第四章
21. 伊奈巳小学校 島掘優香
その日の授業を終えた島掘優香は、教室を見渡し、誰も残っていないことを確かめた。木と埃の匂いが充満する教室に秋の夕日が差し込んでいる。もうしばらくすれば初雪が降るだろう。
優香は課題ノートの束を抱えて、職員室に向かった。その途中で、寮に戻る大勢の子どもたちが彼女を追い越していく。彼らは優香の姿を見ると、一様に顔をほころばせて挨拶した。高学年の児童には、小柄な優香とほとんど背丈の変わらない子どももいる。
「優香先生、さようなら」
「さようなら。また明日ね」
「先生、バイバイ!」
「バイバイ、塚田くん。あした宿題忘れないでね」
子どもたちの無邪気な笑顔を見ると、一日の疲労も少し和らぐような気がした。決して楽な仕事ではないが、やり甲斐は十分にある。
しかし、中には不安げな表情を浮かべて、世界に自分一人だけになってしまったようにとぼとぼと歩く子どももいる。そういう子どもは要注意だ。そう遠くない未来、大人の世界で立派に生きていくために、子どもたちにできる限り幸せな学校生活を送らせてあげること。優香はそれを至上の使命としていた。
職員会議の時間が迫っていた。週に一度、一時間ほどの時間をかけて行われる会議だが、今日は普段よりも長くなるかもしれない。会議の時間の大半は、行方不明になった宮脇先生のことに割かれるだろう。
教室棟から職員棟に繋がる中央廊下を歩いていたとき、優香はおや、と思った。背広と和服姿の三人の男性が、何やらこそこそと話し合いながら歩いていたのだ。
「こんにちは」
優香は彼らに挨拶をしたが、三人のうちの一人、羽山議員に会釈を返されただけで無視されてしまう。あとの二人は中学の校長、そして町議会の副議長だった。
優香は不思議に思った。ここは小学校の校舎だ。なぜこんな場所に、あの三人がいるのだろう。
職員室に入ると、教師たちの視線が彼女に集まった。会議の開始時間ぴったりだった。優香が着席すると、教頭がすっと立ち上がり、教師たちに書類を配り始めた。
「……ということで、中等部二年四組担任の宮脇先生の居所は、依然として不明なままなのですが、児童、生徒に不安を与えないためにも、このことは口外しないよう、教職員の皆さんにはよろしく頼みたいと存じます。森林管理局の方や宮脇先生のご友人の協力を得て、捜索は続いておりますので、何か有力な目撃証言などを得た際には、私や校長先生に報告をお願い致します……」
書類は先日、災害避難訓練で町外遠征に出た中学生たちの滑落事故に関する報告書だった。生徒一人と引率の森林管理局の職員が登山道で重傷を負い、予定を切り上げて町に引き返したという内容だ。しかし、問題はその後にある。
教頭の話が途切れたとき、優香の隣のデスクにいる
「須藤先生、この話、ずいぶん変ですよね。ただ山で転んだだけで三人も怪我人が出るなんておかしな話だし、宮脇先生のことだって、行方不明になった
「怪しいって、どういうこと?」
優香は他の教員に気付かれないよう、小声で返した。
「まず、しらかば館に上月さんの娘さんを預けて、宮脇先生は近くのくすのき館を目指したという点です。僕、一度だけしらかば館に行ったことがあるんですけど、空き部屋がたくさんあって、泊まる人間が二人増えたからといって満室になるようなところじゃなかったんですよね。あと……」
教頭が睨んだので、彼は話すのをやめた。
職員会議が終わると、教員たちは各々の仕事に戻った。日没の頃になると退勤する者も現れ始めた。最後まで職員室に残っていた三人のうち一人が湯沸かし室に向かったタイミングで、優香は草野に声をかけた。
「草野くん、さっきの続きなんだけど……」
「ええ。そういや、森郷健弥さんって、須藤先生の同級生ですよね?」
「いいえ、違うわ。健弥はわたしの三学年下よ」
優香は首を横に振った。
「あれ、おっかしいなぁ……。まあいいや。でも、一応面識はありますよね」
草野は、納得行かないといった風に首を傾げ続けていた。
「子供の頃に何度か会ったことがあるくらいね。あそこの診療所には、よくお世話になってたから、ご両親のほうがよく知ってるわ」
成人してから一度だけ対面したことがあるのだが、そのことには触れないでおく。
「あの人、調査隊に所属してるからよく町の外に出るし、むかし何年か町の外を放浪してたこともあるんでしたよね? 町の皆が死んだものだと思ってたけど、ある日突然戻ってきたって聞きました」
「そうだけど……それがどうかしたの?」
草野は右手で頭を掻き毟りながら思索を続けていた。
湯沸かし室に入っていた教師が戻ってきて、二人に湯呑みの緑茶を振る舞った。草野は湯呑みに口をつけると、熱い熱いと繰り返して唇を舐めた。
「宮脇先生には家族がいなくて、森郷さんは町の外のことに詳しいから、ええっと……」
お喋り好きの新任教師は、顎に手を当てながら独言を呟き続けていた。
優香は熱い茶をすすって緊張を紛らわせた。
「そうだ、森郷さんって、昔町で起こった連続行方不明事件の最後の被害者でしたよね? そのとき、僕は小学一年生だったんですけど、行方不明事件が発生してたときに奇妙なものを見たんです」
「奇妙なものって、何?」
優香は聞いた。
「僕は
「どうして戻れなかったの?」
「気まずかったんです。僕は颯太の非を責めたつもりだったのに、後になってよく考えたら、喧嘩の原因を作ったのは自分なんじゃないかって気がしてきて……話すまでもないほどくだらない原因でしたけどね。教室に残っていじけていたら、いつの間にか日が落ちていました。流石に部屋に戻ろうとしたとき、窓の外から、僕の名前を呼ぶ声が聞こえたんです」
「颯太くんが呼びに来たの?」
「普通、そう思いますよね。教室は一階にあって、声が聞こえてきたのは運動場の方でした。窓に顔を近づけてよく見ると、グラウンドのど真ん中で僕に向かって手を振る人影が見えました」
優香は眉を顰めた。友達を連れて帰るなら、運動場から大声で呼びかけなくとも、直接教室に向かえばいい。颯太は何故そんな方法を取ったのだろう。
「おーい、
優香は息を呑んだ。
「僕って、昔から結構視力が良いんですよ。だから薄暗くてもシルエットがはっきり見えたんです。その人影は明らかに僕よりも年上の女の子でした」
「それって、どんな子だったの?」
優香は前のめりになって聞いた。
「ちょっと描いてみますね」
草野はデスクを漁って、紙とペンを取り出した。
出来上がったイラストを見て、優香は驚愕した。星がちらちらと瞬く薄闇のグラウンドを背景に、膝丈のワンピースを着た女の子の姿が描かれている。顎の下あたりで内側に強くカーブを描いた髪型が特徴的だった。そのシルエットが、優香の古い記憶を呼び起こした。
「茉奈ちゃん……」
優香は呟いた。
「何か言いました? 須藤先生」
「いいえ、何でもないわ。この絵、ちょっと借りてもいい?」
草野は怪訝そうな顔をして、困り調子で「いいですよ」と言った。
「でも、何に使うんですか?」
「この絵を見せたい人がいるの」
優香はそう言って、仕事用のハンドバッグに折り畳んだ草野のイラストを入れた。
「じゃあ、今日はもう上がらせてもらうわ。お疲れ様。また明日ね」
足早に立ち去る優香の背中を、草野はぽかんとしながら見送っていた。
ブルークォーツァイト 青澄 @shibainuhitoshi
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