5. 東京城砦 陸澤演 

 冷房のよく効いた港の待ち合わせ場所で待っていると、指定した時間ぴったりに高原航たかはらわたるが現れた。白を通り越して青白い肌にダークブロンドの髪。アジア人離れした美貌の持ち主だ。

 人混みの中でも恐ろしく目立つその男は、陸澤演ユク・テギョンを見つけると手を振った。

 テギョンは恐る恐る手を振り返した。

「久しぶり、テギョン。高校以来だな」

「久しぶり」

「奥さんは元気?」

「いまは中東にいる。流砂漠で写真を撮ってるんだ」

「流砂漠か。仕事で一度行ったけど、良かったよ。まるで異世界だ」

 二人は中学と高校の同級生だった。南九州の片田舎で育ち、テギョンは大学進学と同時に東京城砦に移り住んだ。航は陸軍に入隊し、今は本島にいる。

 港を出て街を歩いていると、航は服の襟で顔を仰いだ。気温は四十度近い。南の海に浮かぶ常夏の東京城砦では、ありふれた天候だった。

「暑いな」

「年中こんな感じだ。熱中症には気をつけろよ」

 テギョンはお気に入りのサングラスをかけた。刺すような日差しがすこし和らいだ。

 すれ違う人々は、航を見て一様に驚いたような顔をした。中には露骨に笑みを浮かべたり、熱っぽい視線を送る人もいる。街を歩くだけでこんなに注目を浴びてたら、おれなら耐えられないだろうな、とテギョンは思った。対する航は慣れているのか、気にも留めていない様子だ。

 テギョンのサングラスのディスプレイには、通りにいる人々の簡単なプロフィールが次々と映し出されていった。名前、年齢、国籍、職業。各々が設定した情報公開レベルに合わせた個人情報が公開されている。

 プロフィールが無い人もいる。多くは海外のビジネスパーソンや観光客、小さな子どもだ。

 個人情報はできるだけ守られるべきもの、というのは過去の話で、今は表面的な情報を自ら公開することで、「わたしは危険な人間ではありませんよ」とアピールするのだ。

 報道関係者のテギョンは、プロフィールの捏造が個人でも簡単にできることをよく知っていた。プロフィールの内容よりも、公開する態度のほうを重視してしまうのが人の性だ。

 航も、テギョンのものと似たデザインのサングラスをかけていた。まるで海外の映画俳優だ。

 航のプロフィールの公開度は最低で、名前と血液型しか表示されていない。学生のころから航はそうだった。同級生たちが思い出の写真やメッセージでプロフィールを飾り立てていたのとは対称的だった。

 テギョンの視界に、東京城砦の地図が送られてきた。地図は猛スピードで拡大されると、ある地点に赤いマークが生まれた。

「そんな場所に行って、何するんだよ」

 テギョンは言った。 

「駄目か?」

「でも、海水真水変換プラントだぞ」

「いいから。今日は黙ってついてきてくれないか」

 二人は無人タクシーを捕まえて乗り込んだ。行き先を告げると、タクシーは滑らかに走り出した。

 集合住宅の融合ビルが壁のように建ち並ぶエリアに入ると、航は透明な天井を見上げて「すごいな」と呟いた。頭上は高架鉄道の線路や、建物間の通路で視界が塞がれ、空はほとんど見えない。

「虫の巣みたいだ」

「これが東京城砦の名前の由来だよ。むかし香港にあった建物に似てるらしい」

 テギョンは、東京城砦の人口密度が世界中の都市で一番高かったことを思い出した。虫の巣、という表現は、案外的確なのかもしれない。

 交差路に入ると、建物の隙間から東京スカイツリーが見えた。二〇一二年に完成した本物ではなく、三十年ほど前に再建された複製だ。東京城砦には、このような日本国時代のモニュメントがたくさんあり、観光の目玉として旅行客を楽しませていた。

 目的地の海水真水変換プラントに到着すると、タクシーは停止した。地図は東京城砦の端を示していた。

 タクシーから降りると、海から吹く風が二人の髪をなびかせた。湿った熱い空気に、潮の濃い臭いが混じっている。遠くの沖には、発電所やほかの人工浮島都市が並んでいた。

 航は足場のぎりぎりに立って、海水真水変換装置のパイプラインを興味深そうに見下ろしていた。モスグリーンに塗られたのたくる配管の迷路の奥を、肩の上にドローンを飛ばせた作業員が行き来している。

「去年爆破されたのって、ここだっけ?」

「いや、反対側のほうだ。どうして?」

「何でもない。……なあ、テギョンはさ、どうしてジャーナリストになろうと思った?」

 唐突な質問に、テギョンは面食らった。

「その話をするために、わざわざ東京城砦まで来たのか」

「まあ聞けって。まだ前振りにも入ってないぞ。どうなんだ」

 テギョンは首を捻った。将来の夢を決めたのは中学生のときだ。

 テギョンが子どもだったときから、東京城砦は人々の憧れの街だった。狭い人工島に大勢の移住者が集まり、人口は膨れ上がった。

 彼が十五歳のとき、東京城砦が新規の移住者募集を停止することが発表された。彼は飛び級で高校を卒業し、募集停止の直前に東京城砦の居住権を手に入れた。世間を何も知らない学生だった自分をそこまで突き動かした衝動の正体は、いったい何だったのだろう。

「思い出した。航が転入してくる少し前に、琉球陸軍の施設で人体実験が行われてた、ってことが発覚したことがあったろ? 世界中で大変な騒ぎになった事件だよ。あれがきっかけだったな」

 被験者から秘密裏に送られた施設内の映像は、軍隊の追及を逃れ、世界全体に発信された。そのときまだ十二歳だったテギョンが受けた衝撃は計り知れない。尊厳死が決まった被験者を追い続けたドキュメンタリーを見て、彼は自分の未来に進む道を決めた。

 航は満足げに笑みを浮かべた。

「助かるな。話の手間がいくつか省けたよ」

「じゃあ、おまえの話ってのは、その人体実験に関係してるのか?」

「そういうことだ」

 航は「ちょっと歩こう」と言って、テギョンの背中を叩いた。サングラスのディスプレイに〈通信機器をぜんぶ切ってくれ〉というメッセージが映し出される。テギョンはメッセージを消去してから従った。

「俺は軍隊に入って、ちょっと特殊な仕事をしてるから、その件について少し詳しいんだ。おまえ、紅炎プロミネンスは知ってるだろ?」

「知ってるも何も、去年海水真水変換プラントを爆破した奴らじゃないか。あのせいで全域で断水が起こって大変なことになったんだぞ。死者も出た」

「そうだったな。紅炎プロミネンスはこなり昔からあるテロ組織で、規模も大きい。そいつらが、琉球軍の人体実験が発覚する何年も前に、実験施設の一つを襲撃したことがあるんだ」

「そんな話、聞いたことがないぞ」

「そりゃあ、発表されてないからな」

 話の続きを聞かないほうがいいのでは。テギョンは直感した。しかし、ジャーナリストの端くれとしての好奇心が、ここから立ち去ってしまうことを邪魔していた。すでに航の話に惹きつけられ始めていたのだ。

「もう二十年以上前になる。離島にあった実験施設の内部に、紅炎プロミネンスの工作員が入り込んでいた。奴らは襲撃を成功させると、その施設の実験データすべてと、被験者の子ども一人を連れ去ったんだ。後で紅炎プロミネンス所属のエンジニアを尋問すると、データプレートはその後、二つに分割されたことがわかった。何重にも暗号化した鍵をかけて、二つが揃った上でないと中身を見ることも、データを消すこともできない状態にしたそうだ。データプレートの一つは旧日本領のどこかに、もう一つは当時まだ学生だったハヤト・クニカワの父親の手に渡った。俺たちが把握しているのはそこまでだ」

 ハヤト・クニカワという名前は、テギョンもよく知っていた。海水真水変換プラントを襲撃したグループのリーダーで、いまは裁判を受けるために、東京城砦内の拘置所に拘留されている。数々の余罪から、終身刑以上の刑はほぼ免れないと言われている。

「……ちょっと待ってくれ」

 テギョンは立ち止まった。

「なんだよ、それ。つまり、人体実験の内容と成果がテロ組織の手に渡ったということか?」

「そういうことになるな」

「じゃあ、あいつらは、もうそのデータを何かに利用してるんじゃ……」

「それはない」

 航はテギョンの言葉を素早く遮った。怖がる子どもを安心させるように微笑む。その笑顔は、テギョンが子どもの頃から航に抱いていた本能的な恐怖心を思い起こさせた。

「さすがにそれは不可能だ。応用は難易度が高すぎる。いくら頭のいい小学生でも、大学で使う教科書が理解できないのと同じことだ」

「奪われたデータと被験体、どっちもまだ取り返せてないのか?」

「実験児を連れ出した研究者の遺体は内地で見つかったが、そいつが持ち出したデータプレート、体内の国籍番号ナンバータグ、どちらも持ち去られていた」

「その実験児が持ち去ったということか」

「わからない。その可能性が高いがな。問題はその子ども……今は立派な大人だが、そいつのことなんだ。人間の手で運ばれるだけのデータプレートより、意志のある人間のほうが厄介だ。そいつは旧日本領のある町にいるはずだったんだが、その町で何かが起こって、また行方不明になった」

 そこまで話すと、航は「テギョン、メモ用紙持ってるか?」と訊いた。

 テギョンは破り取ったメモ用紙とペンを航に手渡した。

「さすがはジャーナリスト。最近じゃもうほとんど見ないのに」

 航はそこに文字を書いて、くしゃくしゃに丸めてからテギョンに返した。

「中身はまだ見るな。見たらすぐに捨ててくれ。できれば燃やせ。それが無理なら細かく破くんだ。絶対に読める状態で捨てちゃ駄目だ」

「わかった」

 テギョンはもう決意を固めていた。ここまで知ってしまった以上、自分も航も知らんぷりはできまい。一線を越えてしまえば、止まるよりも進み続けるほうがずっといい。自分の人生は、これまでとは違うものに変わってしまうかもしれない。

「じゃあな。付き合ってくれてありがとう」

 航は踵を返して立ち去ってしまう。テギョンは呆然としたまま、メモを握っていた。

「おい、もう帰るのかよ」

「今日中に本島に戻らなきゃいけないんだ」

 航は背中を向けたまま手を振った。

 テギョンは無人タクシーが通りかかる場所まで戻った。周りに誰も何もいないことを確認してから、メモを慎重に開いた。

〈ハヤト・クニカワに会いに行け。劉浩然という人物について質問すれば、向こうにも話が伝わる。聞き方には気をつけろ。お前を頼りにしている。無事を願う〉

「……リウ・ハオラン?」

 テギョンは呟いた。誰だろう。さして珍しくない、よくある名前だった。

 タクシーがやってきた。テギョンはメモを小さく丸めて、素早く飲み込んだ。尖った紙が喉の粘膜に引っかかるが、すぐに唾液を含んで滑り下りていった。

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