19.しらかば館 上月希帆

 襖が乱暴にノックされ、鈍く震える音がした。希帆は重い瞼を無理矢理こじ開け、目を覚ました。目の焦点がぼやけたまま、なかなか合わなかった。

 仰向けの姿勢でぼんやりと天井の模様を眺めていると、同じリズムのノックが繰り返された。先程よりも苛立ちの含まれた響きだ。

 希帆は頭を起こした。障子窓から透けた淡い陽光と古い畳が放つ匂いが、たった六畳の和室に充満している。舞い上がった塵が光を反射してきらきらと輝いていた。

「なに?」

「まだ寝てたのか。入るぞ」

 希帆の父親が、和室の低い丸テーブルに朝食の盆を置いた。グラスの中のお茶が揺れ、雫がテーブルの上に数滴落ちた。メニューは雑穀米を炊いたものと山菜の和え物、さつまいもの味噌汁、焼き魚だ。

 テーブルの上の置き時計は、午前七時を指していた。

 食べ物の放つ匂いに食欲を刺激され、希帆は綿の抜けた座布団に座り直した。寝癖だらけの頭を掻き、無意識のうちに頬をさすった。皮脂でべたついている。

「足の調子はどうだ」

「まだ痛い……」

「ちゃんと薬、飲んでるか」

「うん」

 希帆はぶっきらぼうに答えた。この数日、毎朝ほとんど同じ会話が繰り返されていた。

「あとで食器を取りに来るから、しっかり食うんだぞ」

「うん」

 父親が去ったあと、希帆は食事に手を付けはじめた。

 焼き魚を齧っていると、希帆の耳に、軽快な足音が届いた。ぺたぺたという音が、天井から響いている。健弥や山岡の足音ではないし、まして父親のものでもなかった。天井裏にイタチかアライグマの類でも棲み着いているのかもしれない、と希帆は思った。しらかば館の二階には、まだ足を踏み入れたことはない。

 朝食を食べ終えたあと、希帆は壁にもたせかけていた松葉杖を取り、部屋を出た。長く薄暗い廊下を、松葉杖と片脚だけでバランスを取りながら慎重に進んでいく。用を足すのも一苦労だ。

 また足音がした。襖を素早く開けるときの音の次に、一段と大きな物音が続いた。足音の主が敷居に躓いて転んだようだ。

「だれ?」

 上に向かって呼びかけてみる。同時に物音がぴたりと止まった。

「変なの」

 希帆は、健弥たちの他にも当直の職員がいるのかもしれない、と考えた。どうやら彼ないし彼女は相当せっかちな人物らしい。

 廊下に繋がった階段から、平らな顔の黒猫が姿を現した。短めの手足に比べて尾が大きく、ふさふさとした長毛に覆われている。古ぼけた赤い革の首輪には、金属製のネームプレートが取り付けられていた。

 猫は鳴き声を上げながら希帆に近寄ると、鼻をひくつかせて足首の臭いを嗅ぎ始めた。

「へえ。ここ、猫も飼ってたんだ」

 希帆は屈んで、猫の喉を撫でた。しらかば館では、ありとあらゆる種類の動物を引き取っては育てている。だから猫がいることもおかしくない。

 希帆の目の前にいた猫は、数年前まで森郷家で買われていた錆模様の猫や、町にいる三毛や虎模様の猫とは品種が違うように見えた。きっと山で見つけられた野良猫だろう、と希帆は思った。森林管理局の職員たちは、揃いも揃って無類の動物好きなのだ。

 希帆の視線が、猫の首輪に取り付けられた金属製のネームプレートに引き寄せられた。表面に曲がりくねった文字のような曲線が刻まれているが、読むことはできない。

「何これ……」

 希帆はネームプレートをよく見ようと顔を寄せる、猫は身をよじり、廊下の突き当りにある丸窓の格子をすり抜けて消えてしまった。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。

 松葉杖を持ち直し、希帆は部屋に戻った。しわくちゃになった布団の上に倒れ込むようにして寝転がり、天井の一点を見つめた。枕元には十冊近い本の山が積み上がっている。どれも既に読み終えてしまっていた。

 妙な足音以外にも、希帆は違和感を覚えていた。さっきまでしらかば館にいたはずの父親の気配がなかった。父親は粗雑な男なので、彼が立てる物音だけで家のどこにいるのか突き止めることができるほどだ。しかし、今は足音どころかわずかな気配もない。

「暇……」

 空になった朝食の盆を見て、希帆はあることを思いついた。

 片方の松葉杖を拾い上げ、空いた手で盆を持った。畳の上でバランスを取るのは難しかったが、ゆっくりなら歩くことができそうだ。

 リハビリと暇潰しを兼ねて、希帆は朝食の食器をキッチンに運ぶことにした。

 松葉杖の先を襖の隙間に差し入れて、体が通る程度の幅まで広げた。その細い出口に肩を押し込むようにして、希帆は廊下に出た。

「お父さんいる? ご飯、食べ終わったよ」

 希帆は長い廊下に呼びかけた。返事はない。

「食器、取りに来るって言ったよね?」

 ひとりごちながら、角を曲がった先にあるキッチンに入った。やはり無人だ。銀色のシンクには、数人分の食器が乱雑に重ねられていた。シンクの排水溝のすぐそばには、洗剤の泡がついたままのスポンジが落ちている。ここで食器洗いをしていた誰かが、仕事を途中で放り出してどこかに行ってしまったらしい。

「……誰かいますかぁ」

 奇妙に思いながらも、周囲に向かって呼びかけてみた。やはり返事はない。希帆は鼻から息をふんと吐き、朝食の食器をシンクの食器の山に積み上げた。食器の山がバランスを崩し、障りな音を立てた。一本の箸が床に落ちて、ころころと転がった。

 希帆はかがみ込み、テーブルの下の箸を拾おうと手を伸ばした。そのとき、椅子の脚の間に隠れていた少年と目が合った。見たこともない髪と目の色に、作り物のような顔の少年だった。

 二人は同時に悲鳴を上げた。

「ちょっと、何? あんた誰!」

 希帆は大声を出していた。少年はテーブルの下から飛び出すと、シンクの隣の食器棚に激突し、体の向きを変えてキッチンを出て行ってしまった。

 希帆は松葉杖を拾い上げ、彼を追うために歩き始めた。しかし体が思うように動かず、その場に躓いてしまう。床に叩きつけられた松葉杖が、キッチンの扉を超えて廊下に滑り出た。

「痛ぁ……」

 体勢を立て直そうとするも、痛みでうまく行かない。

 赤毛の少年が恐る恐る、扉から顔を出して中の様子を伺った。彼はゆっくりと松葉杖を拾い上げ、床に座り込んでいた希帆に手渡した。

「……だいじょうぶ?」

「うん。ちょっと転んだだけ。拾ってくれてありがとね」

 希帆は松葉杖を受け取り、立ち上がった。少年はすかさず肩を支えて介助した。

 自室に戻るために廊下を歩き始めた希帆は、しらかば館の玄関扉が引き摺られる耳障りな音を聞いた。希帆の肩に手を添えていた少年の表情が強張った。

「あいつ、本当にどこ行きやがったんだ、この……」

「夜には戻ってくるんじゃないですか。どうせ飛べないんだから」

 上月の断片的な愚痴が聞こえてきた。近くで答えているのは健弥のようだ。

「希帆! 飯は食ったのか?」

 上月が大声で呼び掛けた。

「希帆、また寝てるのか? 起きてるなら返事をしろ。何やってるんだ」

 曲がり角の向こう側から、上月が現れた。廊下に立つ二人を見咎めると、がさついた大声で「お前! そこで何してるんだ!」と叫んだ。

「え、なに?」

 希帆が状況を理解できず混乱しているうちに、少年は玄関とは反対の方向に走り去ってしまった。そのあとを、派手な足音を立てながら上月が追いかけていった。

 呆れ顔の健弥と目が合う。

「こうなると思った」

「何が?」

 父親が玄関に戻ってきて、健弥の隣に立った。彼に首根っこを掴まれた少年は、観念したように仏頂面で立っている。ふたりは廊下を一周して戻ってきたらしい。

「この子はだれ?」

 希帆は健弥に聞いた。

「知らん。山で拾った」

「なにそれ。犬じゃないんだから、もうちょっと……いい説明あるでしょ」

 希帆は突っ込みを入れた。

「こいつのことは、町にはまだ報告してねえんだ。のことがあるから、あの老いぼれ共がこいつを受け入れるわけねえ。だからといって山に放り出すわけにもいかねえから、ここで面倒を見てんだ」

「ふうん。で、さっきは何でふたりともここにいなかったの?」

「さっきはサニーが脱走したから探しに行ってた。こいつにはお前に見つからないよう大人しくしておけと言ったが、このザマだ」

 父が溜息をついた。

「あのバカ鶏、戻ってきたら食っちまうか」

「ダメ!」

 少年が叫んだ。

「食べちゃダメ」 

「冗談だよ。真に受けんじゃねえ」

 上月はひらひらと手を振った。少年は彼を睨んだ。

「まあ、こうなったらこそこそ隠れる必要も無いんだし、希帆の怪我が治るまで一緒に遊んでたらどうだ。お前、ずいぶん暇してたんだろ」

 上月は少年の首を掴んでいた手を離した.

「じゃあ、俺と健弥は町に用があるから、今から行ってくる。夕方までには戻ってくるから二人で大人しくしてるんだぞ」

「はーい」

 およな二人を見送ったあと、少年が希帆に向かって言った。

「ぼくはキリアン。希帆ちゃん、よろしくね」

「こちらこそ」

 ふたりはぎこちなく握手をした。

 

 

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