2. 都市遺跡 森郷健弥
そこは死んだ街だった。賑やかさを失ったショッピングモールの跡地は、廃墟の哀しさを一層引き立てている。
北館と南館を接続する空中通路から、
拾った案内図を慎重に広げて、健弥は港が見える出口を探した。色褪せた紙は、触れるとぼろぼろと崩れていく。文字もほとんど読めない。
床にはばらばらになったマネキンが散らばっていた。店ごと燃やされたのか、焦げて体の一部が溶けている。
耐震補強が施された施設が崩壊せずに残ったのは幸運だ。
割れたガラスをできるだけ踏まないよう、健弥はゆっくりと歩を進めた。沈黙に包まれた空間に、破片が砕ける音が響く。分厚いブーツの底からは、非日常が這い上がってきた。
階段状になったテラスから海が見える。日光を反射してきらきらと輝く緑色の液体が広がっていた。海水の独特の臭気に、不快感を催す漂流物の臭いも混じっている。しかしこの場所は、決して嫌いではない。
〈森郷、どこにいる?〉
腰に下げた通信機から、上司の上月の声が聞こえた。ざらざらと混じったノイズは、健弥が仲間のいる場所からかなり離れてしまっていることを示している。
〈単独行動をするなと言っただろう。早く戻ってこい〉
〈少しだけ時間を下さい。どうしても気になるものがあって〉
健弥は歩きながら答えた。
〈わざわざ独りで見に行く必要があるのか〉
〈あるかもしれません〉
〈でもな、おまえは……〉
通信は、そこで途切れた。電波が届かなくなったのだ。
健弥は何度もここを訪れたことがある。海が見える場所は、まだ見たことのない外の世界と繋がっているような気がする。
柊弥もきっと、ここから来たのではないだろうか。そして、この海を渡って去っていったのではないだろうか。
ふと、苦味を伴う懐かしい記憶が蘇った。
そのとき、健弥は四歳だった。突然家にやって来た新しい家族は、三つ年上の男の子だった。
どうすれば大人の機嫌が取れるのかよく理解した可愛らしい愛想笑いに、甘ったるい声の少年を、健弥ははじめ好きになれなかった。表面上は大人の言うことをよく聞くふりをしながら、無邪気に健弥を虐めていた同級生たちと重なったからだ。
しかし柊弥は優しい子どもだった。
健弥が十歳だったとき、嘘をついて健弥を陥れようとした同級生を、柊弥は呼び出した。河川敷での話し合いはこじれ、柊弥はその同級生を川に突き落とした。虐めは無くなった。まるで初めから何も起こっていなかったかのように、全てが元通りになった。
大人になって随分経つ今でも、小さかった頃のことはよく覚えている。心臓を握り潰されるような痛みを伴う記憶も。
ここに来れば、そういうことも忘れられる気がする。いつかはすべてが解決して、自分は島の外を見ることができるかもしれない。いいや、そんなことは絶対に有り得ない。
水平線の向こうから吹いてくる風が不思議だ。柊弥がいなければ、自分はあの海の向こうに憧れを抱かなかったのだろうか。
テラスからは、船が係留されていた場所が見える。陸上に木製の帆船が乗り上げて、折れたマストが隣の建物に突き刺さっていた。数年前に訪れたときには無かったものだ。誰も見ない間に、酷い台風に襲われたのだろう。時間が止まったように思える静かな廃墟も、訪れるたびに異なる姿を見せてくれる。
健弥の予感は当たっていた。海の上に小型のボートが浮かんでいた。幽霊船ではない、生者が乗っていた船だ。
健弥は船に近付いた。
中には誰もいない。陸上には、何かを引きずったような跡と、海水と砂利でできた人間の足跡があった。上陸には苦労しただろう。
跡はまっすぐ伸びて、観覧車の方向に向かっていた。
横倒しになった観覧車のそばに、同じ服装をした男女がいた。数は八人、髪や肌の色は様々で、みな背中に大きな荷物を背負っている。首の無い馬のようなロボットが、そばで脚を折りたたんで休んでいた。
遺跡盗賊だろうか。健弥は背中の猟銃を構えた。いつでも撃てるように安全装置を外し、両手に握りしめた。もしこちらの姿を見られたら、戦いになるかもしれない。今すぐにここを立ち去るのが賢明だ。
一人が、こちらを振り返った。何か大声で叫ぶと、健弥を指差す。全員が健弥に注目した。
健弥は、建物の影に隠れて走った。壁の穴を抜け、通路を曲がり、止まったままのエスカレーターを駆け上っていく。
三階に上ると、床が崩落していた。ひしゃげた鉄筋が見える。三階は振動に耐えられずに崩壊しかけたのだ。
穴を飛び越えるために一歩下がったとき、向こう側に人がいることに気付いた。
髪をピンク色に染めた女だった。とても若い。全速力で走ってきたせいで、膝に手をついてぜえぜえと喘いでいる。
女は呼吸を整えると、軽く助走をつけて、穴をふわりと飛び越えた。脚に巻いたベルトで身体能力を高めていることに、健弥は気付いた。遺跡盗賊がよく使っている道具だ。
健弥は後退って、猟銃を構えた。女は外国語で叫ぶと、手のひらを突き出して制止する。背中のナップサックから何かを取り出すと、それを健弥に見せた。数秒後、四角い画面に文字が浮かび上がった。日本語だ。
〈わたしは、カナダという国から来ました。大学生で、未復興国で暮らす人々のことを知りたいです。なので、日本のことを調べる調査隊に参加しました〉
健弥の動揺をよそに、文字は次々と切り替わっていく。話しても書いてもいないのに、どうやって文字を映し出しているのだろう。
〈あなたはここに住んでいるのですか? 服装がわたしたちのものとよく似ていますが、どうやって手に入れたのですか?〉
オリビア、と女が言う。拙い日本語で、わたし、オリビアです、と繰り返した。
「あなたの、名前は?」
健弥は首を横に振った。得体の知れない恐怖が湧き上がって、手が震えた。
健弥が一歩下がると、女は一歩前に進み出た。無邪気な笑みを浮かべている。好奇心だけでどんな危険なこともやってしまう小さな子どものように。
〈この文字が読めますか? 質問に答えてくれないのは、なぜですか?〉
健弥の背後から、誰かが飛び出してきた。帽子を被った男だ。彼はオリビアの腕を掴むと、彼女に言葉をかけた。叱りつけるような、強い調子だ。オリビアは不満げに何か声を漏らすが、男に従って離れていく。
「ごめんなさい。あなたがたの生活を脅かすつもりはないんです」
男は明瞭な日本語で言った。健弥と同じ東洋系の顔立ちだ。
「何か、困っていることはありませんか? 食料や水は足りていますか?」
「ない」
初めて反応が返ってきたことが嬉しかったのか、二人は色めき立ったように見えた。健弥はさらに一歩下がって、二人から距離を取る。
「ここであまり人に近寄らないほうがいい。もう帰ってくれ」
健弥はきびすを返して、立ち去った。
北館の四階にあるフードコートには、上月と新人の同僚が集まっていた。健弥が戻ると、上月は厳しい視線を向けてくる。上月は健弥の遠縁の親戚にあたる人で、子どもの頃からの仲だ。
「単独行動は命取りだ。健弥、おまえは他の皆よりも経験を積んでいるかもしれんが、後輩のためにも規則は守るべきだぞ」
「すいません。でも、人がいました」
調査員たちが騒然となった。上月が一睨みすると、沸き立った話し声がすっと引いた。
「ここを離れたほうがいいかもしれません。俺たちに興味を持ってるみたいです」
「話したのか」
「いいえ」
健弥は嘘をついた。町の外で会った人間とコミュニケーションを取ることは、いくつかの例外を除いて禁じられているからだ。
上月は厳しい顔をして考え込んだかと思うと、同僚たちに振り返って、こう言った。
「よし。ちょうどいい機会だし、もう帰るか」
歓声が上がった。彼らにとっては初めての調査で、もう一ヶ月以上も町を離れているのだ。
「成果はデータプレート二十三枚。悪くないだろう。お前ら、気を抜くなよ。家に帰るまでが調査だからな」
少し笑いが広がった。
一週間を予定していた帰路は一日半短くなった。しらかば館に到着した一行は、糸が切れたようにリラックスして体を休めた。
健弥はあてがわれた自室で過ごした。ここには温かいシャワーも、新鮮な食材を使った食事もある。調整期間が終わって伊奈巳町に帰るまで、ゆっくり過ごそうと決めていた。
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