13. 鯉沼市廃墟 劉伊然

伊然イーランちゃん! 伊然ちゃん! 早く来て!」

 下の階から、劉伊然リウ・イーランを呼ぶ甲高い声が聞こえた。やけに近くから発せられているように響くのは、床に空いた大穴のせいだった。

 デパート廃墟の二階。崩れ落ちた床の縁で屈むと、上を向いて手を振る女性の姿が見えた。人懐っこい笑顔がよく似合う溌剌とした人物だ。武装したイーランとは違い、登山服姿で大きなカメラを抱えている。

「どうしたの? ハヌル」

「もうは終わったでしょ? 写真を撮りに行きたいの。ついてきてくれない?」

「わかった。ちょっと下がって」

 イーランは穴の下に飛び降りた。ブーツの底がうまく衝撃を吸収するおかげで、ほとんど音もなく着地できた。

 ハヌルはイーランたち琉球軍の旧日本領調査隊に同行した民間人の一人で、職業は写真家だった。好奇心が強く恐れを知らない性格で、廃墟の建物の中にも、怖気付くことなく足を踏み入れていく。同性で年齢の近いイーランとは、よく行動をともにしていた。

「どこまで行きたいの? 日没一時間前ルールだから、あんまり遠いところには行けないよ」

「川の向こう側に小学校があるでしょ? そこに行ってみたいの。あの橋は渡れる?」

「この前来たときに二十人で渡ったけど、平気だったよ。不安なら船を出せばいい」

「歩いていくわ。せっかく旧日本領に来れたんだから」

「廃墟が怖くないんだね。三階にいるお役人なんて、ハムスターみたいに縮こまってたのに」

「あの人たちは都会育ちだから仕方ないわよ。私は国境の町にいたから廃墟は慣れてるの」

 崩れかけた建物の間を歩いていると、正面に野良猫が現れた。ハヌルはすかさずカメラを構え、シャッターを切る。片眼の無いやせ細った猫は、空き家に消えていった。


「この間、調査同行の交渉のために那覇市の陸軍支部に入ったの。そのとき、廊下でものすごくかっこいい軍人さんとすれ違ったんだけど、その人が誰かわかる?」

「さあ。どんな外見だった?」

「かなり背が高かったわ。手足が長くてモデルみたいだった。そうね……髪の色は、金と茶色の中間の派手な色だったわね」

 イーランには一人、思い当たる人物がいた。軍隊に入る前と入隊後に二度会っただけの薄い繋がりだが、彼の情報は軍隊にいれば嫌でも入ってくる。

「たぶん、高原航さんだと思う。確かに美形だけど、あの人には近寄らないほうがいい。筋金入りのろくでなしだから」

「どうして? イーランちゃん、あの人のこと知ってるの?」

 ハヌルは不思議そうに首を傾げた。

 この数日でわかったことだが、彼女は人を疑うことを知らない純粋な気質の持ち主だった。写真を撮るために世界中を渡り歩いているそうだが、こんな調子で大丈夫なのだろうか、とイーランは心配になった。



「あの人、軍隊でもちょっと珍しい仕事してるんだ。やってることは諜報活動に近い。でも、高原さんには任務外で人を殺してるって黒い噂が耐えないんだ。本人もかなりぶっ飛んだ性格の持ち主だから、さもありなんというわけ」

「そうなの? でも噂は噂でしょう? 本当に人を殺してるかどうか、確かじゃないのに」

「ああ、それは訳があってね……」

 イーランは続きを言い淀んだ。軍隊内だけで共有される秘密をハヌルに話すことを思い留まったからだけではない。

 内耳に埋め込んだインプラントから仲間の声が飛び込んできた。同期の東海璃あずまかいりからの連絡だった。

『リウ。今どこにいる?』

『どうしたの? 海璃』

『橋の近くに大林邸っていう屋敷があるんだが、データプレート回収のために行かせた〈犬〉の調子が狂ったんだ。分解して本部に持って帰るから手伝ってくれ。一人じゃ重すぎて運べない』

『どうしてアシストスーツを巻いて行かなかったんだよ』

『面倒くさかったんだよ。悪かった。そこは謝るからさ、な? 助けてくれよ。俺、この間腰を痛めたばかりなんだ』

『もう治ってるだろ。このアホめ。ハヌルの用事が終わるまでそこで待ってろ』

『最低だなお前。帰ってもラーメンおごってやんねぇよ』

 イーランは通信を切り上げて、ハヌルに向き直った。

「悪いけど、用事ができちゃったからあまり時間は取れない。三十分くらいで終われる?」

「いいわよ。どうかしたの?」

「東調査員――あのゴーグル着けた奴がやらかしたんだ。助けに行ってやらないと」

「じゃあ行ってあげてよ、イーランちゃん。私のことはいいから」

「駄目だ。ハヌルは写真を取るのが仕事でしょ? それに、民間人は一人で行動しちゃいけない約束だから」


 ハヌルは海璃のことを心配したせいで、満足に撮影ができなかった。

「ごめんね。余計な仕事増やしちゃって」

「いいよ。また撮影したくなったら言って」

 橋を戻って、まばゆい白亜の豪邸だったであろう家屋に入った。玄関に、バラバラにされたロボットの手脚と胴が並べて置いてある。その横で、顔の上半分を遮光ゴーグルで隠した男がかがみ込んでいた。

「遅いんだよ、イーラン」

 海璃は顔を上げて不機嫌そうに口を尖らせた。常に顔の上半分を隠して生活しているので、口元だけで感情表現をする癖が身に染み付いている。

「あんた、まさか寝てたんじゃないだろうね」

「寝てない」

「絶対寝てただろ。あーあ、隊長に言っちゃお」

「全部見られてるんだから、本当に寝たらとっくにバレてるよ……」

 二人の会話にハヌルが割って入った。

「あの……これを持って帰ればいいのよね?」

「そうそう。さ、早く帰りましょ」

「私も一本運ばせて」

「いいよ」


 ロボット犬の四肢と胴体をそれぞれ抱えて、三人は豪邸を出た。

 〈犬〉の体は、愛玩用のロボット犬と違い硬質な装甲が剥き出しになっているので、生物らしさをあまり感じさせない外見になっている。それでも、バラバラになった体のパーツにハヌルは抵抗を覚えているようだった。

「その東さんのゴーグルって、何のために着けてるんですか?」

 ハヌルが訊いた。

「俺、目が光にすごく弱くて。これ着けてないと外に出られないんですよ」

「手術はしないの?」

「子供の頃からいろいろ試しましたが、治らないんですよ。どうやら、ただの病気じゃないらしいです。今の医学でも解釈できないとてもレアな事象、だなんて言われちゃいましたよ。まあ、他に困ることは無いので平気です」

「ごめんなさい。過ぎたことを訊いちゃって」

「いえ、ぜんぜん大丈夫ですよ」

 しばらく歩き続けていると、海璃が川の方を見て「あっ!」と叫んだ。

「どうかした?」

 イーランが訊いた。

「見ろよ、あの橋の下。船があるぞ」

 海璃は橋台を指さした。河川敷の伸び放題の草むらに隠れているが、船体の白い屋根らしきものが見えている。

「船? あなた達の仲間の船じゃなくて?」

「絶対違います。僕らはあんなコソコソ隠れるような留め方しませんから」

 この無人の廃墟で、一体だれの目から身を隠そうというのだろう。船の正体で、思い当たるものは一つしかなかった。

 琉球陸軍の調査隊は、もともとこの近くにあるホテルの廃墟で夜を明かすつもりだった。が、日の出直後に鯉沼市に入った先頭グループの判断で、野営場所がデパートに変わっていたのだ。

 いま、かなり悪い事態が起こっている。イーランは直感した。もしホテルで双方が鉢合わせしていたら……。

「東、船の中に人はいる?」

「いないな」

「わかった。行ってみよう」

 二人のやり取りを聞いて怪訝そうに眉根を寄せるハヌルをよそに、二人は草をかき分けて船に押し入った。中はほとんど空だったが、船にはたっぷりの燃料と、何日も船上で暮らせるほどの食料品と設備が備えられていた。

「とにかく……早く誰かを呼んで捜索してもらおう。これは不法上陸だ」

「そうだね。ロボットは後だ」

 二人が船を出ようとしたそのとき、外からハヌルの大声が届いた。

「イーランちゃん! 東さん! 大変! 子供がいる!」

 驚いて斜面を駆け上がったイーランが見たのは、道路を走り去っていく二人の子供の姿だった。焦げ茶色のボブカットの女の子と、丸い体型で緑色のシャツを着た男の子。どうみても調査隊や遺跡盗賊の人間ではなかった。

 イーランはヘルメットとボディスーツの上着をかなぐり捨てると、二人の子供のあとを追った。

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