゃ困りますよ!」

「バカヤロウが! ただの人形じゃねえか?」

「そんなこと言うなら、旦那、お願いしますよ?」

「俺は……俺はダメだ……。よし、別の方法だ。そうだな……」

 ツールは顔を赤らめ、こめかみをかいた。

 少年は、子供に命令しておいて、いざ自分に白羽の矢が立つと、ろくに理由も言わずに断る大人に口をあんぐりとせる。

「もう、しっかりして下さいよ! 使用人が不安になるじゃないですか!」

「大丈夫だから! 俺が責任をもってこいつを動かす方法を見つける。だからその間、お前は追っ手のお人形さん達を食い止めておけ!」

「ええっ! 子供が危険な役割の方なんですか? 無茶言わないでくださいよ。こんな年はもいかぬ子供が、化物を食い止められるわけないでしょう? ろくに給料も貰えてないから、アバラ骨が浮いて見えているんですからね? 絶対瞬殺されるパターンですって!」

 ツールはやかましい使用人にうんざりし、声を荒げる。

「だああ、うるさい! 上に農具があっただろ? あれでバリケードでも作っとけ! それでしばらく時間が稼げるから!」

 エリンは口角をめいいっぱい下げ、地獄より深いため息をつく。

「へいへい、バリケードを作れば良いんですね。その代わり、そのビスクドールをちゃんと動かしておいて下さいよ? 頼みますからね?」

「んああっ、早く行け!」

 ツールはハエでも払うかのうように使用人を追っ払った。

 エリンはハエでも口に入れられたかのような苦々しい表情で、一階に続く階段を渋々登って行った。階段の途中で、つぎはぎだらけのオーバーオールのポケットから、皮の手袋を取り出し、手にはめながら、追加で文句を言う。

「まったく、いつも作戦が適当なんだから。そんなんだから毎度毎度、国王軍に負けるんだ……」

「おい、聞こえているぞ!」

 地下から聞こえてきた怒鳴り声に、少年は肩をすくめる。

「すみませんねっ!」

 ツールは使用人を威嚇し終えると、ドスンとベッドに腰をおろした。腕組みをしながら人形を見つめ、どうしたものかと考えを廻らす。しばらく唸っていると、ふと昔に母に聞かせてもらった童話を思い出した。

 その童話は、茨姫という百年ほど眠り続けているお姫様を、王子様がキスで目覚めさせるというものだ。

 ツールはこれだと手を叩く。さっそく自分の顔を人形の顔に近づけていく。だが、すぐにえずいて、顔を背けた。

 人形の顔がちょっとアレだったのだ。表情が不気味なうえに、汚れやひび割れがひどい。とてもファーストキスを捧げるような相手に思えなかったし、仮にそうすることで無事に動かすことができたとしても、こんな殺人鬼に好きになられても困ると思ったのだ。

 体勢を戻し、弱ったと頭をかいたその時、突然ツールの周辺の空間が暗転し始めた。

 自分を中心に、闇がどんどん広がっていく。

 夜の暗さではない、もっとずっと暗い何かだ。

「な、な、何だ? どうした?」

 ふと、少し先の机に置いてあるオイルランプを見たが、その周辺は煌々としている。

 自分の周りだけが、どういう訳かとてつもなく暗のだ。

 やがて、どこから湧いてきたのか、黒色の粒子が砂嵐のように舞い始めた。それはやがて渦となり、天井付近で一箇所に集中しだすと、突然大きな穴を宙に作った。

 それが出現すると同時に、強い衝撃波が走り、ツールは吹き飛ばされ、壁に打ち付けられた。そのまま仰向けに床に倒れこんだ。

「い、痛ってえ……。一体どうなっているんだ?」

 あまりに激しく全身を打ちつけたので、しばらく呼吸がままならず、身動きもとれなかった。しばらくして、何とか立ち上がれるようになると、痛む腕や頭を摩りながら、天井にできた穴を覗き込んだ。

 その穴は良く見ると、穴ではなく、球体だった。何とも不思議な球体で、色は全体的に黒いのだが、無数の光点があり、まるで星空を閉じ込めた水晶玉のようだった。その星空は瓶の底を通して見ているように、グニャリと歪んでいるので、ずっと見ていると、並行感覚を失った。そんな浮遊しているような気分を味わいながら、さらに球体を観察していると、そこからゆっくりと、何かが現れ出てきた。

 ツールは肩を跳ね上げて、のけぞった。

 現れたのは、真っ白なアルビノの少女だった。

 最初に見えたのは、新雪よりも白い素足で、次は僅かに衣を纏った小柄な体軀、最後は顔だった。少女の小さな顔は、東洋人のような優しい丸みを帯びている。フワリと揺れる銀髪も老婆のものとは違い、シルクのような艶があった。

 ツールは、人種の入り混じるフランスですら、こんな姿の人間を見たことがなかった。即座にこれは神の創造物で、主が我らフランスの民を救済するために、遣わした天使だと悟った。

 少女は球体から完全に抜け出ると、鳥の羽が落ちるように、ゆっくりと下に降りていき、そのままベッドの上に仰向けに着地した。

 ツールは天使の降臨を目の当たりにし、興奮を抑えられず、全身の激しい痛みに耐えながら、少女の元に歩み寄って行く。

 ベッドの周りには、衝撃でバラバラになったビスクドールが散乱していたが、もはやそんな物はどうでも良かった。

 ベッドの脇までやってくると、仰向けに横たわる天使を改めて眺める。

 その神の造形物は、筆舌に尽くし難いほど美しく、瞬きも忘れて食い入った。

 しばらく腰を引き気味で、彼女を見ていたが、次第に彼女に触れてみたいという気持ちが強くなってきた。とうとう指先で彼女の顔のラインをなぞる。気づくと、自然と彼女の唇に、自分の唇が吸い寄せられていった。彼女の顔元に手をつき、ゆっくりと彼女に顔を近づけていく。

 2人の唇が重なる。

 その感触に、ツールの背筋に電撃が走り、腰が砕けそうになった。その後にやってきたのは温もりと、安らぎだった。時間が止まってしまったかのように、ずっとしていた。

 アルビノの少女は、唇の感触に導かれ、意識を徐々に取り戻していった。薄らと目を開け、おぼろに映る視界の中で、ツールの顔がゆっくりと像を結んでいく。

 整った顔に、燃えたぎるような目が印象的な顔だった。

 やがて、少女は自分がされていることに気付き、目を見開いた。

 一気に顔を紅潮させていき、気付くと、彼を両手で押し除けていた。

 とっさに、ベッドの上で膝を抱えて座り、その膝頭に顔を隠す。

(な、何でこんなことが起きているのでしょうか。私がされていたことは、間違いなく……キス。夢にまで見た殿方とのキス。一体どうして……。状況は良く分からないですが、とにかく嬉しいです。今日の乙女座のラッキーアイテムはブラックホールですね!)

 少女はパニックが徐々に治まってくると、やっと膝から目を覗かせた。

「あ、あの、素敵な王子様、あなたはどちら様でしょうか?」

 ツールも気恥ずかしさで、顔を真っ赤にさせながら、ドーバー海峡を泳いでいるかのような目で答える。

「お、俺か、俺は泣く子も黙る革命軍のリーダー、ツール・ド・フランス様だ! そ、そっちは?」

 少女は膝越しのくぐもった声で答える。

「わ、私は、パンツァー2280レーザーヘッジホッグでございます」

「パ、パンツァ、何だって? 天使の名前っていうのは、どこまでが苗字なのか分からないものだな。長くて覚えられそうにない……よし、最初だけ取って、俺はお前を『パンツ』と呼ぶことにする!」

「パ、パ、パンツ!? 乙女になんという名前をつけるのですか!」

「す、すまん、嫌か?」

 少女は両足を強く抱え込み、耳を真っ赤にする。

「い、嫌ではございません。恋人同士は恥ずかしい名前で呼び合うものだと聞きます。ぜひ、私をそうお呼び下さい!」

 ツールはその言葉を聞き、胸を撫で下ろした。おそらく人類初となる天使との交信に動揺し、畏多くも神仏を「パンツ」などと呼んでしまったことで、天罰の1つでも下らないかと心配したのだが、大丈夫そうだった。いや本当は、ファーストキスの相手の女性に嫌われたくなかっただけだった。

「そうか、良かった……良かった……」

「はい! 大丈夫でございます。ところで、ツール様、私達はキスをしていたということは、その……お付き合いをしているということで、よろしいですよね? 責任をとって下さいますよね?」

「あ、ああ、付き合って欲しい。革命にな!」

 少女は感動で口を両手で抑えた。

「お、お前だなんて。もう妻のように呼んでいただけるのですね。光栄の極みでございます。このパンツはあなたのものでございます」

「そうか、じゃあ、一緒に頑張ろう!」

「はい、ふつつか者でございますが、どうぞよろしくお願い致します」

 少女は正座に座り直ると、三つ指をついて、深々とツールに頭を下げた。そして、頭を上げるなり、質問をする。

「ところで、革命って何ですか?」

 

 * * *

 

 シャンゼリゼ通りの周辺で、ツールの捜索を行っていたビスクドールの内の一体が、何かを発見し、奇声をあげた。

 不快極まりない金切り声が、真夜中の街に鳴り響く。

 その奇声を聞きつけ、方々の闇の中から次々にビスクドールが現れた。彼女達が大斧を石畳に引きずる音が、閑静な路地に戦慄を持ち込む。

 先ほど奇声をあげたビスクドールは、地面に落ちていた物を拾い上げ、後から来たビスクドール達にそれを突きつけた。それは古びたビスクドールの部品だった。

 彼女達は部品を確認した後、その部品の周囲に散らばっていた錆びの粉が続く先を見つめる。それは、古い農具小屋に続いていた。

 彼女達のうちの一体が、その小屋に近寄り、木戸を押す。

 しかし、木戸は動かなかった。

 内側から固く閉ざされているようである。

 別のビスクドールが大斧を振りかぶってやって来ると、それを勢い良くドアに打ち付けた。

 それでも、木戸は開かなかった。

 その木戸の内側では、戸の隙間からビスクドールの様子を伺っていたエリンが、衝撃で吹き飛ばされ、お尻を天井に向けた状態で転がっていた。

「痛ててっ、とんでもねえバカ力だな。こんな調子でやられたら、お子様が自由研究で作ったみたいなバリケードじゃ、すぐに突破されちまうよ。下に避難するしかないな……」

 少年は逆さまになった体を戻し、頭に藁がついたまま、よたよたと地下に降りて行った。そして、階段を降りるや否や、ツールの目の前にいる少女を見て仰天した。

 先ほどまでぐったりとしていたビスクドールが、活き活きとした表情で喋り、身振り手振りまでしていたからである。

 思わず、上ずった声がでる。

「だ、旦那、やっぱり、あんたすげえや! ビスクドールを動かしちまった!」

 エリンは体中の痛みも忘れて、飛び跳ねた。

 パンツはそんな少年に気づくと、彼に向けて、笑顔で手をヒラヒラと振った。

 少年はそんな彼女に、手を振り返す。だが、彼女を見ているうちに、徐々に不安に襲われていった。

「あ、あれ、そのビスクドール、なんか一まわり小さくなっていませんか? それに、恐ろしさもまるで無くなっちゃっているし、こんなんじゃ勝てないですよ!」

 ツールはやかましい使用人を、苛立ちの声と共に見る。

「バカヤロウが! その代わりに、すげえ可愛くなったんだから、良いじゃねえか!」

 少年は口をあんぐりとさせ、皮肉を言う。

「はっ、そうですよね。いつだって、戦いの勝敗を分けるは可愛いさですものね! 死にそうな時に、ビスクドールを可愛くしてくれて、どうもありがとうございます!」

「だああ、やかましい! お前は、上でもう少し頑張っていろ! 俺はもう少しパンツと話があるんだからよ!」

「はぁ? 何で自分の下着に話し掛けちゃっているんですか? ちゃんとそのビスクドールに指示をだして下さいよ?」

「うるせえ! 早く上戻って、もう少し時間稼いどけ!」

「ちぇっ、分かりましたよ……」

 少年は、何を言っても無駄だと思い、また渋々と上に戻っていった。

 ツールはじっとりとした目で、使用人の後ろ姿を見ていたが、その目線をパンツに戻した。

「革命っていのは戦争だ! それに参加して欲しい。そして、神の力で国王軍を打ち負かして欲しいんだ!」

 その言葉を聞いたパンツは、何かを思い出し、体をビクリとさせた。

「戦争……。そ、そうだ、私戻らないと……戻らないといけません!」

「戻る? どこにだ?」

「戦場でございます。私は自爆を命じられておりまして、なんとか実行できたのですが、まだ自軍の安否が分からない状態なのです。敵を残してしまっていたら大変ですから、戻らないとなりせん。必要ならもう一度自爆を……」

「ま、待て、行くな! パンツ、お前は自爆を命じられたのか?」

「は、はい……」

「パンツ、それは仲間じゃない。そんなやつらのとこに戻っちゃいけない! 誰かが生き残るために、誰かが死んで良い世界なんてあってたまるか。俺はそんなことを認めないぞ!」

「し、しかし、命令の完遂、それだけが私の存在価値なのです。だから、戻らないといけません」

「行かせない、行かせないぞ! 俺はパンツに問いたい。お前が本当にやりたいことは、自爆することなのか? それが心からやりたいことなのか?」

「そ、そうだと思います……」

「違う! 良く心の声を聞け。お前が本当にするべきことは、自由に生きることだ!」

「じ、自由に生きる……ですか?」

「そうだ! 良く聞いてくれ。革命っていうのは、そのための戦争なんだ。不公平に虐げられている人達を自由に生きさせてやるのに必要なんだ。このフランスには、生まれながらの特権を振りかざして、民を虐げてる奴らがいる。でも、それは間違っているんだ。人は生まれながらにして自由で、奪うことも奪われることもあってはいけないんだよ。誰もが自由に生きるべきなんだ! それはお前もだ……」

 少女が見た彼の燃えるよう瞳は、寒冷の土地にさす朝日だった。夜通し凍えながら歩いた旅人が、見た温かな太陽だ。その熱が移った少女の瞳は、自然と温度が上がっていく。

「ツール様がお造りになる世界では、私は自由に生きて良いのですね……」

「ああ! もちろんだ!」

「で、では、私は誰かを好きになったり、女の子的な、その……何かをしても良いのでしょうか?」

「ああ、もちろんだ! そうしなくちゃいけない!」

 少女はわずかに残る戦闘スーツの胸元を握りしめ、俯くと、大粒の涙をベッドに落とした。

 どれだけ、堪えても涙が流れ続けた。

 生まれてから3年間、一時として、自由に生きることが許されなかった体が震える。従属か死か、それしかなかった世界に、新たな選択肢が生まれた。「自由」、手が届くなら、伸ばしたかった。

「素敵な世界でございます。私は、私はその世界に住みたいです。そこで、女として生きてみたいです!」

「ああっ、そうしろ! 俺と自由な世界を作ろう!」

「はい、私はツール様をお手伝い致します」

「よし、決まりだな!」

 そう言うとツールは、少女の手を取り、強く握り込んだ。

 パンツは人生で2度目の人の温もりに、言い得ぬ安らぎを覚え、一生このままでいたいと思い、顔を綻ばせた。

 だが、期待に反し、少女の手はグイと引かれてから、あっさりと離された。少女はベッドから降ろされ、強引に立たされてしまう。

 パンツは眉尻を下げ、軽く身を隠した。

「ちょ、ちょ、何をなさるのですか? エッチなことでしょうか?」

 ツールは少女から離れ、部屋のあちらこちらをひっかき回しながら、背中で答える。

「まずはな、お前の身体測定をする! 戦力の把握だ! 作戦指揮官の基本中の基本だ!」

 そう言いながら、吹き飛ばされて部屋の隅に溜まっていたガラクタの中から、大きな体重計を引っ張り出してきた。

「よし、ここに乗れっ! まずは体重を測るぞ!」

「ええっ! い、嫌でございます。殿方の前で体重を計るなど……」

 パンツは胸の前で手を握り、首をフルフルと振った。

 ツールは訳が分からないという表情で、体重計をいじる手を止めた。

「何だ? そういうものなのか?」

「そうです。で、でも、恋人ですから……こっそり体重をお見せしても良いかもしれません……」

「おお、そうか! じゃあ、乗れっ!」

 パンツは、彼が用意した巨大な体重計の上に、戸惑いながらも、片足ずつ乗った。しかし、妙なことに、体重計の目盛りは全く動かなかった。

 パンツは首を少し傾げ、しばらく考えてから、ハッとなった。

(うっかりしておりました。ブラックホール内で生き残るために、重力制御で体重を1グラムまで軽くしていたのでした。自分の体重を、素敵な女性の体重に設定し直さないといけませんね。いったいどのくらいが可愛いでしょうか? とりあえず、このくらいでしょうか……?)

 ツールは食い入るように、体重計の目盛りを見ていたが、針が指し示す数字を見て、唾を飛ばしながら、大声をあげた。

「に、218キロ! お前、どこにそんなに詰まっているんだ?」

 パンツはツールの反応を見て、額から汗をしたたらせた。

(ど、どうやら、すごくおデブちゃんだったようです。恥ずかしいです。減らさないといけません……)

 体重計の目方がみるみる戻っていく。

 ツールはそれを見るや、ふうと息を吐き出した。

「なんだ、14キロか。びっくりしたぜ。俺が作った体重計が壊れちまったかと思ったよ。ずいぶん勢い良く乗ったんだな!」

「は、はい、すみません」

「しかし、身長が150センチ無さそうな上に、この体重か……。打撃の威力は相当低そうだな……」

「だ、大丈夫ですよ。軽くても、脱いだらすごいんですから。きっとその威力にご満足頂けます!」

 パンツはほとんど平坦な胸を張り上げた。

 ツールはくぐもった表情で、顎に手をあてながら言う。

「まあ、残念だが、天使の体重っていうのはこんなものなんだろうな。いざ、戦闘になったら霊力とかで打撃の威力が上がることに期待しよう。よし、次!」

 続いて部屋の奥から、視力検査用の器具を運んできた。その器具は、板に大小様々な穴の空いた輪が描かれているものだった。それをパンツから数歩分だけ離して置くと、指し棒で一番大きな輪を指した。

「よし、何が見える?」

 パンツはキョトンとしながら、ツールが指すものを見つめた。もちろん、視力検査のランドルト環を見るのは始めてで、どうしたら良いのか分からない。とりあえず見えたものを答える。

「お、黄色ブドウ球菌……でございます」

「ああっ? なんだそりゃ? もっと、目をストウブのようにして見てみてくれ!」

「ええっ、違うのですか? 難しいです。では、倍率をもう少し上げてみますね。そうですね、トマト黄化葉巻ウィルスと、鯉ヘルペスウィルスがおりますが……あ、狂犬病ウィルスを発見しましたよ! 正解はこれじゃないでしょうか?」

 そう言い終えると、ツールの顔色を伺い、自分の前で重ねた指をもてあそんだ。

 ツールは少女の回答に肩を落とす。

「ダメだあ、視力もイマイチか……」

「ご、ごめんなさい……誠に遺憾でございます……」

 二人は残念極まりないという表情で顔を見合わせる。

 その時、一階から激しい衝撃音が鳴り響いてきた。

 パンツとツールは、同時に一階の方に目をやると、階段からエリンが転がり降りてきた。

「もうダメだ! 奴ら一斉に斧で戸を壊し始めた! 顔がもう見えているんだよ! さっき、目が合っちまった。どうすんだよ、どうすんだよ!」

 ツールはパンツに向き直り、彼女の両肩を力強く掴んだ。太陽の中心部より熱い瞳を彼女に向ける。

「パンツ良く聞いてくれ……。あと少しで、ここに化け物みたいに強い人形がやってくる。そいつを天使の力で撃退して欲しいんだ! 頼めるか?」

「は、はい。戦いでしたら得意ですので、お任せください。必ずお役に立ってみせます!」

「よし、じゃあ、まずお前の武器とか、必殺技を教えてくれ! 神の剣とか、神の弓とか!」

「かしこまりました! 現在使用可能な火器は、ホーミングレーザーキャノン27900門、ガンマ線レーザーガン886000門、速射レーザー型……反応レーザー……レーザーファランクス、ミラクル……」

「ちょ、ちょ、待て! 良く分からない! その、レーザーっていうのは、一体何なんだ?」

「え、レーザーですか? 青くてとっても綺麗な光です。すごくロマンチックなんですよ?」

「ぐぬぬっ、まいったな。そんなもの使い物にならないぞ。どの技も、そんな感じなのか?」

「は、はい……私はレーザー専門なものでして……すみません」

「まあ、いいさ。パンチはできるのか?」

「あ、パンチはできますよ!」

「よし! それなら、レボリューションパンチを教えてやる! いいか? 拳が当たる瞬間にな、『レボリューション!』って叫ぶんだ。そうすると威力が上がるんだ!」

「はい! 分かりました!」

 そんな2人のやりとりを見ていたエリンは苦い顔をしていた。良い大人と、おそらく年上の姉ちゃんがアホなことをやる時間を、自分は命賭けで作っていたのかと考えて、反吐がでそうだった。そんな気持ちを押し殺してから、やっぱり押し殺さなかった。

「ちょっと、良い加減にして下さいよ! こんなことをしている間にね、もうそこまで殺人人形が来ているんですからね。振り返ったらもういたりするんです……よ」

 少年はそう言っている途中で、自分の背後からの視線を感じ、勢いよく振り返った。

 そこには、大斧を握りしめる、長身のビスクドールが4体いた

 エリンは悲鳴と共に、ツールの背中に逃げ込み、彼の背中にへばりつく。

「だ、旦那、助けて……」

「心配すんな、エリン! こっちにはパンツがいる! よし、いけ、パンツ!」

 エリンは目を固く閉じながら、雇主の頭を心配した。

(この人なんで、下着と話しているんだ。恐怖で完全に頭がおかしくなっちゃってるよ!)

 ツールの指示を受けたパンツは、綿あめのような柔らかく甘い声で出撃して行く。

「はい、それでは行って参りますね!」

 そう言い、軽い歩調で、前に進み出る。

 エリンは思わず心配の声を漏らす。

「あんな華奢な体じゃ、すぐに負けちまう……」

 ツールは腕組みをして、のけ反る。

「大丈夫だ。実はな、あれは天使なんだ! 神が俺達を救うために、遣わしてくれたんだ!」

 一番手前にいたビスクドールが、大斧を振り回しながら前進を始めた。

 大斧が家具や実験器具を次々に破壊していく。

 大斧は振り回されたことによって、遠心力が加わり、どんどん威力が上がっていく。

 ビスクドールは、致命傷を与えるべく、少女の細首に狙いを定めた。

 大斧は全力で振り下ろされ、銀の閃光となると、風を切り、正確に細い首に打ち下ろされていった。

 斬撃が少女の細首に命中する。

鉄が砕ける音と共に、刃は少女の首の中ほどまで進み、そこで止まった。

 その光景を見ていた、エリンはたまらずに悲鳴をあげた。

「ひ、ひええ、首がやられた。し、死んだ……」

 ツールは、そんな少年の声をかき消す強気な声をあげる。

「バカヤロウ、良く見てみろ!」

 無事じゃ無かったのは、大斧の方だった。刃がちょうど少女の首の形に砕けていた。

 キョトンとした顔のパンツは、大斧を片手で押し返した。

 並外れた腕力があるはずのビスクドールだが、震えるほど力んでも、自らの斧を全く押し返せなかった。

 ツールは念のため、彼女に声を掛ける。

「パンツ、ダメージはあるか?」

 少女は軽く振り向きながら、目をパチクリとさせた。

「え、ダメージ……ですか? 全くありません。私、恒星間戦争の最終兵器でして、ちょっと斧では傷もつきません……」

「こ、こうせいかん……何だって? まあ、勝てるってことだな! パンツ、そのままレボリューションパンチだ!」

「は、はいっ!」

 パンツは体勢を低くすると、拳に力を入れる。

 次の瞬間、ビスクドールの腹が少女に貫かれていた。

 その場の誰も、彼女の拳の軌跡を捉えることが出来なかった。

 金属が弾ける音が、後れてやってくる。

 その音がかき消えてから、パンツはハッとして、口元に手をあてた。

「あ、レボリューション! 言い忘れちゃいました。すみません」

 間の抜けたパンツの声が部屋にこだまする。

 腹部を拳で貫かれたビスクドールは口から油のような物を吐き出した。糸が切れた人形のように、徐々にパンツにもたれかかっていく。手にしていた大斧を地面に落とし、ドスンという鈍い音が鳴った。

 破壊されたビスクドールの背後にいた残り3体は、一斉に後ずさりを始め、スカートを翻し、背面を向いた。しかし、彼女達の顔を向けた先にいたのはパンツだった。尋常ではない速さで、周り込んだようだ。

 パンツはやや上目遣いで、彼女達に話しかける。

「あの、投降して頂くことはできますか?」

 ビスクドール達はパンツの言葉を理解しているのか、そうではないのか分からないが、投降する気は無いようだった。かといって、逃げ切れないことも悟っているようで、一斉に少女に襲いかかっていった。少女を取り囲み、全員同時に大斧を振り下ろす。

 両手持ちで力強く振られた斧は、稲妻のごとく、少女の頭部を目指していく。

 だが、その刃がパンツに届くことは無かった。

 ビスクドール達は突然爆砕し、空中でバラバラになると、ガシャガシャと残骸になって、地面に落ちていった。続いて、油のような液体が辺りに飛散する。

 反撃したパンツの拳は亜光速で放たれていた。ほぼ光の速度のそれを捉えることができる者は、宇宙広しといえど、存在しない。

 パンツは彼女達の残骸を、悲しげな眼で見つめていた。

「ごめんなさいね。命令ですので、仕方がないのです。お墓はちゃんと作りますから……」

 そう言うと、パンツは屈んで、破片を一つ一つ拾い集めだした。その途中で、何かを思い出し、パッと目を見開いて立ち上がった。

「あ、レボリューション! また、言い忘れちゃいました……」

 パンツの戦闘中、ツールもエリンもずっと固まっていた。今までどれだけの同士がビスクドールに八つ裂きにされてきたか、分からない。それを、こんな華奢な少女が一瞬で片付けてしまったのだ。2人の反応は無理もないことである。

 ツールがやっとその衝撃から我に帰ると、エリンに呟く。

「こりゃ、来週には革命終わっているぞ……」

 エリンも雇主を見上げて言う。

「ですね。でも、あの子が敵にならないように、ちゃんと優しくしないといけませんよ? それは旦那の仕事ですからね?」

「ま、まかせろ。人付き合いは得意な方だ!」

「はっ、また嘘ばっかり。じゃあ親友の名前を言ってみて下さいよ?」

 ツールは指を折りながら答える。

「エリンだろ、それから、それから、パンツ、パトリシア」

「下着が友達リストに入っちゃっていますけど? あと、最後のお母さんじゃないですか!」

 

 * * *

 

 翌朝、パンツ達一行は、軍艦山という場所にいた。その山は、山頂の形が軍艦のように見えることからそういう名前がついたようだ。極めて低い山ではあるが、眺望は抜群で、パリの街並みを一望することできる。

 その山の開けた場所が、本日の戦場である。ここは牛が草をはみ、蝶が舞っているような、のどかな所だが、戦場は戦場である。

 パンツ達一行は、ビスクドールとの緊張の一幕の疲れを引きずったまま、体に鞭打って踏ん張っていた。

 少女は「紛争」と聞いて、だいぶ力んで駆けつけたのだが、自分の知るそれではなかったので、だいぶ気持ちが楽だった。反物質兵器が頭をかすめるとか、原子サイズのミサイルに取り囲まれるとか、そんな心配はまるで無さそうだったのだ。

 両陣営とも、低く積まれた土嚢に隠れ、当りっこない距離でマスケット銃を撃ち合ったり、石を投擲したりと、そんな感じなのである。

 そんな緊迫感のない戦場で、ツールはパンツの発言に驚き、飛び上がっていた。彼の上半身は、土嚢からはみ出て、敵軍に丸見えの状態になっている。

「な、なんだって? じゃあ、パンツは天使じゃなくて、未来からやって来た兵器だっていうのか?」

 ツールの被っていた厚手の鍋に、敵の銃弾が当たり、カツンという音が鳴る。

 土嚢の陰に隠れて座っていたパンツは、ツールを引き戻して、座らせる。

「そうだとしか考えられません。ここはどう見ても近世後期のフランスですから、私は2280年から、およそ500年ほど前にタイムスリップをしたのではないかと思うのです!」

「確かにここは、我らがフランス王国だし、今は1789年だ。パンツの言うことが本当なら、すごいことだぞ! そうだ! パンツの時間を巻き戻す力を使って、さっき脚を撃たれたパン屋のゴメスを助けてやってくれよ?」

「す、すみません、それはできないのです」

「どうしてだ? ゴメスは不衛生だから嫌いなのか?」

「いえ、そういう訳ではございません。ちょっと時間についてお話しします」

 パンツは近くにあったボロ布を拾い上げ、そこに砂を薄くひいた。さらに、そこに相合い傘付きのツールとパンツの可愛らしい絵を描き込む。

「これを私達のいる三次元空間だとします」

「おう、薄っぺらなところが、俺そっくりだ!」

「分かり易いように、三次元空間を、二次元平面で表現してみました」

「な、なるほどな! 三次元を二次元にな、なるほど、なるほど!」

「力というのは、流れ易い方向に流れます。時間も同じなのです。流れ易い方向に流れるのです」

 そういうと、パンツはボロ布を斜めに傾けた。

 砂粒がわずかにできた斜面をコロコロと転がり始める。

 パンツとツールの絵が、僅かに横にスライドしだし、パンツの絵がツールの絵にキスをした。

「この傾きが時間です。1つ上の次元の傾きなのです。これがあるから砂粒の私達は動いていられるのです」

「な、なるほどな……分かるぞ……何となく、たぶん」

「時間は1つの上の次元による作用にりますので、私達はこれに全く干渉ができないのです」

「まあ、砂に描かれた絵に、『布の傾きを何とかしろ!』って言っても、絵には何もできないもんな……」

「そうなのです。だから、時間には決して干渉ができないのです」

「そういうことか……ん? いや、待て!」

 ツールはまた勢い良く立ち上がった。被っていた鍋に銃弾が当たり、顔が傾く。

 パンツはツールの厚手のズボンを掴み、引き戻して、座らせた。

 ツールは熱い視線と指先を、パンツに向ける。

「じゃあ、なんで、パンツはここに居るんだ? あり得ないことなんだろ?」

 パンツは足元に置いておいたボロ布をもう一度拾いあげ、ツールに持たせた。そこに砂をかけ、とんでもなくリアルな肖像画を描いた。描かれた人物はパンツで、本物よりやたらに胸がでかく、大人びた顔立ちである。

 パンツは、チラとツールの顔を見て、彼の欲情しているであろう顔を覗いた。

 彼は感動のあまり震える指先を絵に向ける。

「布の上の砂にゾウムシがいるぞ! こいつは珍しいな!」

 パンツは口角を下げ、不満を露わにした顔で、砂の中にいたゾウムシのお尻を指で弾き飛ばした。

 ツールは玩具を取り上げられた子供の様な顔をパンツに向ける。

「ああ、せっかくのゾウムシが……」

「ゾウムシはお忘れください!」

 パンツはそばにあった古釘を拾い上げ、不満を発散するかのように布に突き立て、徐々に力をいれていった。布が歪んでいき、辺りの砂が釘の周辺に集まっていく。

「これが重力です。空間の歪みです」

「じゅ、重力ってこういう仕組みなのかよ。びっくりした……」

「そして……」

 パンツはさらに力を入れて釘を押していき、とうとう釘が布を貫通する。それを引き抜くと、布の上にのっていた砂が、穴からサラサラと下に落ちていった。

 ツールがその穴を指さす。

「それは何だ?」

「ワームホールです。空間の一点にすごい重さがかかったので、その空間が破れたのです」

「空間が破ける……そんなことがあるのか? そ、その穴の先はどうなっているんだ?」

「別の時間と空間が広がっています」

 パンツはそう言って、布を砂ごとグシャグシャに握りこんだ。先ほど開けた穴が上にくるように、ぐしゃぐしゃの布の塊をツールの前に差し出す。

「空間はこのようにグシャグシャでして、穴の先は別の布です。その布の傾斜も異なります」

「な、なるほど、パンツは元いた戦場でその穴に落ちて、到着した先がここだったというわけか」

「はい! とんでもない偶然です! こんなに広い宇宙で、いつくもある時間の流れの中で、ここに偶然にここにたどり着いたなんて……。これも2人の愛の力でございますね!」

「ああ、そうだな! 俺たちはとんでもない偶然が重なって、今一緒にいるんだ!」

「はい……」

 2人は視線を絡め合わせながら、お互いの唇を見つめた。

 ツールは、パンツの青く美しい瞳に徐々に吸い込まれていき、自然と顔が彼女に近づいていった。そのまま彼女の華奢な肩を握りしめる。

 パンツは彼の顔が近づいてくる気恥ずかしさで、とっさに下を向いてしまった。もう無いはずの胸のエンジンが熱くなり、息苦しい。目を閉じ、彼が自分にしてくることを想像し、裸足の指をモゾもソとさせる。覚悟が決まると、顔を上げ、ツールの唇を待った。

 すると、声が聞こえてきた。

 それはツールの甘い言葉、では無かった。

 エリンの怒声である。

「おい、お前ら。戦場はエッチなことをする場所じゃないんだぞ! 鉄砲を撃つ所なんだからね!? 分かる? ほら、敵を見て? 敵はちゃんとやっているよ?」

 少年はそう言うと、旧式のマスケット銃の柄をパンツの頬に押しつけ、弾薬の入った麻袋をツールの額に押し付けた。

 パンツは目を開け、千載一遇のチャンスを逃したような、恨めしそうな目をエリンに向けた。

 ツールはパンツの肩から手を退け、コホンと咳払いを1つしてから、丈の長いジャケットの襟元を正した。

「まったく良いところを邪魔しやがって……。しょうがねえ、戦いのケリをつけちまうか。パンツ、銃で応戦しろ!」

「は、はい、ツール様」

 パンツは、エリンからマスケット銃を受け取り、土嚢から顔を出した。銃を構え、良く狙いを定めてから2発を発射する。

 その2発は、見事にあさっての空に向かって、飛んでいった。

 その様子を見ていたエリンが顔をしかめる。

「おい、何で空を撃つんだよ! 無駄弾やめろ!」

「だって、人に当たっちゃったら、どうするのですか?」

「人に当たらないで、どうするんですか!? 空に飛んで行った弾もね、こっちの軍からしたら貴重なんだからね?」

 パンツは叱られて、眉尻を下げ、マスケット銃を抱き込んだ。

「す、すみません、私は人間のお命を守るための存在でして、殺すことはままならないのです……」

 エリンは両の手平を上に向け、ダメだこりゃという表情でツールを見た。

 ツールは少年に不満を漏らす。

「おい、エリン。誰にでもできないことはあるだろうがよ。パンツは可愛いんだから、それで良いだろ?」

「へえ、それはなかなか筋の通った理屈ですね……」

 エリンは、革命軍のリーダーに風速40メートル前後のため息をついた。全然真面目に戦わず、若い女に腑抜けているダメなリーダーに向け、戦場を指さす。

「じゃあ、この場はいったいどうするつもりなんですか? 向こうは50人近くいるし、全員銃を持っているんですよ? こっちは100人そこそこいますが、銃はたったの3丁だ!」

 ツールは、申し訳なさそうにしているパンツに再び指示を出す。

「おい、パンツ、全員を気絶させて来い!」

「え、あ、はい。分かりました!」

 パンツはその命令は実行できるようで、胸の前で両手をグッと握った。

 その時、ツールは思い出したかのように、命令を付け加える。

「あ、向こうの兵士のドニーズさんに怪我はさせるなよ? いつも豚を買ってくれるんだ。バッヂに名前が書いてあるから、すぐに分かるからよ」

「はい、分かりました」

 エリンも付け加える。

「あ、ポールさんもダメだ。ソフィーヌちゃんのパパなんだよ。未来の俺のパパだからさ。紐で縛る程度にしといてくれ!」

 パンツはウンウンと首を縦に振った。

「はい、分かりました。うまくできるかどう分からないのですが、やってみてますね……完了致しました!」

 ツールとエリンはそれを聞き、眉を持ち上げ、同時に声を出した。

「はい?」

 パンツはもう一度言う。

「完了致しました!」

 エリンは顔をしかめて、疑いの目を少女に向ける。

「いやいや、早過ぎるでしょ? 何言っちゃっているのよ?」

 パンツは少年の目線から逃れながら、気弱な声で答える。

「本当ですってば……」

 ツールとエリンは耳を済ませてみた。敵兵からの銃撃が止んでいた。土嚢から顔を出し、敵の様子をキョロキョロと伺ってみる。

 敵の兵士達は全員伸びていて、そこら中に転がっていた。中には、パンツが間違えたらしく、革命軍の男も何人か転がっていた。

 ドニーズさんと、ポールさんは裸で縛り上げられ、口には靴が突っ込まれている状態で横になっていた。2人とも、気絶はしていないようだ。

 エリンとツールは、互いの顔を見合わせた。

 驚きがまだ止まない中、エリンが先に声を出す。

「俺、敵から財布を盗んできますね!」

「おおっ、賢いな、少年! 俺も行くぞ。あ、ドニーズさんと豚の買値の交渉をしよう。この状況なら良い商談になりそうだ!」

 2人は敵の方にいそいそと駆けて行き、気絶している敵兵から金品などを奪い取りつつ、豚の買値の交渉を始めた。

 他の革命軍の兵士達も、リーダーとその子分を見習い、次々に敵の兵士から武器やら何やらを奪いとり、最終的に敵のケツの毛までむしっていった。

 そんな革命軍の兵士達は、本当に兵士なのかパッと見では分からないような格好をしていた。みんながみんなボロボロの衣服をまとい、痩せこけ、土気色の顔色をしている。

 パンツはそんなハイエナのごとき革命軍の恰好や様子を、物珍しく観察した後に、ふと周りに意識を移した。そこには、パリ郊外の美しい風景が広がっていた。

 パンツは爽やかな夏草の香を吸い込んでから、小高い山の上から麓を覗いてみた。麓にはどこまでも牧草地が続いている。その薄緑色の絨毯の所々には、野バラが咲いており、美しいアクセントになっている。牧草地の脇には、リンデンバウムの木が生えていた。その木の葉からは、薄黄色の花がぶら下がるように咲いていている。さらにその下には、何匹かの猫が寝転んでいる。

 パンツは、これだけ豊かな景色を見るのは初めてだった。この景色に比べたら、今まで自分が見ていた世界は白黒だったのではないかとすら感じられた。いつの間にか、顔は綻び、眼は蘭々としていた。

 そんな輝く世界を写す瞳に、突如として恐ろしいものが映し出された。

 警告メッセージだ。

 パンツは嫌な予感を感じ、息を飲んだ。恐る恐る血のように赤い文字を読んでいった。

「エネルギー不足。バッテリー残量9パーセント。パワーセービングモードに移行。亜光速高速移動不能……」

 かなりの文量の警告メッセージの全てに目を通し、それを閉じると同時に、その場に力無く座り込んだ。

 少女はすぐにエネルギーを補給する方法を思案してみたが、どう考えても、この時代でのエネルギーの補給は困難そうだった。今あるバッテリーを使い切ったところが、人生の終わりのようである。その現実に目の前が暗くなっていった。せっかく、幸せな世界にやって来れたというのに、命が足りない。

これだけの喪失感を味わったことは初めてだった。今までは、自分の心にあったものはといえば「命令」だけだった。それ故、死ぬことによって、失うものも少なかった。だが、今は手放し難いものができてしまった。美しい景色、会話できる仲間、目標、そして恋人。容易に手放し難いものが、死の受容を許さなかった。

 

 * * *

 

 国王軍からの強奪を一通り終え、3人は帰り道についていた。パリの郊外にあるツールの家を目指し、野原をずいぶん歩いてくると、小さなオークの木橋が見えてきた。その橋を渡れば、ツールの家はもうすぐそこである。

 ツールとエリンは、白星がついた戦が久しぶりだったので、浮かれ気分でずっと跳ね回っていた。

 エリンは何個もある革財布を眺めながら言う。

「これで、今夜はご馳走が食べられますね?」

「ああ、今日はひさぶりに贅沢をしよう。そうだ、パンツの歓迎会といこうじゃないか!」

「そいつは、良いアイデアですね。でも、国王軍の財布にはあんまりお金が入っていませんでしたから、お酒はお預けですね」

「兵隊も市民だ。金は持っていない」

「それじゃあ、お金はいったいどこに行っているんですかね?」

「今のフランスは、特権階級に金が流れる仕組みになっている。市民の収入は税金として、王族に3割、貴族に3割、聖職者に3割の比率で収めなければならない。市民は日々のパンですら買うのに難儀しているっていうのに、ヤツらは搾取をやめようとしない。早くこの体制を終わらせないと、国が終わっちまう」

「なるほど、それはひどい話だ」

「そのためにも、パンツには頑張ってもらわないといけない」

 ツールはそう言ってから、後ろを歩いていたはずのパンツに振り向いた。だが、そこに彼女はいなかった。

 彼女はずっと後ろの方にあるオークの木橋の上に座り込み、暗い目をしていた。

 ツールは、彼女の様子がおかしいことに薄らと気付いていたが、それが歩けないほどのこととは思ってもみなかった。彼女の所まで駆け戻り、かがみ込んで目線を合わせる。

「どうした? どこか痛いのか? 月に一回の、なんだ、あれか?」

「い、いえ、何でもございません」

 彼女の瞳は、まるで北ヨーロッパの凍て付く大地のようだった。生命感が全く感じられなくなっていた。

 ツールは彼女の肩に優しく触れる。

「いったいどうした? 話してくれないか?」

「いえ、いらぬご心配をおかけしてしまうので……」

「パンツの心配事は俺の心配事だ。頼むから話してみてくれ? な?」

 パンツは俯きながら、乾いた唇を動かす。

「私のバッテリーが残り僅かなのです……」

「な、なに、バッテ? それはどういう意味だ? 俺に分かるように説明してくれないか?」

「私の命があと僅かしかないのです……」

「なんだって? あと少しって、いったいどのくらいなんだ?」

「戦闘形態のアルティメットモードで1分。何もせずに、のんびりと過ごして、1年というところでしょうか……」

「そんなに短いのか……」

 ツールは唾を飲みこんでから、彼女の小さな体を抱きしめた。きつい抱擁は、この世界にパンツの魂を縛りつけようとするようだった。

「大丈夫だ、心配するな! 俺は革命軍のリーダー、ツール様だぞ。何でもやってのける英雄なんだ。必ずそのバッテ何とかをどうにかしてやるから……」

 その言葉は、彼自身に向けられているようでもあった。

 パンツは、いつの間にか全身に入っていた力を少し抜く。

「ツール様、ありがとうございます。バッテリー、よろしくお願い致しますね……」

 パンツがそう言い終わるか否かで、彼女の唇はツールの唇に覆われていた。

 ツールは、言葉にできない気持ちを彼女に注ぎ込もうとするように、しっかりと彼女の顔を両手で包んで、キスをしていた。

 少女は彼を受け入れ、そっと目を閉じる。全身に込められていた力が抜けていった。

 2人はその場に倒れ込み、何度もキスをして、慰め合う。

 次第にヒートアップしていき、ツールがジャケットを脱いだ時、彼の肩が背後から叩かれた。彼を叩く手を振り払ったが、それでもまた肩が叩かれる。鬱陶しさで、振り返り、肩を叩く人物を睨みつける。

「やめろ、エリン! 大人のコミュニケーションを邪魔するんじゃね……え」

 ツールはそこにいた人物を見て、目が点になった。

 そこにいたのは、エリンではなく、薄い水色のワンピースに身を包んだ、銀髪の老女だった。ツールと良く似た顔立ちのその老女は、彼の母パトリシアである。

 母は、何か汚いものでも見るような目で息子を見ていた。いつもよりずいぶん低い声で、息子を諭す。

「あんた、真っ昼間のこんな道端で、そんなか弱そうな女の子を押し倒して……一体どういうつもりなんだい? それに、その子のボロボロの服……あんたが破いたんだろ? 大人として恥ずかしくないのかい?」

 ツールは顔を真っ赤にして、いったん少女から離れた。良く考えたら、パンツはあられもない恰好をしている。自分は、そんな女の子の上に覆いかぶさっていた。これは、あまり母に見られたい恰好ではない。とりあえず、頭をかきながら、身を取りなす。

「いや、その、母さん、これは……その戯ですよ。この子と遊んでいただけなんです。寝技ゴッコですよ……」

 それを聞いたパンツは、ツールに飛びつき、声を荒げた。

「わ、私との関係は遊びたったのですか? ひ、ひどいです……スケコマシです」

 ツールはパンツに向き直り、必死にかぶりを振る。

「い、いや、違うんだよ。パンツはとても大事だよ。俺はパンツに全てを捧げたい!」

 パトリシアは息子のその言葉を聞き、口元に手を当てて、飽きれた顔をした。

「まあ、あんた、そんなに下着好きだったのかい……。その子も下着目的で襲ったんだろ? いつからそんなロクデナシになったんだい?」

 ツールは忙しく母親の方を向く。

「いや、違うんですよ、母さん。この子は……その……あの」

 ツールは苦しんでいたが、遠くで口を抑えて笑いを堪えているエリンが目に入ると、彼に向け、声には出さず「あっち行っていろ!」と口を動かした。

 そんなことをやっているツールを、母親はさらに咎める。

「その女の子が、何だと言うんだい? 言ってごらんなさい!」

「そ、その……この子は、俺の婚約者なんです!」

 それを聞いたパトリシアは、森で抱き合うオオカミとウサギを見つけてしまったかのように、驚きで全く動けなかった。

 パンツも口元を手で覆い、固まっていた。まさか、自分が婚約者になれるとは、夢にも思っていなかったからだ。だが、女に生まれてきた以上、心の奥底ではそうなれることを望み、焦がれ続けていたことは事実だった。

 いつのことだったか、少女は戦場で見つけた白い耐熱シートを、頭に乗せ、それをベールに見立て、花嫁ゴッコをして遊んだことがあった。

 またある日、動かなくなった敵のロボット兵器を見つけことがあった。それを新郎に見立てて、結婚式ゴッコをして遊んだこともあった。彼の腕に自分の腕を絡め、誓いの言葉を言ったり、キスをしたりするのだ。

 そんな風に夢に見れど、諦めざるを得なかったことが、突然自分自身に与えられた。こみ上げるものに、全身が沸き立っていくのを感じる。

 パトリシアは息子ではなく、今度は少女に視線をやる。彼女の目は真偽を問う目だった。

「そうなのかい? あんたは、この子の婚約者なのかい?」

 パンツは、高鳴る胸の鼓動が言った台詞を、そのまま口にする。

「はい、私はツール様の婚約者でございます!」

 

 * * *

 

 ツールの家は、水色の壁面が可愛らしい、木の家だった。その2階に、パトリシアの部屋がある。陽が良く差し込む場所で、衣装や裁縫道具が溢れかえっている。

 その部屋で、昨日から新しい住人となったパンツは、真剣な眼差しを洋服に向け、唸り声を上げていた。かれこれ3時間ほどそうやっている。

 彼女の目線の先にあるのは、2つの少女用のワンピースだ。1つは、真っ白で丈の長いワンピース。もう1つは、紺色で丈の短いワンピースだ。

 パンツは、どちらにもふんだんに使われているレースという物に心を惹かれていた。それは、彼女がこれまで目にしたことのある物の中で、最も可愛いらし物だったからだ。

 その2つの洋服を掲げていたパトリシアは、細い腕で洋服をひらつかせる。

「パンツや、どっちが着たいんだい?」

 少女は唸り声を止め、ため息混じりで答える。

「パトリシア様、申し訳ございません。その、私は自分では選べないのです……。どちらを着るべきか、ご指示を下さらないと、どうにもなりません……」

 パトリシアは、薄く微笑んでから、洋服を一度置き、少女の顔を手で包んだ。

「パンツや、ダメだよ。ちゃんと自分の意思で選ばないといけないよ?」

「そんなことを仰られても、私は自分の意思で物事を決めることができません。それは悪いことです……」

「兵隊の生活が長かったから、そうなってしまったのかね。じゃあ、命令にしてしまおうか。好きな方を、自分で選びなさい!」

「そ、そんな、酷いです。パトリシア様」

 パンツは胸元に手を当てて、彼女に訴えた。

 パトリシアは口元に手を当てて、笑う。

「ちょっと酷かったね。じゃあ、今日は私が洋服を選んであげようかね」

 そう言うと、パトリシアは紺色のワンピースを手にして、パンツの体に合わせた。嬉しそうに、丈や、身幅を合わせながら、柔らかい声を少女に向けた。

「良いかい、可愛いパンツや。自分の行きたいところに連れてってくれるのは、自分の意思だけなんだよ。ただ命令に従ってたいら、いつかとんでもない所に行っちまうんだからね? しっかり、自分の心の声を頼りに生きるんだよ? 良いね?」

「はい、分かりました。パトリシア様!」

「良い子だね。可愛いパンツや」

 パトリシアは、少女の顔を痩せた自分の胸に引き寄せ、自分と同じ銀色の髪を撫でる。

 パンツは彼女から感じる、ツールとはまた違う感覚に、胸を熱くさせた。その気持ちをどう処理して良いか分からず、自分の素足を見つめ、足の指を躍らせる。

 パトリシアは、長い時間少女を抱きしめた後、手にしていた紺のワンピースを、慣れた手つきで少し直していった。それが終わると、ワンピースをパンツの手に預ける。

 パンツは初めて手に入れた女の子らしいものに目を輝かせ、美しい装飾や生地の艶に目をトロンとさせていた。それから、顔を上げ、パトリシアを見る。

「パトリシア様、ありがとうございます。それで、こちらはどうやって着ればよろしいのでしょうか? 爆砕ボルトでの固定でしょうか? それとも電磁固定でしょうか?」

 パトリシアは目を瞬いてから微笑み、子供に着せるように、少女に服を着せ始めた。

 パンツは特に用が無い限り喋らない少女だが、その顔には言いたいことが詰まっている。彼女は、服に首や腕を通してもらっている間、終始顔が緩んでいた。

 パトリシアも同様だった。その半生で結局女の子を授からなかったので、こうしていることが、嬉しくてたまらないのだ。その証拠に今日は朝から、パンツの髪を整えたり、お化粧をさせたり、まるでお人形遊びをしているように楽しんでいる。

 パンツは紺のワンピースを着せてもらい、革のブーツも履かせてもらった。最後に頭にちょこんと紺色のリボンまで付けてもらう。その自分の姿を姿見に写し、息を呑んだ。

 そこにいたのは、紛れもなく、女の子だったのだ。

 鎧を着せられることもなく、武器を背負わされることもない、普通の女の子がそこにいた。

 思わず、大きな声が出る。

「普通の女の子でございます! 私、普通の女の子でございます!」

 パトリシアは、目尻にシワを沢山つくり、パンツの肩に手を置いた。

「ええ、可愛い女の子よ。天使のような素敵な女の子!」

 パンツは姿見越しのパトリシアに、子供のような笑顔を向けた。

 そこで少女は、パトリシアが自分をツールの婚約者と認めてくれた時から、聞こうと思っていたことをやっと聞く気になった。やや伏し目で、大きくなっていく不安を顔に出しながら、口を開いた。だが、言葉はうまく喉を通ってくれなかった。

 パトリシアはその少女の様子に少し前屈みになる。

「どうしたんだい? 何か気に入らなかったのかい? 服がきついのかい?」

「いえ、そんなことはございません。あの……本当にツール様の婚約者が私でよろしいのでしょうか? 私はその機械でして……人間ではございません。逆立ちしても、人間にはなれないのです。それでも良いのでしょうか……?」

 少女は胸元に手を押し付け、ゆっくりとパトリシアに体を向け、彼女を見た。

 パトリシアは暖かい木漏れ日のような笑顔のままだった。

「もちろん良いわ!」

「それは、本当でしょうか? 本当は人間の女性が良いのではないかと、不安で……不安で……」

 少女はスカートの裾を強く握り込んでいった。

 パトリシアは、少女の握りしめられた手をとる。

「パンツや、ツールは好きかい?」

「は、はい、もちろんでございます!」

「じゃあ、ツールが手を失ったとして、その手に未来の技術で作った機械の手が付いても好きかい?」

「もちろん、好きでございます!」

「じゃあ、ツールが次々に病気や怪我で、体を失っていくとするよ。どんどん、体は機械になっていって、最後は全身が機械になる。そのツールは好きかい?」

「はい、もちろんでございます!」

「私も同じだよ。あの子の体がたとえ機械になったとしても、変わらず愛しているわ。愛することや、家族でありたいと思う気持ちは、体が何でできているかじゃ決まらないんだよ」

「パトリシア様……。ありがとうございます。分かりました。そのお言葉、一生忘れません」

 パンツは彼女の手を握り返していた。

 パトリシアは、そんな少女の髪を撫でてから、肩に軽く手をのせた。

「さあさ、次は家事を教えないとね。まずは、そうだね、ブリオッシュでも作るかい?」

「ブリオッシュ……ですか? とても素敵な名前ですね!」

「お菓子だよ? とても甘くて、ツールも大好きなんだよ」

「ツール様が大好きなのですか! 私、ブリオッシュが作りたいです!」

「じゃあ、作ってみようかね」

 その日から、パンツはまるで、小鳥のように、親鳥のパトリシアについて周り、家事の一切を学んでいった。その日々は、パンツから短い寿命を忘れさせるほど、女の子らしい、かけがえのない時間だった。

 

 * * *

 

 エリンがツールの家にやって来て、家のドアを開け、中に入った。

 すると、それに気付いた、素っ裸のツールと、裸体をシーツ一枚で隠したパンツが、すたこらと家の奥に逃げて行った。

 エリンは、彼らの姿から想像できることを想像し、白い目を彼らの背中に送った。

 またある日、エリンが革命軍の司令部が置かれている、古びた納屋に入った時である。

 それに気付いたシャツ一枚のツールと、裸体をタオル一枚で隠したパンツが、裏口からドタバタと逃げて行った。

 エリンはビネガーを数本飲んだかのように眉間にしわを寄せ、彼らの後ろ姿に文句を言う。

「もう! 何なの!? 盛りの猿じゃないんだから、あっちでもこっちでも、エッチなことしないでよ!」

 またまたある日、革命軍の司令部で行われている会議の最中のことである。

 古びた納屋にぎゅうぎゅうに収まっている20人ほどの幹部達の一人が、何かを見つけ、声をあげた。

「お、おい、俺の座席の下にパンツがあったぞ! ハハッ、何でこんな所に、こんな物があるんだよ!」

 一同からも笑いが起こった。みんな、「汚ねえ」だの何だのと、いつまでも笑いが治らなかった。

 エリンは隣に座るツールとパンツを、限りなく細い目で見つめた。

 2人とも全く笑わっておらず、男の方は天井のシミを数えていて、女の方はテーブルの木目を数えていた。

 エリンはこっそりと、ツールに耳打ちをする。

「あれ、旦那のでしょ?」

 ツールはエリンの目を、一瞬だけ見てから答える。

「まさか、そんなわけ……そうだ」

「やっぱり。せめて、痕跡は消して下さいよ! 僕は使用人として恥ずかしいですよ」

「面目ない……」

 ツールは縮こまれるだけ、縮こまった。

 エリンの怒りは治らず、怒涛の攻めにでる。

「あんた、元貴族でしょ? プライドとかマナーとかないわけ?」

「それ遠い昔の話でして……」

「まったくもう!」

「エリン、取り返してくれ! 後生だ!」

「ご自分で名乗りを挙げて、回収したら良いじゃないですか? 『それはオレのパンツだー、げへへっ』って」

 ツールは少しボリュームを上げた声で反撃する。

「できるかバカ! 俺は革命軍のリーダーだぞ? 俺の威厳が落ちたらどうするんだよ? 革命失敗して、この国終わりだよ?」

「ちょっと、何それ? 脅しているんですか?」

 やがて、女の方のパンツは、幹部の男達に連れて行かれた。下着の方のパンツの所まで引っ張られて行ってしまう。

 女の方のパンツは革命軍の紅一点として、すっかり人気者になっていた。その革命軍の華が、男性用下着を見て恥ずかしがるところを、みんな見たがったのだ。案の定、パンツはパンツを見て、顔を真っ赤に染めて恥ずかしがり、モジモジとしていた。革命軍の幹部はそれを見て、みんな満足そうな顔を浮かべている。

 そんな様子を見たツールは、我慢ならず、エリンに怒りの耳打ちをする。

「もう、見てられん! パンツを取り返してくれ!」

「パンツってどっちのパンツですか!?」

「決まっているだろ! パンツの方だよ!」

「もう、どっちですか!」

 そんな話をしていると、場の雰囲気は下着の方のパンツの持ち主探しに変わっていった。相変わらず、みんな楽しそうにしている。

 ツールがエリンの小脇を、肘でつく。催促である。

 エリンは仕方なく、この国の行末のために、震える手を挙げた。

「そ、それ、俺のなんだ……てへっ。そんな所で脱いじゃって、俺ってどうかしているなぁ……」

 場がドッと笑いに包まれ、納屋が一瞬揺れた。

 エリンは、幹部達から「これだからお子様は」とか、「お漏らしして干していたのか?」などと好き放題に言われ続けた。顔を引きつらせながらも、何とか頭をかいたり、はにかんだりで場をとりなす。そして、少年は散々いじり倒された甲斐が報われ、なんとか雇い主のパンツを、返却してもらった。

 その下着のパンツを、ばっちい物を扱うように、2本の指でつまみながら、テーブルの下でツールにこっそり渡す。

「俺の指と、名誉が汚れちゃいました……どうしてくれるんですか?」

「すまん。恩にきる。この革命がもし成功したら、それは君のおかげだ、少年!」

「それを、旦那の墓石に刻んで下さいね! 良いですね?」

「分かった、分かったよ……」

 やがて、騒々しさがおさまってきたところで、ツールが自分のワイングラスを、スプーンで叩いた。グラスの音が響き渡り、一同はやっと静かになる。そこで、ツールは立ち上がる。

「さあ、本題に入るぞ! 我々は最近パンツの加入もあって、目覚ましい勝利をおさめている。このままの勢いで、作戦を第二段階に進める。則ち、バスティーユ牢獄の襲撃を行う!」

 それを聞いた一同から、雄叫びが上がる。みんな、この日が来ることを待ち望んでいたのだ。興奮でテーブルを叩いたり、派手に銃を天井にぶっ放す者もいた。

 ツールはまたグラスを叩き、一同を静まらせる。

「作戦は来月だ。詳細は追って伝える。それまで、絶対に国王軍に捕まるんじゃないぞ! 最近は、不穏分子の取締が厳しくなっている。見つかればギロチンの刑は免れない……十分に気をつけてくれ!」

 そう言って、ツールは幹部達の目を見回した。

 幹部達もうなずきながら、決意のこもった目をツールに返す。そして、彼らはフードで顔を隠し、ぞろぞろと革命軍本部から去って行った。

 最後に残ったのは、パンツとツールとエリンの3人だった。

 ツールは遥か遠くを見つめた目で、立ち上がる。下着のパンツを握りしめ、エリンに格好良い声を向ける。

「エリン、俺とパンツは……ちょっと作戦会議があるから、ここに残る。先に帰っていろ……」

「もう、やめて下さいよ! 絶対、エッチなこと始めるでしょ!」

 

 * * *

 

 朝から薄暗い雨の日だった。

 パンツはいつもの紺のワンピースと、ブーツ姿で戦場である市街地にいた。

 バッテリー不足で、亜光速での戦闘が出来ないので、武術の達人程度の速度での肉弾戦を行なっていた。

 水溜りを蹴り、銃弾の飛び交う戦場をさっそうと駆け抜け、一人の敵兵の溝落ちに拳を叩き込んだ。

 少女は、すぐに別の兵士に飛びかかり、頸椎に重い一撃を加えた。

 すぐさま、後ろから襲ってきた兵士の攻撃を背面飛びでかわし、サマーソルトキックで吹き飛ばす

 瞬く間に気絶した兵士の山が築かれていく。

 戦場が徐々に安全な場所に変わってくると、パンツの後方から、だいぶ増えた革命軍の集がワラワラと湧いてきた。相変わらずほとんど丸腰の彼らは競って、国王軍の兵士から武器や弾薬、兵糧を奪い、歓声をあげていた。

 少女の武神の如き活躍により、1時間も経たずに、戦場であったパリ市街のカルティエ地区は革命軍の手に落ちた。この地区には、革命軍の目指すバスティーユ牢獄がある。つまり、今日で革命軍が国王軍に大手をかけたことになる。

 パンツは戦闘が終わり、びしょ濡れのワンピースの裾を絞ったり、すっかり萎れたリボンを直したりしていた。

 そこにツールが現れる。

 その場にいた革命軍総勢300名ほどが、リーダーの到着に一斉に湧く。銃を突き上げ、三色旗を振り、彼を称える。

 パンツは顔に花を咲かせ、彼の目の前まで駆け寄っていき、胸の前で拳を握る。

「ツール様、この地区は陥落致しました! 革命軍のものです。あと少しで目標達成です。おめでとうございます!」

 しかし、ツールからの返答は無かった。

 パンツからの言葉は、明らかに良い報告だったはずだが、まるで彼女の声は彼に届いていない様子だった。

 ツールは肩を落とし、項垂れている。いつも被っているトレードマークのシルクハットもどこかに置き去りにしてきたようで、彼の頭にはなかった。

 パンツは不思議に思い、彼の顔を覗きこんでみた。

 そこには、彼の青冷めた表情があった。

 黒い雲が、厚みを増しいき、太陽の光がどんどん遮られていく。雨がよりいっそう強くなり、雷まで鳴りだした。

 パンツは、ツールの雨水でへばりついた前髪を、目にかからないよう指で逃しながら、小さく尋ねる。

「何かあったのでしょうか?」

「母さんが国王軍に捕まったらしい……。もう間もなくギロチンにかけられるようだ……」

 雷鳴が轟き、一瞬ツールの顔が白く照らされた。

 少女はその言葉を受け止めることに、だいぶ時間を要した。パトリシアに貰った紺のリボンを外し、それを眺めながら、自分に言い聞かせる。

(大丈夫です。まだ、事態は進行中です。助ければ良いだけのことです。絶対に大丈夫!)

 少女はリボンをギュッと胸に押し当てる。

「大丈夫でございます! 私がパトリシア様をお救い致します。救出のご命令を下さい!」

 ツールは首をゆっくり横に振った。

「ダメだ、行くな……」

「ど、どうしてでございますか?」

「罠なんだ、これは間違いなく罠だ……」

「罠だったとしても、私なら大丈夫でございます。私には銃も槍も効きません! どうか、ご命令を!」

「だが、お前の心は違う。頑丈ではない……」

「そんなことはございません。パトリシア様のためなら、私の心は鋼になるのです。ご安心下さい!」

 ツールは少女の言葉を振り払うかのように、強くかぶりを振った。

「お前は少女だ。無理だ。最悪、俺は……お前を失うことになる」

「そんな……」

 パンツは握っていたリボンに込めていた力を抜いていった。

 ツールは、地面にできては消える雨の波紋を見ながら続ける。

「とうとう王妃マリー・アントワネットが出てきてしまった……。今のところ革命軍は、彼女の率いた時の国王軍に勝ったことがない。特に心理戦では絶対に勝てない。パンツとの相性が最悪な相手だ……」

 少女はスカートの裾を強く握り込んだ。

「しかし、パトリシア様をみすみす死なせる訳にはまいりません! どうか、どうか救出のご命令を下さい!」

「俺だって……母さんを死なせたくはない……」

 ツールの記憶の泉から、母との記憶が徐々に湧き上がってきた。今は、厳重にそこに蓋をしておかなければならない。だが、理性の蓋では、湧き上がってくるものをどうすることもできず、次第にそれを溢れさせていった。

 人生で最も古い記憶にいた彼女は歳若かった。王宮の庭園で、自分と一緒に芝生に座り、ミラベルの砂糖漬けを、自分の口に運んでくれている。

 その次に古い記憶は、国王軍の追手から、自分を抱えて逃してくれている映像だった。

 そこからは、もう止め処なく彼女の思い出が溢れでてきた。

ツールはとうとう、出してはいけない指示を口にしてしまう。

「母さんを救出してくれ……連れ帰って来て欲しい……」

 ツールの僅かに残る理性が、彼の脚を拳で殴った。

 少女は待っていた言葉を聞き、手のひらを額にあて、敬礼をする。

「お任せ下さい。必ずやり遂げてみせます! 必ず!」

 そう言い、ツールに背を向けると、走り出した。

 泥を蹴りあげ、冷たい雨を顔に受けながら、パリの街中を走り抜ける。かつての速度がでない自分を罵りながら、センサーを最大にし、パトリシアを探す。

 だが、市街地を駆けている最中に、急にその脚が止まった。

 視界に警告メッセージが現れたのだ。

 鼓動が高まっていき、震えと共に、深紅の文字を読んでいく。

「エネルギー不足、バッテリー残量8パーセント。全センセー停止、熱源探知停止、音波探知停止、電波停止……」。

 永遠と続く警告文を読みながら、腕をだらりとさせた。少女の力無い手からパトリシアのリボンがこぼれた。

「全センセー停止……。そ、そんな……これでは、パトリシア様を探すことができません。ああ、パトリシア様、どちらにいらっしゃるのですか……パトリシア様」

 雨がパンツの頬をしたたり、ずぶ濡れのスカートからは雨水がしたたっている。気持ちが焦るばかりで、目はただ宙をさ迷っていた。

 そんな、彼女を見つけた一人の市民がいた。彼は、少女を指を指し、大声をあげる。

「革命の女神様だ! 女神様がいるぞ!」

 その声を聞きつけた市民達が、続々と集まってきた。革命戦争に参加していない市民であっても、誰もがその精神には賛同しており、もはやフランス市民のほとんどが革命派だった。家という家、路地という路地から、湧き出てきた彼らは少女を囲み、懇願を始める。

「女神様、同士達が処刑寸前なんだ、どうか助けください、どうか……」

「王妃から家族を救って下さい! お願いします……」

 少女は周囲の声に、何度もうなずく。

「分かりました。それで、処刑は、処刑はどこで行われるのですか? どこに行けば、救えるのですか?」

 市民達は、一斉に同じ方向を指差す。その方向にいた市民の群れが割れ、パンツの通り道が作られていく。市民達が叫ぶ。

「コンコルド広場だ!」

 彼らはパンツのために作った道を賑やかすように三色旗を振り、一斉に革命歌を歌い始めた。太い声も、細い声も混じり合った歌が、少女を導く。

「分かりました! お任せ下さい! 誰も死なせません!」

 そう言い、深々とお辞儀をすると、市民の道を駆けだした。

 市民の道は、人々によって絶えることなく作られていき、最終的に数キロに及んだ。

 少女はその道を頼りに、処刑所を目指して直走る。

 雨を切り裂き、少女は風になっていく。

「どうか、間に合ってください……どうか……」

 

 * * *

 

 張り詰めた縄が、斧で切断された。

 釣り上げられていた巨大なギロチンの刃が、重りから開放される。刃はニ本の柱の間を滑り、柱の間にうつ伏せにされていた市民の首をあっさりと切断した。

 10キロ以上はあろう巨大な刃は赤黒く染まり、切断された頭部がゴロリと地面を転がる。

 やがて、処刑代の床部が開くと、死体はその中に落ちていき、ドシャリという音が広場に恐怖をもたらした。

 むせかえるような血の臭いがまだ立ち込める中、床が閉じられると、再び刃は空高く引き上げられていった。

 そこに、頭陀袋を被せられた男が、また一人連れて来られた。彼がちょうど100人目の受刑者だ。骨に皮を被せただけのすでに躯のようなこの男は、特別に痩せているというわけではない。この時代の市民は、男も女もこのような体形が普通だ。それほどこの国には食糧が無いのだ。

 男は雨に濡れる頭陀袋越しに大声をあげる。ギロチンの下で身動きが取れない体制で、体中の全ての力を使い切るような声が、コンコルド広場に響き渡る。その声を、そこにいた群衆の誰もが聴いた。

「そこにいるんだろう? マリー・アントワネット! 俺はお前を許さないぞ! 呪ってやる、呪ってやるからな!」

 断頭台を見下ろす位置に設けられていた煌びやかな観覧席、そこに王妃はいた。彼女は、男の言葉に細い目をさらに細める。頬杖を付き、高く編まれた金髪を少し傾げると、抑揚のない声を出す。

「朕はここにおるぞ。奇遇なことだが、朕もお前を許さんし、呪っている」

 吹雪より冷たい王妃の声が、その場にいた聴衆全ての心を凍てつかせていく。

 男はその声に怯みながらも、王妃に叫び続ける。

「市民に必要なのは、ギロチンじゃない! パンだ! みんな腹を空かせているんだぞ、それがどうして分からないんだ!」

「いいや、朕はそうは思わん。お前達に必要なのはギロチンだ。……落とせ」

 王妃の言葉と共に、再び刃が落とされる。

 新たな頭が地面を転がった。

 断頭台を取り囲んでいた何百という市民は腹の底からやってくる恐怖に襲われ、気絶して倒れる者や、失禁をする者が溢れた。

 一度王妃を見た者はそうなると噂される通り、彼らの目からは、革命の情熱は完全に消え失せてしまった。その代わりに、彼らの目に宿ったのは、服従だった。

 王妃は、手にしていた煌びやかな扇子を、前方に突き立てる。

「次っ」

 その言葉と共に兵士達が断頭台に連れてきたのは、老女だった。美しい水色のワンピースと、頭陀袋から垣間見える長い銀髪が印象的な女性だ。

 誰もが、その出立から革命軍のリーダーの母、パトリシアだと分かった。

 彼女は抵抗もせず、兵士にされるがまま乱暴にギロチンの下にうつ伏せにさせられる。

 王妃は少し前かがみになり、パトリシアに言葉の槍を突き刺す。

「久しいな、パトリシア。何か言い残こすことはあるか? 聞いてやろう」

 袋の中からくぐもった声が聞こえてきた。

「人々に自由を……」

「そうか、お前は変わらんな」

「私のこの首は楔、あんたの支配を砕く楔……革命の楔」

「戯言だな。お前の首にそんな力はない。さらばだ、パトリシア。……落とせ」

 王妃は、扇子を振り下ろす。

 巨大な刃が落とされる。

 血で染め上げられた真紅の刃が、張り詰めた空気を切り裂き、急降下していく。

血を欲する鉄の悪魔が、老女の首筋に迫っていく。

だが、硬い物を激しく打つ音と共に、その刃は宙で止まった。

 鋭い刃を支えた指があったのだ。

 その指は、少女がめいいっぱいに伸ばしたものだった。

 間一髪で間に合った少女は、大きく息を吐き出す。

 彼女が風のような速さで、断頭台に飛び乗ったので、所々が少女の足跡のかたちに破壊されていた。少女が踏み切ったと思われる広場の一部の石畳は、深く陥没している。

 パンツは荒い呼吸で途切れ途切れの声を、パトリシアに掛ける。

「パトリシア様、救出に参りました! 遅くなり、申し訳ございません!」

 愛する者の声に、パトリシアは上げられるだけ首を持ち上げ、頭陀袋から声を漏らす。くぐもったその声は、喋り辛い体制のためか、拷問を受けたためのか、かなり聞き取りづらいものだった。

「そこにいるのは、パンツなのかい? パンツだろ?」

「はい! パンツでございます。ここにおります!」

「ああ、可愛いパンツや、来てくれたのね。お願いだから……」

「はい、すぐに助け出しますので、ご安心下さい」

「その手をどけておくれ」

「へ……。い、今なんと……?」

 少女は聞き損じに違いないと、何度も頭の中で、パトリシアの言葉を繰り返した。

 パトリシアも、少女が耳を疑っているだろうと思い、言葉を続ける。

「これが、私の役目なのよ。未来の子供達の自由のために必要なことなの! だから、その手を離して?」

「で、できません……。そんなこと、できるはずがありません。パトリシア様、嘘だと、嘘だと仰って下さい……」

 声が震え、最後はうまく言葉にならなかった。

 パトリシアは少し顔をもたげる。

「酷なことをさせてしまって、ごめんね、可愛いパンツや。それでも、やっておくれ!」

「と、とても、できません……」

「……仕方ないね。パンツや、これは『命令』だよ」

 従属。それは、少女の存在意義であり、唯一彼女が頼れるものだ。ましてや、愛して止まないパトリシアからの命令だ。従わない理由など、どこにあろうか。

 指がギロチンの刃から、一本、また一本と離れていってしまう。

 この指を離してしまえば、愛する者がどうなのか分かるのに、体を止められない。

 最後に残る小指が震えている。

 その様子を見ていた王妃の付き人が、王妃に寄って来て、耳打ちをする。

「やはり、パトリシアを助けに来ましたな。身体能力、刃を小指で支える力から察するに、間違いなくパンツァーかと!」

 王妃は鬱陶しそうな顔になる。

「分かっておる」

「如何致しますか? パトリシアを撃ちますか?」

「何もしなくて良い。あのパンツァーは、すぐに刃から指を離す、黙って見ていろ」

「は、仰せのままに。しかし、さすが王妃様ですな。見事な策略。もしや、未来から来られたのですかな?」

「ふん、戯言を言うな。それより、パンツァーの実物は見事なものだな。雪のように白く、優美だ。それに、なんというたくましさ。朕は気に入ったぞ」

 王妃は扇子越しに、僅かに口元を緩めた。幾重にも重ねられたスカートを持ち上げ、座席からゆっくり立ち上がると、少女とパトリシアの様子に食い入った。

 パトリシアは、思い切れない少女の説得を続けている。

「可愛いパンツや、偉いね。自分の意思で刃を支えているんだろう? それは誇りに思って良いことだよ。でも、もう大丈夫なのよ、手を離してちょうだい?」

「はい……お、お心のままに……い、いたします」

 パンツはどうしても離せない小指を睨みつけた。

 その指の先に、パトリシアの長く伸ばされた銀髪が見える。

 自分と同じ色の髪だ。

 彼女のその髪をとかしたのは少女だった。

 昨日の夜、2人でお互いの髪をとかしあったのだ。

 最初にパトリシアがクシの使い方を教えながら、少女の髪をとかした。

 その後、パンツが見様見真似で彼女の髪をとかし、2人の髪は艶々になった。

 少女は、その時にパトリシアが自分の髪を褒めてくれたのを覚えている。たぶん、褒められたのは生まれて初めてだった。

 そのパトリシアは、うつ伏せが苦しいのか、死の恐怖に耐えているのか、絞り出すような声で語りだした。

「可愛いパンツや。私達一家は元々貴族だったんだよ。でも、ツールの父親が公明正大な男でね、貴族制度はおかしいと、廃止する運動を始めたんだよ。その結果、既得権益を脅かされた貴族によって殺されてしまったわ。私の可愛い子供達もみんな殺されてしまったの……」

 パトリシアの声は、かすかに涙が混じっているように聞こえた。

「何とか助けることができた子供は、ツールだけだけ……。そのツールは、成長して父親のような素晴らしい人間になったわ。誰よりも公明正大で、人々の自由な心を愛しているわ。でも、それだけではあの子が作りたい世が作れないの。足りないのよ。あの子は優し過ぎて、王妃には勝てないの……」

「ど、どうすれば良いのですか?」

「私が王妃の手にかかることが必要なの。さあ、指を離しなさい、これは命令だよ!」

 その声は、パトリシアのものとは思えない強い語気だった。

 パンツは激しい呼吸と共に、目を閉じた。

 細い小指が徐々に刃から離れていく。

 最後は雨粒が、少女の小指を滑らせた。

 刃が、愛するものの命に向かって行く。

 声だったのか、声ではなかったのか、少女は微かにパトリシア言葉を聞いた気がした。

「幸せになるのよ……」

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