12. リバーサイドホテル鯉沼 上月希帆 

 希帆は恐怖に駆られて、下へ続く階段を駆け下りた。ちょうど踊り場に差し掛かったとき、踵を滑らせ、前のめりに倒れてしまう。とっさに顔を腕でかばったが、額をしたたかに床に打ちつけた。頭が跳ね、天地がわからなくなった。

「希帆!」

「希帆ちゃん!」

 誠が希帆の肩に手を添える。

 希帆は腕で体を支えて半身を起こすと、激痛に顔を歪めた。額は熱を持ち、鈍い痛みが脈打っている。手で触れると、指の先に血が付いた。

「痛い……」

「立てる?」

 立ち上がろうとすると、足首にも強い痛みが走った。転んだときに、捻ってしまったようだ。

「拓真と大塚は先に行って! 僕と希帆は下のフロアに隠れる。二手に分かれたほうがいい」

「でも……」

 ためらう拓真の腕を梨沙が掴んで、引っ張っていく。

「行くよ。私たちも隠れ場所を探して、大人たちを呼ばないと」

 二人が去っていくと、誠は希帆の肩を支え、ゆっくりと立たせた。

「歩ける? 頑張って下まで降りよう」


 展望台の一階下は、レストランだった。やはりテーブルや椅子といった備品は撤去されているが、華やかな装飾や天井画はそのままに残されていた。

 二人はレストランの奥へ進み、厨房に入った。中は奥に行くにつれてだんだん暗くなり、通路には蜘蛛の巣が綿菓子のように張り巡らされている。生理的な嫌悪感を何とかこらえて、希帆は奥へ奥へ進んでいった。一歩進む毎に、顔や足首に見えない糸がまとわりついてくる。息を吸い込めば、埃と黴の臭いが体内に染みついてしまうような錯覚に陥った。進むことを躊躇うような場所にあえて入ることで、できるだけ時間を稼ごうという誠の考えを、希帆はすぐに察した。

 厨房を抜けたその奥、細長い廊下の突き当たりにある部屋に入った。両脇に灰色のロッカーがずらりと並び、中央に低いベンチが置かれた部屋だった。

 希帆はベンチに腰を下ろし、額の血を服の裾で拭き取った。

「まだ痛い?」

「顔はまだ平気。でも足が……。ゆっくりなら歩けるけど、走るのは無理」

「そうか。大変なことになったな……。ちょっと休んでから、階段を下りて、隠れる場所を探すかホテルを出よう。僕も疲れた」

 誠は希帆の隣に座り、ふう、と息を吐いた。希帆のために努力して平静を装っているが、膝の上で握り込んだ手は、かすかに震えている。

「本当に、大変なことになっちゃったね」

「うん」

「みんな、どうしてるのかな。ちゃんと逃げられたと思う?」

「梨沙と拓真はうまく隠れる場所を見つけたんじゃないかな。もう逃げ切ったかも。健弥は自分で何とかできるよ。宮脇先生は……どうしてるんだろう」

「ここは十階建てだし、遺跡盗賊が中に入ってきたとしても、まだ外に出るだけの余裕がある。希帆だってすぐには動けないでしょ?」

 こういうときだけ、誠は優しくなる。いつもは周りにいる友達を馬鹿にして、からかうのを生き甲斐にするような奴なのに。小さい頃からそうだった。

 しばらくすると、誠が沈黙を破った。

「あのさ、さっき展望台で話した閉架書庫のこと……覚えてる?」

「覚えてる。あれ見つけたの誠だったよね」

「総合の授業でさ、町で行われてる災害対策を調べてきなさい、って課題が出たことがあったろ? 僕は図書館に行ったんだ。本棚を倒れないようにする工夫や火災対策についてまとめようと思って。馬鹿みたいに周りを睨みつけてたら、あの仕掛けに気付いたんだよ」


 小学三年生だった希帆は、秘密の通路を見つけたと浮き足立つ誠に連れられて、図書館に行った。人の寄り付かない、歴史書閲覧室という部屋の本棚の一つが、動かせるようになっていたのだ。

 二人で本棚を押して、現れた隠し扉を開けようとした希帆を、誠は止めた。

「結局、誠のほうが怖がって、扉が開いたのに中には入らなかったじゃない」

 ふと懐かしい記憶が蘇り、希帆は思わず微笑む。痛みのせいか、涙がこぼれた。

「だってまさか、あんな簡単に開くなんて思わなかったから。……これはまだ誰にも話してないんだけどさ、あのあと、僕ひとりでもう一度本棚を動かしてみたんだ」

 無意識のうちに普段と同じ声量で話していたことに気付き、二人は肩を寄せ合った。こうすれば、囁くような声でも十分相手に届く。

「それで、中に入ったの?」

「いや。鍵が取り替えられてて、入れなかった」

 希帆は驚いた。眉を動かすと、額の傷にひりつくような強い痛みが走った。

「それって、私たちが扉を見つけたのバレちゃってたってこと?」

「最初は僕もそう思ってさ、希帆を怖がらせないように黙ってたんだ。でも、後でよく考えたら、あの扉、最初から鍵をこじ開けたような傷があったような気がするんだよね。覚えてない? それを見つけた図書館の人が、僕がもう一度本棚を動かす前に、鍵を新しくしたのかもしれない。そこまでして入ろうとする理由が謎だけど……」

「他にもあの扉を見つけて、入ろうとした人がいるかもしれないんだね」

「そう。それもかなり強い意志を持って。僕らが子供だから知らないだけで、きっといろいろあるんだよ。……よし、休憩終わり。森郷さんを探すか、隠れるか、どうする?」

 誠は立ち上がって、服に付いた汚れを払った。

 希帆も試しに、部屋の中を慎重に歩き回ってみる。足首を動かす度に激しい痛みに襲われるが、動けないほどではない。

「外を見に行かない? 遺跡盗賊がホテルの中に入ってきたのか、まだ外にいるのか、わからないでしょ? 健弥を探しながら動こう」

「了解」

 二人は連れ立って部屋の外に出た。誠は希帆の腕を強く握り、歩く介助をしようとする。

「大丈夫。一人でも歩けるから」

「本当に? 痛いんじゃなかったのかよ」

「大丈夫だってば」

 二人は慎重に歩を進めた。曲がり角がある毎に、耳をすませて、見えない向こう側の様子を探っていく。そのたびに希帆の心臓は早鐘を打っていた。ときどき部屋の扉がある以外は一本道の廊下だから、ここで遺跡盗賊と遭遇してしまうと逃げ場がない。

 仄暗い廊下の奥が、非常階段に繋がっていた。誠の肩に支えられながら歩くと、もう片方の肩が壁に擦れる。

「森郷さんがいた部屋って、どこ?」

「五階だったと思う」

「じゃあ、そこまで頑張ろう」

 普通に歩くよりもずっと長い時間をかけて、二人は五階に辿り着いた。廊下はぐるりと一周できるようになっており、外側に客室が並んでいる。最上階の採光窓から取り入れられる日光が、廃墟のホテルを照らし出していた。

「ちょっと明るくなったね」

 些細な環境の変化に、希帆の千切れそうなほど細く張り詰めていた神経がやわらいだ。誠の腕に軽く手を当てながら、できるだけ右足首に負担をかけないようにゆっくり歩いた。

「あのさ。今しか言えそうにないから言うけど、僕、帰ったら希帆に言わなきゃいけないことがある」

「何?」

「それも後で言う」

 誠はそっけなく言った。

 誠が何をするつもりなのか、希帆は考えた。この話しぶりと二人の年齢からすれば答えは自ずと絞られるが、幼い頃から希帆のことを叩いたりからかったりしておもちゃにしていた男が、今さら好きなぞ言うはずがない。足の痛みに精神を削られる希帆のために、遠回しな励ましを送っているつもりかもしれない。

 どちらにせよ、悪い気はしなかった。

 妙な気配を感じて、希帆は首を後ろに巡らせた。たった今、自分たちが通ってきた非常階段のある場所から、何かが近づいてくる。柔らかいカーペットを裸足で踏むような、静かなステップだった。

 誠も異常に気付いて振り返った。

 機械でできた四脚の動物のようなものが、そこにいた。首はなく、胴体の上に直接頭が乗っている。前方についた複数の目は、蜘蛛の頭を連想させた。

 

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