8. 東京城砦 ハヤト・クニカワ 

 強化アクリル板の向こう側に現れた男を見て、陸澤演ユク・テギョンは彼に抱いていたイメージを修整しなければならなかった。

 ハヤト・クニカワはヨーロッパ系の混血の男性で、鮮やかな赤い髪がとても印象的だった。背は高いほうだが、ひどく痩せている。砂埃の積もった歳月を感じさせる雰囲気は、どこか老人のような印象がある。実年齢は四十代半ばといったところか。狂信的なテロリストというより、神経質なインテリのように見えた。

 それにしても、何か妙な感じがする。

円山朋樹まるやまともきです」

 テギョンはわざと偽名を名乗った。ここではどんな手段を使おうが、電子プロフィールが相手に伝わることはない。しかし、面会に来た動機が正当なものでない以上、身分を明かすことには抵抗があった。

「ハヤト・クニカワです」

 ハヤトは意外にもしっかりとした声で名乗った。落ち着き払った態度は、彼の高い知的水準を伺わせる。

 ハヤト・クニカワはアイルランド出身で、紅炎プロミネンスの活動家だった父親の国川徹くにかわとおるとともに、琉球国に渡った過去がある。

「私は紅炎プロミネンスに入ったまま行方不明の弟を探しています。ほんの僅かな手がかりでも得られたらと、あなたに会いに来ました」

 テギョンは、左手に握ったメモを、掌の中で開いた。今ならまだ引き返せる、と考えながら。

「弟の名前は円山遥樹はるき。年齢は二十二歳。東京城砦第二大学の学生でした」

 円山遙樹は、テギョンの元友人だった。大学で紅炎プロミネンスの思想に触れ、海外でテロ活動に参加するようになり、当局に殺された青年だ。彼には家族がいなかった。

 テギョンは質問と同時に、メモの文面をハヤトに見せた。

 ハヤトは目だけを動かして、文章を読んだ。

劉浩然リウ・ハオランという人物を知っていますか?〉

 メモにはこう書かれていた。

 ハヤトはできるだけ平静を装っていたが、明らかに動揺し始めていた。よく観察しないと見えないような細かい動作で、何度も首を横に振る。

 初めて会ったときからハヤトに感じていた違和感の正体に、テギョンは気が付いた。目だ。目がおかしい。片方の目の視力が失われているか、ほとんど見えていないのかもしれない。

 どうして回復手術を受けないのだろう、とテギョンは思った。生身でも、機械でも、失った体の機能を再生する技術は充分に普及している。希望すれば、手術を受けさせてもらえるはずだ。

「本当に? あなたは東京城砦で戦闘員の勧誘活動に関わっていたと聞きましたが」

「その方には心当たりがありません。お力になれず、申し訳ないです」

 ハヤトはうなだれた。

 激昂するふりでもしようか。テギョンは考えた。しかし彼が本当に何も知らなかったら――いいや、さっきの反応を見ても、リウ・ハオランについて何か知っているのは確実だ。演技には自信がない。あの高原航のように、仮面を次々と付け替えるように別人格を演じることができたなら……。

「この件に関わらないほうがいいです」

「何だって?」

 ハヤトは、唇をほとんど動かさずに話していた。

「ご家族はほかにおられますか? この情報を手に入れた相手にも伝えてください。このままでは身の危険が迫るでしょう」

 ハヤトは素早く話し終えると、少し大げさな動作で頭を下げた。

「お役に立てず、申し訳ありません」

「最後に一つだけ、聞いてもいいですか?」

「何でしょうか」

「あなたは、自分が今までやってきたことを、後悔していますか?」

 ハヤトは少し逡巡したように見えた。数秒後、ゆっくりと、確かな動作でうなずいた。

「ええ。後悔ばかりです。己の正しさを信じ切って愚かに突き進んだ結果、わたしは何もかもを失った。きっとわたしには重い判決が下るでしょう。どんなに厳しい刑罰を受けても、人の命を奪ったという事実には替えられない。それでも、残りの人生は、償いのために使います」

「わかりました。今日はありがとうございました」

 テギョンは拘置所を出て、無人タクシーを捕まえた。ひどく暑い日だった。タクシーから流れる天気予報は、もうすぐ東京城砦に強い台風が上陸することを告げていた。

 何か冷たい飲み物を買おうと、カフェやレストランが集まるエリアでタクシーを降りた。きらびやかな服装の本島からの観光客とすれ違う。旧日本領への調査隊派遣に反対するデモ隊を横目に、テギョンはテラス席のあるカフェに入った。

 テギョンはアイスコーヒーを買い、店を出た。通りを逆方向に歩いていると、乗ってきたタクシーの前に立つ人物が目に入った。

 常夏の東京城砦で防寒着を着込んだその男は、裸足だった。肩まで伸びた髪は脂のようなもので固まっている。周囲の通行人は、怪訝な表情をして、男から離れて歩いていた。風にのって饐えたような臭いが漂ってくる。

 男は黒いフルカーボンのナイフを服の中から取り出すと、奇声を上げて、真っ直ぐテギョンに向かってきた。

 男は正面からテギョンに衝突すると、ナイフの刃を彼の腰に刺した。刺された場所に、熱い石を押し当てられたような感覚が生まれ、激痛と血の生暖かい感触が広がった。

 周囲は恐ろしげな悲鳴を上げ、パニック状態に陥った。

 地面に倒れたテギョンに男は馬乗りになり、顔を近付けた。男の口から漂う生臭いにおいに、テギョンは反射的に顔を背けた。

「ユク・テギョン。二十四歳。職業はブン屋だな? あ? ジャーナリストか? 旧鹿児島県に父親のユク・ジンソクと母親の齋藤マリが住んでいる。ははっ。嫁は流砂漠でカメラマンやってんのか」

 ドローンが男に麻酔弾を放った。男は咄嗟に針の刺さった腕をナイフで切りつけると、絶叫して群衆に向かって突き進んでいく。デモ隊の看板が落ちて割れる音がした。

 道路に横たわるテギョンの頬に、雨粒が落ちた。まばらな雨はすぐに豪雨へ変わり、血と混じり合って広がっていく。群衆の悲鳴が柱になって立ち昇る。

 テギョンの意識は、そこで暗転した。

 

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