10. リバーサイドホテル鯉沼 上月希帆

 リバーサイドホテル鯉沼。この場所が「使える」ことに初めて気付いたのは、希帆の父親だったらしい。過去には近隣住民の避難所として機能したという記録が残されている。 

 この鯉沼の街に住んでいた人に、伊奈巳町に引っ越した人はいるのだろうか。希帆は考えた。伊奈巳町は日本中から集まった避難民の組織から生まれた。だから、誰かの先祖がこのホテルで街の最期を見届けていたとしても、おかしくはない。

「そういえばさ、希帆」

 荷物を解きながら、梨沙が言った。電気の通らないツインルームは薄暗く、家具がほとんど取り払われていた。

 希帆は圧縮した寝袋を広げ、部屋の隅に放り投げた。床の汚れ具合は、荷物を置くのには抵抗は無いが、直に寝転ぶのは躊躇する程度のものだった。

「私たちって、なんでこんなことしてんの」

「町じゃ洪水とか地震の訓練やってるでしょ? 町外遠征は、そのさらに先を見越した訓練なんだって。もし、町に住めない場所ができたり、復旧が望めないような状況になったときのために、少人数ですぐに遠くに移動できるように。どれだけの荷物をどのくらいのペースで運べるかとか、都市廃墟で何日までなら生活できるかとか、そういうことも調べてるの」


梨沙は「へえ、詳しいね」と言って、作業を続けた。子供用の小さいレジャーシートの上に懐中電灯とヘルメットを置き、いつでもホテルから脱出できるようにしておく。

 彼女は希帆の隣のクラスの委員長で、しっかりした性格だ。この町外遠征に参加するまで、希帆とは接点がなかった。

 梨沙は腿を叩き、ふう、と息を吐いた。

「いっぱい歩いたから、疲れたね」

「あの廃墟さ、ちょっと怖くなかった?」

「今にも崩れてきそうなくらい、ボロボロだったもんね。幽霊もいそう」

「ここはあんまり揺れなかったから、死者は少ないんだって。打ち合わせしたときに健弥が言ってた」

「それ、私が行かなかったやつだ。うちのメンバーはもともと、拓真と畠山はたやまとアンナだったんだけど、二人がいきなり行きたくないって言い出して。説得したんだけど、ぜんぜん聞いてくれなくてね。今年行かなくたって、高校卒業までには参加しなきゃならないんだから、いつ行っても同じなのに」

「そういうこと、よくあるんだって。当日に嫌になったり、途中で引き返したりするよりはマシだよ」

 梨沙は立ち上がって、ベランダに続く大きな窓を開けた。木の板を打ち付けて塞いであるので、外には出られないようになっている。

「うわ。このベランダ、崩れかけてる。窓がちゃんと閉まらないから、ちょっと隙間風あるけど、寝られないことは無いよね?」

「そうだね」

 希帆は返事した。

「ねえ、そろそろ下に行かない? 四人で探検することになってたじゃん」

「うん。もう出よか」

 二人は部屋を出た。

 長い廊下は、カーペットが剥がれ、灰色がかったリノリウム床材が露出していた。行く先には、巨大な蜘蛛が脚を縮こまらせて死んでいる。それを見ないようにしながら、希帆は歩いた。吹き抜けの廊下からは、一階のホールの空っぽの水槽が見える。色とりどりの魚を飼った水槽の上にガラス張りの通路を作って、宿泊客を楽しませていたらしい。

 エレベーターホールの壁には、縦二メートル近い大きな絵が、ガラスのケースに入れられて飾られていた。赤と白の花を主役に、雪景色を描いた日本画だ。

「何の花かな」

「椿じゃない? このホテル、西洋風なのに変だね。似合わない」

 希帆は首を傾げた。

「それに、ずっと放置されてたわりには綺麗じゃない?」

 曲がり角から、健弥が現れた。そのまま素通りしたかけた健弥を、希帆は呼び止めた。

「ねえ健弥。この絵って、何?」

 健弥は絵を覗き込むと、記憶を探って眉ををひそめる。動作の一つ一つに、気だるげで不機嫌そうな感じがしたが、本人はいたって平静だ。

「ああ、これ、近くの美術館の倉庫にあったんだ。本当は町まで持って帰りたかったけど、この大きさじゃ運べないから、ここに飾ってる」

「動かしてもよかったんですか?」

 梨沙が訊いた。

「遺跡盗賊に盗られるよりは、ずっといい。その美術館も、地下の倉庫以外荒らされて、展示物をほとんど持っていかれてたんだ」

「そんなことが、本当にあるんですね」

「ああ」

「わざわざこんな廃墟に来て、物を持っていって、その人たちは何をするの?」

 希帆は質問した。

「売るんだよ。とうに滅びた国の文化に関わる遺産は、欲しがる奴が多いそうだ。食器の一欠片や、古い着物の切れ端だって売り物になる」

「ずっと放置されて朽ち果てていくくらいなら、欲しがってる誰かの手に渡したほうがよくないですか?」

 梨沙が言った。

「そうだな。それも納得できる意見だと思う」

 健弥は返した。

「滅びてしまった以上、過去を暴かれて消費されることは、ある程度は仕方ない。けど、ここで死んだ人は、そっとしておいてほしいだろうな」

 梨沙は、よくわからないと言いたげに口を軽く尖らせた。

「ここにあるものは、ここで死んだ人の持ち物だもんね。勝手に持っていくのは駄目だけど、私ならあげちゃうかも。大事に使ってね、って」

「そうだ。階段って、どこ?」 

 希帆が訊いた。

「さっき俺が来たところをずっと進んだらある。ここの中を探検するのはいいが、敷地の外には出るなよ」

 非常用の狭い階段からロビーに出た。

 太い柱を囲むように配置されたソファに座り、誠と拓真が待っていた。二人は宮脇先生と話し込み、暇を潰していた。

「あ、来た!」

 誠が、希帆と梨沙を指差した。

「遅いぞ」

「荷物ほどくのに、時間がかかったの」

 梨沙が言った。

「探検ですか? 気をつけてね。危険な場所には近寄らないように」

 宮脇先生が、丁寧な口調で注意した。

「先生は行かないの?」

 誠が訊いた。宮脇先生はゆっくりと首を横に振り、苦笑する。

「私は疲れたのでもう部屋に戻ります。明日の朝までずっと自由時間だから、楽しんでらっしゃい」

 まず四人が向かったのは、ホテルの最上階にある展望台だった。四面を囲うガラス越しに廃墟が見える。巨大なビルや高架道路の奥に、薄く山影が広がっていた。

「なんか、馬鹿でかい墓石が並んでるみたい」

 誠が呟いた。

「誰か、カメラ持ってない?」

「写真撮っちゃ駄目って言われてたでしょ。スケッチでさえ禁止なんだから」

 希帆は言った。

「知ってる。でも僕、カメラ持ってきたのに部屋に忘れちゃったんだよ」

「なにそれ、だめじゃん。先生に言おうか」

「あっそう。じゃあ希帆が昔、閉架書庫に入ろうとしたこともチクるからな」

「だからそれは鍵が壊れてたんだって」

 希帆は後ろでゼエゼエという息苦しそうな声を聞いて、振り返った。

「疲れた……。みんな、歩くの速すぎだよ」

 拓真は息を切らせて、かがみ込んだ。

「もうちょっと痩せろよ。メロンパンみたいな体しやがって」

「うるさいな。そういう誠は骨と皮だけじゃないか」

「喧嘩しないの」

 梨沙が二人をなだめた。

 希帆は手すりに体重を預け、ガラス窓に額を貼り付けるようにして、外を眺めた。かつてこの都市に何十万の人の人生を根付かせ、生活を送っていた日のことを、想像力を働かせて思い浮かべようとした。

 父や健弥の影響で、希帆は日本の歴史に興味を持っていた。この国は、どうやって滅びたのだろう。大きな地震があったことは知っている。そしてたくさんの死者が出た。

 でも、ここじゃ何度も大きな震災が起こり、その度に人は立ち上がって、平らになった街を元通りにしてきたんじゃないの? 学校で教えられる知識ではあまりに不充分なことに、希帆は気付いていた。

 まっすぐに伸びた車道の奥、歩道橋の上で、豆粒のような動点が見える。希帆は眉をひそめて、その正体を見定めようとした。しかし、ガラスの汚れのせいで、よく見えない。

 動点は二つに増えた。片方が振り向き、こちらを指差すような動作を見せる。

 希帆の心臓が、大きく跳ねた。

「人がいる」

 希帆のかすれた声を聞いて、三人はいっせいに話をやめた。緊張した面持ちで、誠が窓の外を睨みつける。

「本当だ。まだ遠いけど……」

「どこ? どこにいるの?」

「歩道橋の上。あ、下にもいるぞ。三人だ」

「森郷さんを呼んだほうがいいんじゃないかな」

 拓真が怯えた声で言った。

「あれ、きっと遺跡盗賊だよ」

「遺跡盗賊って、海から来るんじゃなかったのか? ここは内陸の都市なのに」

「川を遡上してきたのかもしれない」

「とにかく、健弥を呼びに行こうよ。ずっと部屋にいるって言ってたから」

「先生も」

「あ!」

 ずっと窓の外を見ていた誠が、大声で叫んだ。希帆と梨沙の頭を押さえて、窓のそばにいた拓真を奥に突き飛ばした。

「お前ら、しゃがめ!」

 四人は誠の指示通り、床に伏せた。

 次の瞬間、窓に蜘蛛の巣状のヒビが入った。少し遅れて、紙袋を破裂させたような破裂音が、希帆の耳に届いた。

「何? 何なの?」

「逃げるんだ。奴らに見つかった!」

 誠は三人の背中を押して、階段の方に走らせた。希帆が走り出したそのとき、ガラス窓は砕け、無数の欠片が弾け飛んだ。

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