第10話 竜
その日はよく晴れて、気持ちの良い日になった。
バルクは塔の前の広場に出てみた。
「よう、体はもういいのかい」
地鳴りのような声が頭の上から降ってきた。
バルクは上を見る。
塔の壁に、巨大なトカゲが張り付いていた。いや、金属のような硬い鱗で覆われた表皮、鋭い爪と牙。ドラゴンだ。
「おかげさまで」
「あんたとはずっと話したいと思ってたんだ。ひとっ走りしようぜ。いいとこ知ってんだよ」
「もちろん」
「おっ、そうだ。リコも誘ってやろう」
ドラゴンは壁の上でぐるりと上下方向転換すると、壁を登っていった。
(この建物はドラゴンの爪に耐えられるようにできてるのかな…)
「おおーい、リコ、たまには出かけようぜ! ずっと部屋で本ばっか読んでると、骨が弱くなっちまうぞ!」
ドラゴンの声が轟く。
上の方からぱらぱらと小石が降ってくる。
「うわっ!?」
ふと気配を感じて横を見たバルクは、驚いて飛び退いた。
いつのまにか隣に土が立っていて、バルクと同じように上を見ていた。
「この建物はドラゴンの爪に耐えうるの?」
「…いや」
ドラゴンがリコの部屋のバルコニーから飛び降りてきた。
「来るってよ」
「…塔に優しく」
土がドラゴンに苦言を呈する。
「あんたがいるんだから、並の建物みたいに簡単には壊れねえだろ。カリカリすんなって」
一撃で人間を2、3人潰せそうな尾をぶんぶん振る。
「…俺の仕事が増える」
「たまに働いたってバチは当たらねーぞ」
ドラゴンと土の精霊が揉めているところに、リコが降りてきた。鞍を肩に担いだジャイアントも一緒だ。
「おう、乗れよ」
ジャイアントがドラゴンの首の付け根に鞍を乗せると、リコは身軽にそこにまたがった。
「行くぞバルク! ついてこいよ!」
ドラゴンは猛然と駆け出した。物凄いスピードだ。人間の足では到底ついていけない。つまりはそういうことだ。
「じゃあまた」
バルクは土に言うと、狼になり、ドラゴンの後を追った。
ドラゴンは薄暗い森の中を猛スピードで駆けていく。バルクは必死に後を追った。相手は巨大なドラゴンとはいえ、森の中では背景に紛れてしまう。また、他の動物とは違って、ドラゴンは臭いの痕跡を残さなかった。目で追うしかない。木の枝が揺れ、鳥や驚いて飛び立っているのを目印に追いかける。
ドラゴンは小川沿いの獣道に出た。川の流れに逆らう方向に走っていく。見通しがきく場所に出て、ようやく周りを見る余裕が出てくる。小川の先に泉が見えた。ドラゴンが目指しているのはそこだ。
ドラゴンは少しずつスピードを落とし、泉のほとりで止まった。リコは 軽い身のこなしでさっとドラゴンの背から降りると、靴を脱いで泉に足を浸した。地下から無限に湧いてくる水は冷たく透き通っていた。
少し遅れてバルクが駆けてきた。
人を背に乗せられそうな巨大な狼は、舌を垂らして息を吐いていた。仕草は狼そのものだ。狼はリコの隣で水を飲むと、草の上に肢を投げ出してドサリと横たわった。腹部が大きく上下していたが、それもすぐにおさまる。
「おう、リコ。俺、ひと泳ぎしてくっからよ、ちょっとこれ外してくれねえか」
ドラゴンがリコの方に首を伸ばす。リコが鞍を外すと、ドラゴンはほとんど水しぶきを立てずにするりと水に入った。
バルクは草の上に横になったままそのやりとりを見ていた。
リコは、しばらく立ったままドラゴンの静かな泳ぎを見てから、バルクの方にやってきた。
そっとバルクの脇腹を撫でる。彼女がいつも塔の魔物たちにしているのと同じだ。バルクは大きな尻尾をぽたぽたと振った。リコは傍に腰を下ろすと、腹にもたれて目を閉じた。
投げ出された裸足の足を見て、小さな足だ、とバルクは思う。精霊使いの守護者と呼ばれ、魔物とドラゴンに愛され、強力な精霊を従えているとはとても思えない。ごく普通の少女だ。ただ、本物のごく普通の少女はこの姿を恐れるだろうが、リコにとってはこちらの方が親しみが湧くようだ、とバルクは複雑な気持ちで思う。リコはバルクの毛並みを撫でていたが、その手が不意にぽとりと地面に落ちた。眠ったようだった。
ドラゴンは十分に泳ぎを楽しんだ後で水から上がってきた。
「まったく、目ぇ瞑るとすぐ寝るな、相変わらず」
ドラゴンはリコを覗き込んで言った。
「ずっと狼でいろよ。かわいがってもらえるぜ」
「人間に戻る方法を忘れそうだ」
その言葉はくぐもった唸り声でしかなかったが、ドラゴンには通じた。
「それで何か差し支えがあるのか?」
「いや、まあ…ないけど」
狼として毎日自由に森を駆け回る生活は、おそらく何の憂いも悩みもないことだろう。バルクは一瞬そのユートピアに心を奪われそうになる。
「でも、僕は人間として生きることに決めてるんだよ」
「ふうん」
ドラゴンは、興味なさそうに返事をした。この、地上で最も高貴な生物にとっては、人間の決意など瑣末なことなのだ。
「ドラゴンと話したのは、初めてだよ」
「そうか。まあ、そうだな。人間と付き合ってる変わり者は俺くらいしかいないからな」
「変わり者なんだ」
狼はニッと口を曲げて笑う。鋭い牙が覗いた。
「人間の研究なんかしたところで何になる、ってのが身内の評価だよ。無粋な奴らだぜ」
「人間に興味を持ったのはなぜ?」
「俺が興味を持ってるのは、人間が着てる服のことだ」
「服?」
予想外の答えだった。
「人間はドラゴンのような硬い鱗は持たないし、他の動物のような毛皮もない。皮膚を覆って保護する必要があることは認める。魔物狩りに出かける時は金属の鎧を着ていたりするしな。しかしそれなら、用途の違う、せいぜい2、3種類の服で事足りるし、皆で共通の服を着ていれば効率がいいのに、その日によって服を変えたり、また、場面によっても服を変える。俺には理解しがたい。いろいろな人間に尋ねてみたが、納得のいく回答は得られてない。人間にとって服を着るのは、当然のことだからだろう。自然の与えた肉体以上に美しいものがこの世にあるだろうか?いや、ない、というのが俺の持論なんだが、人間にとってはどうもそうではないらしい。なぜだ。それが知りたい」
「なる…ほど…?」
「例えば、この前、精霊使いどもに森を追い回されてた時、あんたは狼から人間に戻ると、ちゃんと服を着ていた。死にそうになりながら、そんな些細なことに力を割いて、魔術を使ってそうしていた。なぜだ」
確かにそうだった。無意識でもそうできるように訓練を積んだ成果なのだが、それは求められている答えではないのだろう。
「うーん…。僕も一応社会的な体裁を気にするからというか、何というか…」
「体裁は命より重要なのか? だからあの場面でもそうしたのか? 攻撃の意思がないことを示すためには、裸の方が都合が良かったんじゃないのか?」
「え、えーと…」
「人間から狼になる時はわかる。人間と狼では体型が違いすぎるし、人間の服をそのままにして狼に変身したら、自分で自分を縛るのと同じことになる。いちいち脱いでたらその間に殺されちまうしな。だが、逆はどうなんだ? そこがわからない」
矢継ぎ早に繰り出される質問にバルクが面食らってうろたえていると、リコが目を覚ました。体を起こして、手足を伸ばす。
「俺はもうちょっと泳ぐんで、あんたら先に帰ってな。遅くなるとまた塔の奴らが総出で探しに来て面倒だしな」
そういうとドラゴンはまたするりと水に入った。
「じゃあ、帰ろうか。背中に乗って。人間の足で歩くと、多分日暮れに間に合わない」
リコもバルクの言葉を理解した。ひらりと背中に乗る。
帰り道は、自分の臭いを辿るだけなので、迷う心配はなかった。バルクは背中のリコを振り落とさないように、出来るだけ静かに走った。
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