15. 鯉沼デパート廃墟 羽山誠
均整のとれた歩調が、誠の体に心地よい振動を伝えていた。最後にこうやって誰かに背負われたのはいつのことだろう。微睡みながら考えた。母親は誠が生まれてすぐ死んだ。父親は家族に無関心な人間だった。姉は母親が死んだのは弟の出産が原因だと考え、誠のことを憎んでいる。
「誠くんだっけ、起きてる?」
誠を背負っているゴーグルの男に声をかけられて、誠は肩から顔を少し浮かせた。目を閉じていた間に、あたりはすっかり日没後の薄闇に覆われている。
「……起きてます」
誠は俯いたまま答えた。
「君達の先生がまだホテルにいるかもしれないって聞いたけど、どのあたりにいるのか分かるかな?」
「分からないです。宮脇先生は展望台に行ったきり見てないから……。すみません」
「いいよいいよ、気にしなくて」
前方では、簡易的な担架に乗せられて運ばれる希帆がいた。怪我をした右足首部分が変色して腫れ上がっていた。仰向けになって目を閉じているが、眉間に皺が寄り、脂汗をかいている。
遺跡盗賊との戦闘で頭を割られた健弥は、自分の足で立って歩いていた。額から首元にかけて血で汚れていたが、ほかは至って軽傷のようだ。
彼らに助けられて緊張が解けたからか、出発から溜まり続けていた疲労のためか、誠は強烈な眠気を必死に堪えていた。柔らかいマットレスの上で、できることなら二日くらいずっと眠りこけていたい。そんな気分だった。
誠はまだ十四歳だったが、命の危機を感じた出来事を二度経験していた。
一度は九歳の夏休みに高熱を出したとき。誠の父親は解熱剤と氷袋だけを置いて町役場に出掛けていた。父親の仕事は町議会議員。常に町のために粉骨砕身して働かなければならなかった。
暑さで脱水症状を起こし、ぐったりとした誠を助けたのは、家の近くの農場で働いていた十歳上の姉だった。
二度目は十二歳のとき。誠は掃除のために、学校の校舎から遠く離れた体育倉庫にいた。一緒にいた女子生徒がふざけて入り口の扉を閉め、それから開かなくなった。日の入り後に、教師が閉じ込められていた誠たちに気付くまで、泣き叫ぶ女子生徒を必死になだめていたことを覚えている。同年代の子供たちより少し心の成長が早かったからか、誠はそういう役回りを引き受けることが多かった。
荷の軽い二人組が、誠たちを追い抜かして歩いていた。すらりとした体つきの女性兵士が健弥と話していたが、距離が離れていたので会話の内容までは聞き取れなかった。健弥は、その女性兵士から布切れを受け取って、鬱陶しそうに額の血を拭いていた。
「
誠を背負っていた男が、健弥と話していた兵士に呼びかけた。彼女は振り向くと、挑発的な笑みを見せ、顎をしゃくって前を向いた。
男が軽く舌打ちした。
「イーランって、変わった名前ですね」
「あいつな、名前は外国風だけど、生まれも育ちも俺と変わらない、よくわからない奴なんだ。まあ、軍隊に入って旧日本領に来ようなんて奴は訳アリの変わり者ばっかなんだけどさ」
「みなさん、軍隊の人なんですか?」
「ん? そうだよ。隊長には黙ってろって言われてるけど、いずれ説明しなきゃいけないことだしね。ていうか、君、軍隊が何なのかわかるの?」
「そりゃ、歴史の授業とか図書館の本とかに出てきますから」
「ああ、そうだね。ゴメンゴメン」
話しているうちに、道路の果てに巨大な建造物の廃墟が浮かび上がってきた。あたりはすっかり暗くなっていたため、薄闇の中に突然それが出現したように思えた。外壁が長年の風雨にさらされてひび割れ、薄灰色に汚れている。誠たちがいたリバーサイドホテル鯉沼に比べると、高さも大きさも下回るが、伊奈巳町にある一番大きな建造物である図書館と同じくらいの大きさに見えた。
誠は、町外遠征の出発前に班の四人で行なったミーティングのことを思い出した。鯉沼市に入ってから目指すチェックポイントの候補の中に、このデパートがあったのだ。そこは、宿泊場所のリバーサイドホテルに近いという理由で遠征の行程に組み込まれる予定だった。が、希帆の「健弥がね、そこは何もないからつまらないって言ってたよ」という一言により、班のチェックポイントから外されていたのだ。
「あそこが、俺たちが拠点にしてる、というか勝手に住み着いてる鯉沼デパートだよ」
男が言った。
「あそこなら医療機器とか食べ物が揃ってるから、休みながら話を聞けるよ。よかったね。もう安心だ」
鯉沼デパート一階、化粧品売り場の廃墟に入ると、中にいた兵士たちの視線が一斉に誠たちの方を向いた。中は昼間のように明るく、兵士たちは肌艶のいい健康的な顔つきで、背丈も高かった。武器や装具で武装した者もいれば、普段着と変わらない者もいた。
誠はぎょっとしたが、次の瞬間には全員が各々の作業に戻っていた。みなが示し合わせたように誠たちに無関心を決め込んでいた。
元々あった通路を利用して、一階のフロアはパーテーションのようなもので幾つかのエリアに分かたれていた。通路の両脇には、箱や何かの機械が乱雑に積み上げられ、一部は誠の背丈よりも高くなっている。引っ越し直後の新居を思わせる光景だった。
「あの、ここで下ろしてくれませんか? もう歩けそうなので」
「そう? じゃあ、下ろすね」
誠はゆっくり男の背中から降りて、真っ直ぐ立ってみた。脚の震えがまだ残っているが、歩行に問題は無さそうだった。
男は近くの壁に触れて、指先で撫でるような仕草をした。誠には、その瞬間、壁の質感が変わったように見えた。硬質な素材でできていたはずの壁が、ただの白いカーテンに変わっていた。
「俺の名前、海璃っていうんだ。
「はい。よろしくお願いします」
男の後について、誠はカーテンの中に入った。中のベンチには、疲れ果てた様子の梨沙と拓馬が座っていた。二人は誠の姿を認めると、ぱっと表情を明るくした。二人とも全身土まみれで、拓馬に至ってはパーカーの背中にびっしりとひっつき虫が付いていた。誠は安心から含み笑いを漏らした。
友達の無事な顔を見られた喜びで、誠は顔をほころばせた。つい涙が盛り上がり、顔を伏せた。
「誠くん! 無事だったんだね」
拓馬が嬉しそうに叫んだ。
「あれ? 希帆はどうしたの?」
梨沙が聞いた。
「足の怪我が酷くなったから、いま治療を受けてると思う。まあ、とりあえず無事だよ」
「よかった……」
梨沙が涙ぐんだ。
拓馬は「これ、食べなよ。さっき分けてもらったんだ」と誠にチョコレートバーと水のボトルを手渡した。
「二人とも、頭も服も草だらけだけど、どうやって助かったの?」
誠はチョコレートバーの包装を剥きながら聞いた。
「ホテルのプール側にある出口から外に出て、道路を真っ直ぐ走ってたんだ。どこに行けばいいのか分からなかったから、ひたすらホテルから離れてた。そしたら、ここの人たちに見つかったんだけど、はじめは遺跡盗賊の仲間だと思って逃げちゃったんだよね」
「よく見たら、全然違う服装なのにね」
梨沙が言った。
「まあ、僕ら二人とも大パニックだったから。で、河川敷の草むらの中で伏せて隠れてたんだけど、あっさり見つかっちゃった。外からは見えないはずなのに、さっきのゴーグルの人が真っ直ぐ突っ込んでくるから滅茶苦茶怖かったよ」
拓馬は話しながら、肩口や袖についた草の実を一つずつ摘んで剥がし始めた。誠はチョコレートバーを齧りながら、空いた手でひっつき虫を一つ一つ剥がしていった。
三人の間に、久方ぶりに穏やかな時間が流れていた。誠と希帆以外はそれぞれ町の別の地区に住んでおり、出発前までは顔見知り程度の仲でしかなかった。それが今では物心ついた頃からの友人のような安心感と親しみを覚える。
「大塚さん、頭に蜘蛛がついてるよ」
「え? どこ? わたし触りたくないから取って!」
誠は、梨沙の前髪に付いていた小グモを指で弾き飛ばした。
「ありがとう」
「いいよ。あのさ、このチョコレート、他にもある? 希帆に渡したいんだけど」
「いっぱいあるよ。水も持って行きなよ」
誠は拓馬からチョコレートバーの余りと水のボトルを受け取った。梨沙が「これも渡してあげて」と飴を握らせた。
「ポケットに入ってたの。溶けてるかもしれないけど」
「あいつ、甘いもの好きだから喜ぶと思うよ。ありがとう」
誠はカーテンをくぐり、広間をうろついた。芸術的なメイクを施した女優の巨大な顔写真がある柱のそばに、海璃がいた。誠は「あの、すみません」と声をかけたが、海璃は気付かずに奥の壁の中に入っていく。
誠は海璃を追って、柱のそばのカーテンをくぐった。中はただの通路だ。
奥の水色のカーテンで区切られたエリアに入った。フロアの角にあたるスペースだ。そこは他のエリアよりも清潔に整えられており、地面に小石一つ落ちていない。まわりは複雑そうな機械と大量の箱で埋め尽くされていた。
部屋の一番奥のベッドに希帆が寝かされ、側のベンチに健弥が腰掛けていた。海璃はいない。
「どうしたの?」
希帆を診察していた医師の男が顔を上げた。
「食べ物をもらったから、希帆に渡そうと思って」
「まだ食べられないから、そこに置いといて」
医師は素っ気無く言うと、また治療に戻った。
誠はお菓子と水を足元の箱の上に置くと、空いていた折りたたみ式スツールに座った。
「あの、森郷さんは、大丈夫ですか?」
「平気だ。これくらいの怪我なら何度もして
る」
健弥はそう言って傷口の部分に触れ、顔をしかめた。
「今は鎮痛剤が効いていますからね」
医者が少々の皮肉っぽさを込めて言う。
「明日にはまた出発するつもりだとおっしゃってましたよね。我々はまだ二週間ほどここに滞在する予定ですから、あなた達も怪我が落ち着くまで残ればいいのに。ここには必要な薬や機材が揃ってますから」
「子供だけでも町に帰らせないとまずいんだよ」
健弥がぶっきらぼうに呟いた。
「あなた方にも事情があるのでしょうが、医師の立場からは、今すぐ町を目指すのはお勧めできませんね。第一、この子はどうするんです。我々が持ってる機材があれば歩くことはできますが、山を登るのは苦行でしょう」
「俺が背負って歩けばいい」
「お勧めできませんね。また事故でも起こったらどうするんですか? 私の仕事が増えるのは別に構いませんが、これ以上面倒事を起こさないでいただきたい」
この医師は相当な皮肉屋らしい。悪意は無いが他人と衝突を起こしやすいタイプだ。口下手で無愛想な健弥とは相性が悪いだろう。誠は思った。
「あの、希帆の足は、今どうなってるんですか?」
誠は質問した。
「捻挫した上に骨にヒビが入っている。階段で転んだ時点で安静にしていれば、ここまで酷い状態にはならなかっただろうけど、それは無理な話だったから仕方がないね。全治三週間というところだが、ここに滞在すれば一週間で帰れるようになる。今、鎮痛剤を投与したから、痛みは軽くなっているだろうけど、しばらくは歩かないほうがいい」
誠は簡易ベッドに近寄って、希帆の顔を覗き込んだ。普段、ほのかに赤みが差しているはずの頬がすっかり蒼白になっていた。額に大粒の脂汗が浮かんでいる。膝や腕にある細かい傷には、丁寧に処置が施されていた。
「これからどうやって帰るんですか?」
誠は健弥に質問した。
「いまからここの隊長に会って、今後のことを話し合う。俺は宮脇先生が見つかり次第、希帆以外の三人だけ先に帰ればいいと思うが」
「それがいいでしょうね」
医師が頷いた。
カーテンが開き、見計らっていたかのように海璃とイーランという名の兵士が現れた。ふたりとも武装を解き、シンプルなTシャツとジーンズ姿だった。
イーランは部屋にいる全員の顔を見回した。
「斎藤先生、もう治療は終わったの?」
「ええ、終わりました。どうかしましたか?」
「それなら丁度いい。隊長がお呼びだよ、森郷さん。今から来れる?」
「ああ、今行く」
健弥はゆっくり立ち上がり、イーランと並んでその場を去った。
「誠君も来るかい?」
海璃が聞いた。
「僕は……ここにいます」
「そう。じゃあ、ゆっくり休んでね。そんなに時間はかからないから」
誠は健弥が座っていた椅子の上で膝を抱え、体を折りたたんだ。座面が広いおかげで、その姿勢のまま肘置きを枕のように使って横たわることができた。今すぐ寮の部屋のベッドの上に飛んで行けない以上、その仮設の椅子が誠の最上のベッドだった。
目を閉じると、何か衣擦れのような音がして、斎藤医師が誠の体の上に毛布をかけてくれた。一日で十日が過ぎたようだった。
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