4. 伊奈巳中学校 上月希帆

 授業の終わりを知らせるチャイムが鳴った。上月希帆こうづききほは顔を上げて、自分がいつの間にか眠り込んでいたことに気付いた。ノートを見ると、睡魔との格闘の跡が刻まれている。

 前の席に座る羽山誠はやままことが、にやにや笑みを浮かべて希帆を見ていた。

「起立!」

 クラス委員長の号令がかかり、希帆は慌てて席を立った。

「気をつけ、礼!」

「ありがとうございました!」

 一瞬で教室が喧騒に包まれた。希帆の横を、鞄を持ったクラスメイトが足早に通り過ぎていく。上の階から、椅子を引きずる音が響いてきた。掃除当番の生徒が机を教室の後ろに運んでいく。

「今日、希帆ん家行くはずだったよな?」

 誠が言った。

「うん。健弥が帰ってくるから、打ち合わせしないと」

「そのことなんだけどさ、明里あかりはながさ、やっぱり参加するの止めるんだって」

「え? どうして?」

「怖いからだってさ。町の外に出るの。まあ、仕方ないよな。他にも欠員が出る班があると思うから、人数が合うところと合流させてもらおうよ」

「うん」

 

 二人は揃って教室を出た。職員室に寄って外出許可証を貰い、寮の部屋に荷物を置いてから外に出る。

 学校は、小中学校と高校、それぞれの寮が同じ敷地に建っており、役場や会議場のような公共施設が集中する町の東側にある。希帆の家は、伊奈巳町を東西に分断する運河を挟んで、学校とほとんど対称に位置していた。

 橋を渡り、土が露出した道路を歩き、二人は希帆の家に向かった。途中で、町で五台しかない軽トラックのうちの一台とすれ違う。街路樹の葉は赤く染まりかけていた。


「ただいま」

「こんにちはぁ」

 玄関の引き戸を開けると、二階から母親の「あら、おかえり」という声が聞こえた。母親は階段から顔を出すと、「あれ、誠くん? 久しぶり。大きくなったねぇ」と言った。

「お久しぶりです、おばさん」

「一年半振りくらいかしら。随分背が伸びたわね。お父様は元気?」

「まあ……いつも通りです」

 誠は困惑したような口調で答えた。

「健弥くん、中で待ってるわよ」

「はーい」

 来客用の和室に入ると、健弥が茶菓子をつまんで座っていた。木製の机の上に、地図や資料を広げている。低い机の下に脚を入れて、猫背気味に座っている光景は少しユーモラスだ。健弥は背が高すぎるので、寝るときは布団を二組敷いて、対角線上に頭と足を置いているらしい。

「二人だけか? こっちは四人と聞いていたが」

 健弥が言った。

「うん。やっぱり行かないんだって」

「そうか。まあ、よくあることだ。新しいメンバーが決まったら教えてくれ」

「うん」

 希帆と誠は、健弥の正面に座った。盆の中のお菓子をつまみながら、広げられた資料に目を落とす。見出しには「災害対応訓練 町外遠征用資料」と書かれている。

「行きのチェックポイントはもう決めてきました。帰りは、これから決める新しい班のメンバーに選んでもらいます」

 誠は、地図の青い点を二つ、鉛筆でマークした。伊奈巳町ダムと、国道66号線サービスエリア跡地だ。

「その二つは少し西寄りだから、目的地まで遠回りになるけど、それでもいいのか? 三日半で必ず帰ってこないといけないぞ」

「行きは少し遠回りでも大丈夫だと思います。ぼくと希帆は、体力には自信ありますから」

「じゃあ、そうしておくよ」

 希帆はあることに気が付いた。

「そういえば、お父さんは? まだ帰ってきてないの?」

「親父さん、しらかば館に用事が残っててまだ帰れそうにないんだ」

「もしかして、また怪我したの?」

「いや、そうじゃない。とにかく大変な仕事だ。俺も明日には、もう一度しらかば館に戻らないといけない」

「大変だね」

 ルートの確認が終わると、健弥は資料のページをめくった。「リバーサイドホテル鯉沼周辺地図」と書かれている。

「これから行く目的地は、こんな感じの場所だ」

 健弥は、希帆と誠に数枚の写真を見せた。一枚目は、アスファルトで覆われた車道の真ん中に立って撮った写真。道の両側に直方体の大きな建物が並んでいる。どの建物も窓ガラスが割れ、中には植物の蔓に完全に覆われてしまったものや、傾いて崩壊しかけているものもある。

 二枚目は、高速道路のインターチェンジの写真。高架橋の入口には、錆びた有刺鉄線が張り巡らされていた。

 三枚目は、西洋風の重厚な石造りの建物だった。周囲の荒れ具合と比べると、よく手入れされているように見える。

「これが、リバーサイドホテル鯉沼。二日目はここに泊まる」

「すごく綺麗な建物ですね」

「そう。この建物だけ保存状態が良いんだ。当時、かなりの大金をかけて建てたらしい。だから他の建物が崩れても、これは無事だったようだ」

「中はどんなふうになってるの?」

 希帆は訊いた。

「まあ、普通のホテルだな。あまり綺麗じゃないから、寝泊まりできる場所は限られてる。安全確認は済んでるから、中は自由に探検できる」

 打ち合わせが終わると、健弥は手早く資料を片付けて立ち上がった。

 希帆の母親が台所から「もう帰るの? ご飯食べていかない?」と言った。

「明日は早く出なきゃいけないので。お邪魔しました」

 希帆は手を振った。

「バイバイ」

「じゃあ」

 

「森郷さんと希帆って、どんな関係なの?」

 健弥が帰ったあと、誠が訊いた。

「お父さんの部下。昔から仲いいのよ。災害対応訓練のときは、毎年案内人やってるんだって」

「へえ。あの人、かっこいいね」

「顔が?」

「そうじゃなくて。いや、確かに外見もかっこいいと思うよ。背も高いし。それより、ぼく、ああいう仕事に憧れがあるんだ。将来は町の外で働く仕事に就きたい」

「すごく危ないらしいけど、いいの?」

「うん。外がどうなってるかって、希帆も気にならない?」

「そりゃあ、ちょっとは気になるけど、誠ほどじゃないなぁ」

「そう? 興味を持つことって、大事だと思うよ」

「でも、それと、図書館の封印書庫に忍び込んだり、勝手に境界の外に出てしまうこととは違うでしょう?」

「もちろんそうだ。昔そんなことをした人がいたとは聞いてるけど、ぼくはしない。わきまえることを知らないとね」

 誠は荷物をまとめた。 

「希帆はここに泊まってくの?」

「うん」

「ぼく、課題がまだ残ってるからもう帰らないと。バイバイ。また明日ね」

 誠は玄関を開けて、足早に去っていく。

「バイバイ」

 希帆は手を振った。

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