20. 伊奈巳中学校 羽山誠

 町外遠征から帰宅し、一週間ぶりに登校した誠は、副担任の佐々木先生に応接室へ呼び出された。

 応接室は、生徒が近寄らない職員棟の二階の端にある。この部屋に生徒が呼び出されるときは、説教か関係者以外に聞かせられない話をするときと決まっていた。

「失礼します」

 佐々木先生は応接室の扉を三回ノックして、丁寧な口調で言った。

「どうぞ」

 中から柔らかい老人の声がした。二人は扉を開け、一礼してから中に入った。

「あっ」

 誠は思わず声を上げた。中にいるのは、和服姿の老人と、ダークグレーのスーツを着た二人の男だった。古い大理石のテーブル越しに座っている町議会副議長の老人がにっこりと微笑んで、二人に席につくよう促した。老人の右側にある三人掛けソファには、校長先生と数ヶ月ぶりに見る父親の羽山議員がいる。

 誠は空いていたもう一つのソファに、佐々木先生と並んで座った。そのせいで父親の顔を正面から見ることになった。彼は誠の顔をちらりと見た。

「元気だったか」

「元気そうに見える? 昨日まで寝込んでたんだけど」

「大きな怪我はなかったと聞いていたが」

「熱が出てたんだよ。見舞いにも来なかったんじゃ知らないよな」

「この件のことであちこち走り回ってたんだ。体調が悪いなら何故連絡を寄越さなかった?」

「何回も電話をかけたのに、出なかったのはお前だろ!」

 誠はテーブルを殴り、父親に怒鳴りつけた。額が怒りに火照り、軽く目眩がした。父親はほとんど無表情で、息子の目を正面から見つめ返していた。

 副議長が手を上げて、二人の会話の応酬を制止した。全員の注目が彼に集まった。

 誠は姿勢を整え、ゆっくりと深呼吸をした。氷に冷やされるように、怒りがすっと引いていく。今は感情的になるべきではなかった。なのに、父親の顔を見ただけで平静さを失ってしまっていた。

「まあまあ、お二方とも仲良く。今日、君に来てもらったのは、まさにその町外遠征で起こったことについて話を聞かせてもらうためなんだよ。先に学校に復帰した長岡くんと大塚さんに加えて、君の証言も聞きたいんだが」

「はい」

 誠は返事をした。二人がどこまで事件の詳細を正直に話したのか、誠は知らない。町に戻ってきた日に『希帆が登山中に滑落して、助けに入った宮脇先生と健弥も怪我をした』というシナリオを立てることで合意したきりだった。

 副議長は話し始めた。

「今回のことは、いろいろ大変だったね。とはいえ、君たちに大きな怪我が無くてよかった。上月さんの調子はどうだね?」

「右足首の骨を痛めてしまったらしいです。歩けないわけじゃないんですけど、下山できるようになるまで森林管理局の詰所で療養することになってたので、もうしばらく学校には戻れないと思います」

「そうかそうか。脚のことなら心配はいらないよ。上月さんの娘さんはまだ中学生だし、治りも早かろう。それに、立花医師は優秀だと聞いておる。私はね、町役場に報告に来た森郷君の状態を見て、こりゃとんでもないことになったと驚いてしまったんだがね。彼はああいう怪我には慣れているようだが」

 老人はそう言って破顔した。人の良さそうな笑顔だが、視線だけは黒く鋭い。副議長ともあろう人が、こんな世間話をするために自分を呼び出すことは有り得ない。一体なんのためにこんな場を作ったのだろうか。誠は履いていたデニムで手汗を拭った。

「あの……話って、何ですか? 上月さんが怪我したときのことは、長岡くんと大塚さんの二人からもう聞いてると思うんですけど」

 次に話し始めたのは羽山議員だった。

「宮脇先生が、行方不明になったんだ」

「え?」

 誠は素っ頓狂な声を上げた。自分の声が想像よりも高く大きく響いてしまい、口を押さえて縮こまった。

「君たちを引率した森郷君の報告では、宮脇先生は医師が常駐しているくすのき館で怪我の治療を受けたとある。しかし、くすのき館の職員に尋ねると、彼女は町外遠征から戻ってきたその日に『仕事に復帰するために自分の宿舎に戻る』と言って、くすのき館を出ていったそうだ。だが、先生は今、教員宿舎にも病院にもいない。今のところ、町で彼女を見かけた人もいない。君は何か知らないかな?」

「わかりません。……僕らがしらかば館に戻ってきたとき、部屋の数が足りないからという理由で、希帆よりも怪我が軽かった先生が、くすのき館に移動することになったんです。僕と、長岡くんと大塚さんはすぐに下山したので、先生を見たのはそのときが最後です」

 誠は話し終えると、高まる鼓動を抑えるためにゆっくりと深呼吸をした。これが今の自分に話せるすべてのことだった。

 校長先生と副議長が目配せをしたように見えた。行き場のない苛立ちのような感情が、ふつふつと湧き上がってきた。

 町外遠征で誠たちの班に起こった異常事態について、彼らは何かの情報を掴んでいるのだろう。そして、梨沙と拓馬の二人は、口裏を合わせてうまく事情聴取をやり過ごした可能性が高い。だから自分が呼び出されたのだ、と誠は推測した。副議長と父親の羽山議員が出れば、議員の息子である誠が嘘をつき通すことは難しい、と彼らは考えたのかもしれない。

 しかし、担任が行方不明になったことについては、誠は何も知らなかった。

「君は、上月さんとは長い間親しくしてるようだね」

 校長先生が切り出した。貼り付けたような笑顔だった。広い額には、玉の汗が浮かんでいる。

「はい。僕の母親と上月さんのお母さんが同級生で、家も近いので小さい頃からよく一緒に遊んでました」

「上月さんのお父様と、森郷医師の奥様がいとこの関係にあるのは知ってるかね?」

「親戚だということは、何となく知ってました」

「そこの息子の健弥君と上月さんはそれなりに親しくしていたようだが、君はどうだね」

 誠は腕を組んだ。質問の意図がよくわからないが、正直に答えておいたほうがよさそうだ。

「森郷さんと会ったことがあるのは、数回だけです。希帆はよく森郷さんに甘えてましたけど、あの人は子供と遊びたがるタイプじゃないから、何度か話したことがあるくらいですね。それって今回のことに何か関係あるんですか?」

 沈黙が応接室を覆った。自分から質問をしたのはまずかったかもしれない。大事な場面で不用意な発言をしてしまうのは彼の悪い癖だ。

 羽山議員が口を開いた。

「単刀直入に聞いたほうがいい。息子には理解できるはずです。遠回しな尋問をしても時間の無駄ですから」

 不用意な発言をする癖は、父親から受け継いだものだ。尋問という表現が、誠は気になった。やはり、町の上層部は何かを掴んでいるのかもしれない。誠は身構えた。

「そうですね。この際はっきり彼に質問したほうがいい。誠くん、我々は、森郷くんの報告には記されなかった出来事が、町外遠征の間に起こっていたと考えている。もし、心当たりがあるのなら、我々に正直に教えてほしいんだ」

 副議長が言った。

「それって、具体的には、どんなことでしょうか。僕はその報告書の内容を知らないので、まだ何とも言えないです」

 誠を囲む大人たちがまた目配せをした。いっそ仮病でも使おうか、と誠は考えた。実際、妙に粘っこい汗が出続けているし、頭痛も出始めていた。健康によろしくないことは間違いない。

 そうしたところで事情聴取からは逃げられないことに思い至り、誠は自らの不幸を呪った。逃げ場などどこにもないのだ。

「君は賢い。だから我々が知りたいことを理解しているんじゃないのか?」

 校長先生が言った。

「何の話なのかよく分からないんですけど、上月さんは山道を歩いているときに転倒して斜面を転がり落ちてしまったんです。足首を捻ったのはそのときですね。咄嗟に上月さんの手を掴んだ宮脇先生も一緒に落ちて、救助に行った森郷さんが硬い葉っぱで額を切ってしまったんです。僕と大塚さんと長岡くんは、救助を手伝ったときにあちこち引っ掻いたり転んだりして怪我をしました。僕が知ってるのは、それだけですね」

 誠はきっぱりと言い切った。少し説明が具体的すぎたかもしれない、これでいいのだろうか、という思いが頭に飛来する。梨沙や拓馬の証言と自分の発言に矛盾があれば、そこを追及されかねない。どうか二人がうまくやってくれていますように……と心の底から願った。

 父親が唸るようなため息をついた。

「宮脇先生の居場所は、検討はついているんですか?」

 誠は質問を返した。

「いいや、全く無い。町の中にいればどこかで目撃証言が上がってくるはずなんだが、それも今のところは無い」

 うまく話題をそらすことができたので、誠は父親に感謝した。この冷血漢も、たまには役に立つことがあるのだ。

「本当に、どこに行ったのかも分からないんですか……?」

 誠は絞り出すように言った。俯いて眉根を寄せ、大袈裟に悲しむ演技をした。

「しばらくは体調不良で休みということにする。羽山も協力してほしいんだ。クラスの皆を不安にさせるわけにはいかないからな。お前ならできるだろ?」

 佐々木先生が早口で言った。大して暑くもないのに、汗で顔全体が濡れたようになっている。

「それは構いませんけど……ずっと見つからなかったらどうするんですか」

「担任の仕事なら俺が引き継ぐからな、羽山は気にしなくていいぞ」

 佐々木先生はわざとらしい動作で誠の背中を叩いた。

「ほら、そろそろ授業が始まる時間だから、教室に戻るぞ。では副議長、我々はこれで失礼させていただきます」

「そうかね。話はまたの機会に聞かせてもらうとするか」

 誠と佐々木先生は、入ってきたときのように丁寧に一礼して応接室を出た。三人の視線が誠の背中に刺さっているのを、痛いほどに感じた。


 誰もいない薄暗い廊下を、二人並んで無言のまま歩いた。職員室前の大きな古時計が立てるカチカチという音が、やけに耳に入る。確か、この町がまだ日本国の過疎集落だった頃からあるものだ。

「うまくやったな、羽山」

 佐々木先生が、小さく呟いて、誠の肩を軽快に叩いた。

「え?」 

「こっちの話だ、気にするな。さ、授業に戻りなさい」

 佐々木先生は教室の引き戸を勢い良く開け、誠の背中を押した。クラスメイトたちの視線が誠に集中し、一瞬の沈黙が訪れる。

「誠!」

「おかえり!」

「久しぶりだね」

「体調は大丈夫なの?」

 クラスメイトたちの笑顔が次々に誠を迎えた。自然と控えめな拍手が巻き起こり、誠は頬をかすかに赤らめて席についた。

「感動の再会のところ申し訳ないが、授業を始めるぞ。ほら、座れ座れ。着席だ」

 一限目の始まりを知らせるチャイムが鳴った。

 教室を包んでいた喧騒が瞬く間に引いて、生徒たちはそれぞれの席を目指し、教科書や筆箱を取り出す雑音が響いた。

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