17.しらかば館 キリアン

 キリアンの一日は、しらかば館で飼われている雄鶏「サニー」が上げる鶏鳴で始まる。快適な目覚めには早すぎる時間だったが、二度寝すると昼前まで眠りこけてしまうので、仕方なく起きるようになった。

 寝ぼけ眼で布団を畳み、寝間着のまま洗面台に向かう。水垢と埃で汚れた鏡に、爆発した赤毛に囲まれた気弱そうな少年の顔が映った。頬を中心に顔全体に薄褐色のそばかすが散り、手の甲にも広がっている。髪と同じ色の睫毛に囲まれた灰色の目に、鏡を覗き込む自分の影が映り込んでいた。

 傍らの黄ばんだ時計が、午前五時半を示していた。裸足の足に、朝の冷えた空気がまとわりついた。

「ねえ」

 キリアンは足元にいた黒猫の真緒まおに話しかけた。ふさふさとした長毛の猫で、鼻面が平らに潰れた顔に妙な可愛らしさがある。

 真緒は逆三角の黄色い目でキリアンを見た。

「ぼくがここに来てから何日経ってる?」

「三十六日よ」

 真緒が幼児のような舌足らずな声で答えた。

「そろそろ飽きてきたでしょ」

「まあね。町のほうに行きたいなぁ」

 顔を洗い、髪を梳かし、キリアンは大きなあくびをした。

 台所に行くと、炊きあがった米の香ばしい香りが漂っていた。サニーのせいでどれだけ早起きになっても、彼よりも早く起きている人が必ずいた。この場所で働く人の生活は、日の出と日の入りに合わせて動いていた。

「おはよう、坊や」 

 最近ここで働き始めたという、山岡という名前の職員が、厨房でカレーの鍋をかき混ぜていた。昨夜の夕食の残りだ。

「おはようございます」

 キリアンは挨拶を返した。まだ発音は拙いが、彼の日本語能力は大半の日常会話を理解するほどに成長していた。真緒の通訳さえあれば会話には困らないのだが、キリアンは町の人々に彼女の正体を明かすタイミングを逃してしまっていた。そのお陰で真緒は毎日、摂る必要のないミルクとキャットフードを与えられる羽目に陥っている。


 朝食を終えて服を着替えると、キリアンは庭に出て、倉庫にある金属のボウルに飼料と野菜屑を入れ、兎の飼育スペースに置いた。フェンスの錠を外す音が響いた瞬間、たちまち地下の穴蔵から兎たちが飛び出してきて、ボウルを囲んだ。その中に、ひときわ小さい白黒模様の兎を見つけ、キリアンは微笑んだ

 箒で兎の糞を片付けると、次は鶏小屋に向かう。

 しらかば館に来て以来、動物の食事の世話はキリアンが担当することになっていた。

 裏庭で飼われている二匹の柴犬、ミゾレとコユキにも餌をやり、首輪から紐を外してやる。二匹はお互いの周りを駆け巡りながら野山に消えていった。日中は好き勝手に山を駆け回るが、夕食どきになると二匹とも必ず戻ってくる。

 仕事はまだ終わらない。

 しらかば館裏庭の主、白ヤギの「しぐれちゃん」にも野菜くずを与え、キリアンは裏口からしらかば館の中に入った。

 玄関の正面にある二段のウォールシェルフに、大小合わせて十数個の水槽が並べられていた。金魚、メダカ、タニシ、アカハライモリ、タガメ、モリアオガエル、カナヘビ、アメリカザリガニ。様々な水辺の生き物がそこで飼われている。どれもこの詰所に出入りする森林管理局の職員たちが森で捕獲してきたものだ。

 玄関のクッションの上で眠っていたライウが、ゆっくりと起き上がってあくびをした。キリアンは初め、その犬に近寄ることもできなかったが、今ではしらかば館の動物たちの中で一番のお気に入りだった。大きな頭を撫でてやると、ライウは目を閉じて耳を後ろに倒した。

 それぞれに合うエサを与え終わると、昼食までやることがない。健弥や仲のいい職員がいるときは釣りや雑談をして時間を潰していたが、今は新人職員の山岡と二人きりだった。


 キリアンは二階の自分の部屋に戻り、押入れから古びたナップサックを引き摺り出した。幼い頃から使っているお気に入りのものだ。健弥がくれたしらかば館周辺の地図をサイドポケットに突っ込み、朝食の残りで作ったおにぎりと、水筒をリュックの中に入れた。

「今日はどこに行くの?」

 真緒が聞いた。

「採石場の仏像のところ」

「ふーん。あたしはお留守番ね」

 キリアンは、部屋を出ていこうとした真緒の腹に手を回し、抱き上げた。

「真緒にも来てもらうよ」

「嫌だ! 一昨日もそこに行ったじゃない! もう飽きた!」

 真緒は甲高い声で叫ぶと、喉に砂利が詰まったような猫の声で抗議した。人間の言葉を話すときよりもけっこう低い声で鳴くんだな、とキリアンは思った。

「うるさいぞ真緒。山岡さんに聞かれたらどうするんだ。それに、僕が道に迷ったら誰が僕をここまで連れて帰ってくれるんだよ」

 そう言うと、真緒は膨らみかけた風船が萎むように大人しくなった。キリアンの腕からするりと抜け出て床に着地すると、逆三角形の黄色い目で彼を睨め上げる。

「林道には入っちゃだめだよ」

「大丈夫だって」

 

 磨崖仏まがいぶつがある採石場は、複数の山道の合流地点になっていた。町に繋がる登山道、旧国道、複雑に分岐する林道。

 旧国道はほぼ一本道で、一時間ほど歩くと小規模な集落の廃墟に出る。分かれ道がなく、舗装のアスファルトがまだ残っているので、引き返すのは簡単だ。林道は、入り口近くは平坦で真っ直ぐな道が続くが、山が深くなるにつれ、道は細く険しくなり、無数の枝道に分岐するようになる。一度入ると無事に戻ってくるのは難しい。

 キリアンは、地図に描かれた範囲なら好きに出歩いていいが、林道には絶対に入ってはいけない、と健弥に言いつけられていた。

 キリアンは林道の入り口にある岩場に足をかけた。胸の高さにある二段目の岩に両手を置き、腕で体を支えながら這い登る。積み重なった岩の山を慎重に登っていると、真緒がキリアンの足元をすり抜けて先へ進んでいった。

「ちょっと待ってよ」

 一歩進むと、足下にあった人の頭ほどの岩がバランスを崩し、小山を転がり落ちていった。振り向くと、もうかなりの高さまで登っている。

 

 崖の上に出ると、山の麓に伊奈巳町の小ぢんまりとした屋根の連なりが見えた。家々の間の広い道を蟻ほどの大きさの人々が行き交っている。

 町の中心を通る運河には小舟が浮かび、町の中心にある大きな建物の屋根が眩しく光っていた。

「あそこに行きたいなぁ。まだここにいなきゃだめなの?」

「『大人の事情』だって上月さんが言ってたじゃない」

「僕は日本語がわからないから知らないもの」

 キリアンは四つん這いで岩場を這い進み、崖下を覗いた。そうすると、崖に掘られた荒い手彫りの仏像を、上から見下ろす形になる。

「危ないからやめなさいよ。落ちたら大変よ」

 真緒が横から忠告した。気分が良いので従うことにした。

 キリアンはナップサックから弁当箱を取り出し、登山の途中に潰れて糊のように固まったおにぎりを、水で勢いよく流し込んだ。

「そういえば、今日、健弥が帰ってくるよ」

 真緒が崖下を見下ろしながら呟いた。

「嘘でしょ、何でもっと早く言ってくれないの?」

「楽しみにしてたの? 何日か前に、あの林道の奥に入っていったから、戻ってきたらここから見えるかもね」

「じゃあ、ここで待ってるよ」

 キリアンは、おにぎりの最後の一欠片を飲み込むと、ラップを丸めてズボンのポケットに押し込んだ。林道を通って戻ってくる健弥が見えたら、崖上から声をかけて脅かすつもりだった。

 ナップサックを枕の代わりにして、キリアンは崖上の草原の上で寝そべった。

 真緒が言うには、本州の日本海側にある伊奈巳町は、厳しい夏と冬の間に、短い間だけ快適な春と秋がやってくる目まぐるしい気候だ。今はその秋の最中で、快適な温度の風に乗って落葉や土の香りが運ばれてきた。

「寝るの?」

「うん。サニーのせいで毎日眠いんだ。昼になったら起こしてよ」

「わかった」

 キリアンが目を閉じると、真緒が彼のそばで体を丸める気配がした。手の甲に真緒の柔らかい毛皮を感じる。量産機によくある人工毛ではなく、培養皮膚に毛を植え付けて作った限りなく本物に近い毛皮だった。本人曰く、彼女はもう生産されることのない高級品らしい。キリアンは、真緒にとって四人目の主人だった。


 頬に何かくすぐったいものを感じて、キリアンは目を開けた。真緒の尻尾が彼の顔を撫でていた。

「う〜ん、何?」

 キリアンは半睡半醒のまま聞いた。

「健弥たちが帰ってきたんだけど、ちょっと様子がおかしいの」

 真緒が言った。

「声は出しちゃ駄目よ。上からそっと覗くのよ」

 キリアンは、真緒に言われた通り、崖上から顔の上半分だけを出して、下の林道を覗いた。枝葉に隠れてよく見えないが、十人近い人数が一列に並んでゆっくり林道を歩いている様子が目に映る。しばらくすると、先頭の人物が林道を抜け出て採石場の広場に現れた。健弥ではない。服装から見ても、伊奈巳町の住民とは考えにくかった。

「誰、あれ……」

「あたしが見てくるから、あなたはここで待ってなさい。いい? 絶対にあの人たちに見つかっちゃ駄目よ」

「わかった」

 真緒は崖上を引き返すと、ネコ科動物の敏捷さで岩場を駆け降りていった。

 真緒は数分足らずで戻ってきた。崖下の一行は林道を抜け、広場で休憩を取っている。

「大変よ、こっちに来て!」

 真緒は小声でキリアンを呼んだ。

「あれ、琉球軍だわ。どうしてここにいるのか知らないけど、着てる軍服は琉球陸軍のものよ」

「そんな!」

 キリアンは思わず大声を上げそうになり、手のひらで口を押さえた。頭のてっぺんから足の先まで震えが走った。

「じゃあ、僕がここにいることがバレたの? あの人たち、僕のことをつかまえに来たの?」

 キリアンは狼狽えながら言った。

「そうじゃないみたいよ。だから落ち着いて。あの中に怪我をしてる女の子がいて、その子をここまで運ぶために軍隊の人が協力してたみたいなの。旧日本領の調査隊が探検の範囲を広げた話を効いたことがあるけど、まさかこんな地域まで辿り着いてたなんて、知らなかったわ。とりあえず、あの人たちが去ったあとにしらかば館に戻りましょう」

 

 一時間ほど崖上で待ち、キリアンは来た道を戻って仏像前の広場に出た。一行が消えてから三十分は経過していた。

 しらかば館の裏口から、キリアンは中に入った。人の気配と何やら話し合いの声が聞こえてきたが、館内は居心地の悪さすら覚えるほど静かだった。声の元はしらかば館の玄関前らしい。

 歩く度に、古くなった床板が歯ぎしりのような音を立てた。

 薄暗い廊下の突き当りに、来館者や職員のための休憩スペースがあった。そこの三人掛けのソファに、健弥が寝ていた。着ている深緑色の作業服は泥や土埃のためにところどころ茶色く汚れており、破れて血が滲んでいる箇所もあった。襟元から肩にかけてどす黒い大きな染みがあった。

 異様だったのは、額から左の眉上にかけて刻まれた縫合済の切り傷と打撲痕だった。内出血のせいで傷の周りの皮膚は青黒くなっている。キリアンはその傷を見て総毛立った。

「痛そう……健弥、眠ってるのかな?」

「起こしてみたら?」

 真緒が言った。

 キリアンは、目を閉じたまま動かない健弥の肩を揺さぶってみた。よく見ると、顔全体や首のあたりに大小いくつもの傷跡が残っている。

 健弥はうっすらと目を開けた。頭を起こそうとして、うめき声を上げて傷を押さえた。

「水、持ってきてくれ」

 キリアンがグラス一杯の水を手渡すと、健弥は体を起こして飲み干した。

 脆い床板をどしどしと踏み鳴らしながら近付いてくる人物がいた。上月の親父さんだった。健弥と同じ服を着た灰髪の男は、憤怒もあらわに休憩スペースに踏み入ってきた。

「健弥! てめえ、誰がこんなところで休んでいいと……」

 親父さんは健弥の顔の傷を一目見ると、すぐに威勢を失い、ぽっかりと口を開けた。

「お前さん、ここ数年で一番酷い面だな……。まあいい。さっさと休憩終わらせて戻ってこいよ」

 上月は踵を返して立ち去ろうとしたが、一旦足を止めて振り返った。

「そういや、そこの坊主。俺の娘がここで足が治るまで療養するからな。実はうちの町じゃ外からきた人間を基本的に受け入れない方針を取っていてな、お前のことは上に報告してないんだ。だから、坊主。俺の娘がここにいる間、絶対に顔を見られちゃなんねえぞ。わかったな」

 上月はそれだけ告げると、来たときよりも控えめな足音で立ち去っていった。

 キリアンは困惑して、助けを乞うように健弥の顔を見た。健弥は目を合わせただけで、何の反応も示さなかった。空になったグラスをキリアンの手に押し付けると、「ありがとう。それ、洗っといてくれるか」と言い、玄関の方向に消えてしまった。

 真緒はキリアンの足に体を擦りつけながら、ぐるりと一周した。

「面倒臭いことになったわね。まあ、頑張りなさい」

「あのおっさん、無茶苦茶じゃないか」

 キリアンは小声で不満をぶちまけた。

「よかったじゃない。これから毎日退屈せずに済みそうね」

 真緒はそう言い放つと、猫独特の優雅な足取りで休憩スペースを出ると、空いていた小窓から外に飛び出してしまった。

 

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