ブルークォーツァイト

青澄

第一章

1. しらかば館 上月達宏 

 伊奈巳いなみ町森林管理局調査部の上月こうづきは、外森林の一番端にある町外拠点、〈しらかば館〉にいた。

 古びた木でできた門をくぐると、しらかば館に駐在している同僚の細川が玄関で待っているのが見えた。

 細川は一歩前に出ると、眩しい日差しに目を細めた。あたりは夏の早朝の凉しい空気に覆われている。

「子どもとはいえ、我々の判断だけで招き入れてもいいのでしょうかね」

 細川は言った。先程の電話の続きだ。

「さあな。何せ、この町の歴史で初めてのことだから。俺にも、どうすればいいのか」

 しらかば館の玄関を抜け、廊下を進んでいく。古くなった木がギシギシと音を立てた。

「子どもは医務室にいるのか?」

「はい。怪我をしていますが、僕が見たときは元気そうでした。一応、言葉は通じます」

「なら、助かるな。近頃は、同じ日本語でも分化しすぎて通じないことがあるから」

 医務室に入ると、しらかば館に勤めている菊池医師が書類から顔を上げて会釈をした。あまり眠れなかったのか、下まぶたが茶色く染まっている。着ている白衣にも皺が寄っていた。

「子どもはどこに?」

「食堂にいます」

「元気なのか?」

「ええ。全身の擦り傷と軽い脱水症状がありましたが、栄養を摂って休めば大丈夫でしょう」

 上月と細川は、ベッドサイドにある革張りの低いベンチに座った。

 医師が机の引き出しから何かを取り出して、上月に手渡した。受け取ったものを見て、上月は困惑した。

 約二センチ四方の青みがかった透明な板だった。触るとひんやりと冷たく、表面はとても滑らかで光沢がある。中に散りばめられた銀色の極小の立方体が、医務室の照明を反射してきらきらと光った。

 よく見ると、板は紙よりも薄い板を何十枚と重ねて作られていた。目を凝らすと、一枚ごとに細かい無数の傷が刻まれているのが見える。

「保護された子が持っていたものです」

 医師はそれだけ言った。

「なんだ、これは」

「わかりません。ただのガラスの板にも見えますけど、なにか、この町には無い高い技術で作られたものなのかもしれませんね」

 板を細川に渡すと、彼はしばらくそれを眺めてから、首を傾げた。

「何なんでしょうね、これ」

「その子は、この板について何か言ってたか?」

「とても大事なものだから、この町で一番偉い人に渡してほしい、と。でも、いきなり町役場まで持って行くわけにもいきませんから、上月さんに見てもらおうと思って」

「いやあ、俺も町の外でいろんなものを見てきたけど、これは流石に分からないな」

 上月は二十年近く森林管理局調査部で働き続けている。長続きしない人の多いその職場では、もう一番の古参だ。

 伊奈巳町の外は、文明が後退してから人間を拒絶し続ける森や住民のいなくなった市街地の廃墟が広がっている。上月は何年もそういう場所に出張っては、遺物を町に持ち帰ったり、地図を修整したりする仕事を続けていた。

 想像できないような有り得ない経験もした。野犬の群れに一晩中追い回されたこともある。遺跡盗賊に遭遇したときは、彼らの姿をひと目見ようとして、頭を撃ち抜かれそうになったことがある。しかし、今回のようなことは初めてだ。

「町を出て行く人というのは大勢いるが、外から入って来るというのは、支援団体の人以外だと一度も無かったはずだ」

「そうですね。僕も聞いたことありません」

 医務室の扉が開いて、七歳くらいの男の子が入ってきた。折れそうなほど細い手足に、中性的な顔立ち。顔に貼られた大きな絆創膏が痛々しかった。初対面の上月と細川を見ても物怖じしない男の子の視線には、年不相応の知性と落ち着きがあった。

「やあ坊や。朝ごはんはうまかったか?」

 上月は訊いた。

「うん。いっぱい食べたよ」

「お前さん、名前は何て言うんだ?」

柊弥しゅうや

 柊弥は冷蔵庫を開けて、ボトルの水をコップに移して飲んだ。もう何年もここにいるかのように慣れた振る舞いだ。

 柊弥はコップを洗い場ですすぐと、上月の正面にあるドーナツ型の椅子に座った。

「ボク、これが何なのか分かる?」

 細川がガラス板を見せて訊いた。

 柊弥は首を横に振った。

「ごめんなさい、ぼくにもよくわからないの」

「そうなのか。これどこで手に入れたんの?」

「先生にもらった」

「先生って、誰?」

「ぼくのお父さんみたいな人。小さいときから、ずっと面倒を見てもらったんだ。先生が逃げるのを手伝ってくれたから、ここに来れたんだけど、先生は撃たれたせいで、途中で死んじゃった」

 上月と細川は顔を見合わせた。細川は口を半分開けて、何を言えばいいかわからないという顔をしている。たぶん自分も、細川と同じ表情をしているだろう。

「じゃあ、君の本当のお父さんとお母さんはどこにいるのかわかる?」

 細川が訊いた。柊弥は大げさに首を傾げると、「いないと思う。会ったことないから」と言った。

 医師と目が合った。彼は困ったように眉をひそめる。どうやら、前日にも同じ説明を聞いていたらしい。

 上月は細川からガラス板を受け取って、上着の内ポケットに入れた。

「じゃあ、これはおじさんが預かってもいいか?」

「いいよ。もともとぼくのものじゃないし。……ぼく、これからどうなるの?」

「そうだなあ。ごめんな、正直に言うと、まだ何も決まってないんだよ。そろそろ町のお偉いさんに報告が行ってるはずだから、それから決まるはずだ。安心しな、山に放り出したり、ひどいことしたりはしないから」

「そう。じゃあ、安心だね」

 柊弥は素っ気なく答えると、ベッドに潜り込んで、頭まで布団を被ってしまう。どうやら気分屋な性格らしい。

「じゃあ、おじさんたちはもう帰るから、ゆっくり休んで体力を回復させるんだぞ。困ったことがあれば、すぐにここの大人に聞きなさい」

「うん、ありがとう。じゃあね、おじさん」

 柊弥は顔を半分だけ出して、上月と細川に手を振った。

 薄ピンクのカーテンを閉めて、上月は立ち上がった。今から町に戻って、大量に降りかかるであろう仕事をこなさなければならない。柊弥を保護した経緯や、彼がどこから来たのかについても、調査をしなければならなくなるだろう。しばらく忙しくなる。

 しらかば館の敷地を出て、上月は登山道に入った。少し歩いただけで、全身から汗が吹き出てしまう。額の汗を拭った。

 柊弥の正体がどうであれ、この町の何かが変わる。そんな気がした。

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