18.東京城砦 陸澤演

 着替えや生活用品を詰めたバッグを肩に掛けた。予想よりもずっしりと重く感じる。入院生活はそう長くなかったが、かなり体力が落ちてしまっていたらしい。

 テギョンは軽く溜め息をついた。入院生活のために先延ばしにしてきた生活の彼是あれこれのことを考えると、憂鬱な気分になる。とはいえ、大した傷を負わずに日常に戻ることができた自分の幸運が、少し喜ばしかった。


 退院の手続きを終えて、彼は病院の出口に向かった。ウェラブルデバイスを身に着けていれば、透明な自動ドアの手前の床に、青く光る線が引かれているのが見えるはずだ。見えない線を踏み越えると、ほとんど空気と変わらない透明度のドアが音も立てずに開いた。認証、認証、認証。世界一ともうたわれる東京城砦の治安は、徹底的な認証や行動の監視と引き換えに成立したものだ。どこへ行き何をするのも自由だが、すべての記録を国家に明け渡さなければならない。本来ならば、彼を刺した男のような存在は、東京城砦には存在し得ないものだった。

 外に一歩出ると、肌を焼くような熱風に全身が晒された。重なる建物の影になって陽光は届かないが、それでもうんざりするほどの猛暑だ。蔓性植物に覆われた壁も、頭上から降るミストも、ほとんど気休めにしかならない。彼が東京城砦に移住したばかりの頃には、快適な気温を保つために東京城砦の全体を透明なドームで覆ってしまう計画があったという。それも結局、他の地域の反対によって頓挫した。

 テギョンの目の前に、滑るような動作で一台の車が停止した。時刻は午前八時〇分。タイミングは完璧だった。

 運転席から小柄な人物が出てきて、彼に微笑みかけた。多めに見積もっても十代後半にしか見えない彼の容姿に虚を突かれる。

「こんにちは、ユク・テギョンさん。僕はルアンです」

 ルアンはそう自己紹介し、一礼した。高い知性を感じさせる明朗な声だが、かえって人工的な感じがする。じっさい彼は人工物だった。彼はテギョンの荷物を預かり、車の後部座席に置くと、助手席側のドアを開けて、乗るように促した。

「今日は自宅に帰られますか?」

「いや、東京港まで向かってくれ。二人分の船のチケットを取ってある」

「了解しました」

 ルアンが目的地を入力すると、車はひとりでに道路に出て走り出した。血管が浮き出た小麦色の肌は、とても人工的に生成されたものには見えなかった。生体部品を一切使わない琉球国製の人工身体はどこか非人間的で冷徹な印象が拭えないが、ルアンは外見に比べて所作や言葉遣いが整いすぎていることを除けば、街を歩いている普通の学生とほとんど区別が着かなかった。

 テギョンは柔らかいシートに背中を預け、楽な姿勢を取り、目を閉じた。冷房の風が火照った顔に吹き付けた。

「ところでテギョンさん、傷の方はいかがですか?」

 ルアンが問いかけた。

「もう平気だ。出血の割に傷が浅くて助かったよ」

「それは不幸中の幸いでしたね。しっかし、珍しいですよね、この東京城砦で通り魔だなんて。ここは治安が良いことで有名なのに」

 テギョンは口ごもった。その東京城砦で身辺警護を依頼してきたテギョンのことを、彼は不思議に思うだろうか。通り魔に襲われて入院していたことまでは彼に伝えていたのだが、そうなるに至った経緯についてはまだ話していなかった。話していいものだろうか、と彼は自問した。ルアンはきっと秘密を守るだろう。しかし……。

 無言のドライブを続けていると、どこかから機械的な音声が流れ始めた。ルアンのささやかな気遣いらしい。

「……市の商業施設で爆発があり、四名の死者と多数の負傷者が出ております。警察は犯人とみられる男女を拘束しました。……犯人は身元を証明するものを何も持っておらず、意味不明な供述を続けており……」

「ずいぶんと物騒なニュースですね」

 ルアンが言った。

「最近増えてるんだ。戸籍もなければタグも持ってない正体不明の犯罪者が。彼らはどこから来るのだろうな。タグや身分証明の類がなければ、買い物どころか家に入ることもできないのに」

「安全と引き換えとはいえ、窮屈な話ですね」

「そうかな?」

 幹線道路に入り、車は静かな走行を続けた。目的地まで約二十分です、と簡素なアナウンスが流れる。

「ルアン、君は世界中を旅してはこういう依頼を受けてるんだって?」

「世界中といっても、アジア圏だけですが。社のサービスを利用しているユーザーから依頼が出されると、同じ地域にいるスタッフのうち適任の者に、会社を経由して依頼が届く仕組みになっています。

 琉球国には何度か滞在しましたが、とんでもない量の依頼が毎日届くので参りましたよ。あ、でも、東京城砦に来るのは初めてです」

「依頼っていうのは、具体的にどんなことを?」

「大部分は、テギョンさんの予想通りだと思いますよ。家庭教師とか、引っ越しや大掃除の手伝いとか、急な出張が決まった親御さんのためにお子様を預かったりとか……。変わったご依頼でしたら、大掛かりなマジックの練習台になったことがあります。刃物や水を使うタイプの。あと、シンガポールにいたときに、自分を毒殺しようとする輩に命を狙われているという妄想に取り憑かれた老人のために、毒見役を引き受けたこともあります」

「なんだよそれ」

 テギョンは頬を緩めた。

 しばらく車を走らせ続けていると、ルアンがまた彼に話しかけた。

「もうすぐ港に着きますよ」  

 テギョンは目を開けて、車窓から外を眺めた。景色はすっかり変わり、快晴の空と青緑の海が視界を二分していた。海面は鏡の破片をばらまいたように輝いていた。遠く水平線上に浮かぶのは発電所だろうか。


 九州行き高速船で、彼は二人分のコーヒーと軽食を買った。サンドイッチをルアンに手渡すと、彼は礼を言って一口齧った。表皮や髪のような生体部品を維持するために少量の食事と水分補給が必要なことは予め知らされていたが、それでも人工身体が食べ物を食べている様子は不思議な光景に思えた。彼の少々不躾な視線を、ルアンは意に介することなく食事を続けた。

 船を降り、レンタカーに乗り換えた。ルアンは運転席に乗り込み、助手席にテギョンが乗った。

「こっちは寂れてますね。車も古いし」

「道路もボロボロのまま放っておかれてるところが多いから、手動運転の方がいいぞ」

「わかりました」

 海と山ばかりが見える道路を走っていると、突然、視界に廃墟群が現れた。高さ十数メートルの緑の塔に見えるのは葛の蔓に覆われた高架道路の支柱だろう。一メートル程度の隙間を空けて立ち並ぶ住宅はときおり崩れて歯抜けのようになっていた。中には成長した庭木にほとんど呑み込まれているものもある。アスファルトは盛り上がり、割れ目から人の背丈の何倍もある植物が生えている。百年近くの年月を経ても、街は当時の面影を微かに残していた。

「これはすごいですね。震災のときからずっとそのままなんでしょう?」

「そうだ。取り壊すには予算がかかりすぎるからそのまま放置されてる。もう少し奥に行けば、こんな場所が五万とあるよ」

 テギョンは固いシートから身体を起こし、外を見た。震災と原発事故やダム崩壊、それに伴う混乱が終息してから数年後に、復興計画の一環として九州地方の再開発が始まった。だが、沖縄、北海道、一部は海外へ避難していた住民のうち、帰還したのはその三分の一に過ぎず、過疎化は留まるところを知らない。取り壊す以外に道のない廃墟群は、国家にとって手に余る負債だった。

 その廃墟群に隣接した地区に、彼が十七歳まで過ごした小さな街があった。

 ルアンはその地区の、ある住宅の前で車を停めた。

「では、僕は車の中で待ってますので。用事があればお呼びください」

「そんなに時間はかからないから、すぐ戻るよ」

 テギョンが玄関扉に掌をかざそうとした寸前、中から「いま開けたから入っておいで」と少しかすれた声がした。

「ただいま」

 テギョンは玄関扉を開け、廊下の奥に呼びかけた。

「おかえり。怪我はもう治ったのかい」

「うん。もうすっかり良くなったよ」

 リビングルームのソファに座る小柄な女性は、彼を一瞥してかすかな笑みを見せた。足元にはすっかり毛皮が白くなったダックスフントが寝そべっている。

「親父は?」

「里帰り中だよ。向こうの親戚の結婚式に出るんだとさ。あんたにもお土産、持ってくるそうだよ」

「半分、いや三分の一でいいって言っといてくれ。今は家に誰もいないから食べきれないと思う」

「ハヌルちゃんはどうしたの? また仕事なのかい」

「いまモロッコにいる。あと一ヶ月は帰ってこないよ。あとこれ、お土産」

 テギョンは色紙で丁寧に包装された高級チョコレートの箱をマリに手渡した。

「ふうん。ありがとう。そういやあんた、昼ご飯は食べたの?」

 朝食と船で食べたサンドイッチ以外は何も口にしていなかった。時計を見ると、既に午後二時を回っている。

「そういえば、まだだな」

「そこで待ってな。何か作るから」

 マリがキッチンにいる間、テギョンはソファに腰を下ろして待つことにした。古めかしいアナログ時計の秒針のカチカチという音が響いていた。母の習慣で、ニュースや音楽の類いは流れていない。ダックスフントの頭を撫でてやると、ようやく家族の帰宅に気付いたのか、尻尾を振って彼の手を嬉しそうに甜めた。

 窓から車の中を見やると、運転席に座るルアンの後ろ姿が目に入った。シートに身体を預けたまま微動だにしない。人工知性も眠ることがあるのだろうか、とテギョンは考えた。契約書には、最低八時間以上の休息を与えるよう記されていたが。

「そういえばこの間、あんたの同級生に会ったよ」

 マリがキッチンから呼びかけた。

「誰に?」

「名前は忘れたけど、ほら、あの高原さんとこの息子さん。どこかの俳優みたいに綺麗な顔をした子だよ」

 テギョンは背中に冷たいものを差し込まれたような感触を覚えた。その名前を聞くだけで、手足が強張るような気がする。

「あの子、あんたが東京城砦に行ったあとに本島の大学に行って、軍隊に入ったんだってね。商店街で声をかけられたから少し話したんだ。高台の家と土地に買い手がついたから、ご両親の墓を本島に移すんだってさ。ありゃもう、ここには二度と戻ってこないだろうね。若い人はみんな出ていくんだから」

「それで、航は他にも何か言ってた?」

「ああ……今度東京城砦に遊びに行くから、テギョンによろしくだとさ。あんた、あんな派手な子と仲良くしてたのかい」

 マリは彼にさほど興味を持っていないようだった。会話が途切れると、料理の続きに没頭し始めた。しばらく物音だけが響いた。

 警視庁の発表によれば、通り魔の男はタグ未保持者、つまり琉球国の国籍を持つ人間ではないとのことだった。しかし他国のタグやパスポートといった身元を表すものも持っておらず、その正体は依然として知れない。 彼は流暢な日本語を話したし、顔は汚れていてよく見えなかったがこの国の人とそう変わらなかった。それだけがその人の出自を決定づけるものではないことは十分すぎるほど理解しているが、どうにも奇妙だった。あの男がずっと東京城砦にいたにせよ、海外からやって来たにせよ、タグがなければ公共施設に入ることも、まともに買い物をすることもできない。行動追跡ができないので、彼が事件以前にどこで何をしていたのかは目撃者の情報を頼るしかないのだが、信頼の置ける証言が寄せられたという報道はまだ出ていなかった。まるであの男が突然、あの場に降って湧いたとでもいうようだ。

 そしてそのような正体不明の人物による犯罪は、数年の間に東京城砦で漸増していた。その背景に紅炎プロミネンスがいることは、テギョンの一件から明らかである。 

「できたよ」

 マリが野菜炒めとスープが乗った盆を、ダイニングテーブルに置いた。

「ありがとう」 

「それでテギョン、仕事はいつから復帰するの?」

 マリは彼の正面の椅子に腰掛けた。テーブルに頬杖をついてじっと彼の顔を見る。

「来週からだ。上司が休暇を多めにくれたから」

「ふうん。よくやってるのね。順調なんだね」


 遅めの昼食を平らげ、テギョンは席を立った。

「ごちそうさま」

「今日は泊まっていくのかい?」

 マリが聞いた。

「いいや。もう帰るよ。明日どうしても外せない用事があるから」

「そうかい。またおいで」  

 マリの声には一抹の寂しさが含まれていた。微かな罪悪感を噛み締めて、テギョンは玄関に向かった。

「じゃあ。元気な顔が見れてよかった」

「あんたこそ。ハヌルちゃんと仲良くするんだよ」

 ルアンは、彼が車を離れたときと同じ姿勢のままじっと目を閉じていた。テギョンが車に近付くと、ぱっちりと目を開け、柔らかな笑顔を作る。

「もういいのですか? 泊まっていけばよかったのに」

「それじゃ君に悪いだろ」

「構いませんよ。僕は何日でもこうしていられますから、遠慮はいらないのに」

 ルアンは話しながら、車を発進させた。

 ふと後ろを見やると、窓辺にマリが立っていた。運転席にいる謎の人物を見咎めると、次に助手席のテギョンをひと睨みする。

「見られちゃいましたね」

「腰が痛くて運転できないからヒューマノイドサービスを頼んだって言っておくよ」

「今日はこのままお帰りになられるんですよね。明日の予定は決まっていますか?」

「ああ。明日は東京拘置所に行ってくれ」

 ルアンが眉をひそめた。

「理由を聞いてもよろしいでしょうか」

「もう一度ハヤト・クニカワに会いに行く」

 ルアンは一瞬の沈黙の後、「わかりました」と呟いた。余計な詮索をしないバディとは気が合いそうだ。

 車はスピードを上げ、真っ直ぐな道路を滑らかに進み始めた。テギョンは思わずもう一度振り返った。母の姿はもう見えなくなっている。すでに日常に戻ったのだろう。

 大人になるまでの大半の時間を過ごした故郷の背後に、物言わぬわびしい廃墟があった。



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