【図書室の魔女シリーズ.1】

逆佐亭 裕らく

サラマンダー



 『この学校の図書室には魔女が居る』


 これは、所謂“七不思議”などというオカルトめいた話ではなく、実際に見かける光景である。とは言っても、それを知っているのは、おそらく僕だけなのだが。


 彼女は放課後になると誰も居ない図書室に現れる。窓際にある四人掛けソファの片隅が彼女の定席らしい。誰と連れ立って来るわけでもなく、必ず独りでやって来て、一言も言葉を発することなく、そして時間になれば独りで席を立つ。少しだけ気怠そうで、でも凛とした印象を感じさせる人だった。


 この学校の生徒はよほど本を読まない生徒ばかりらしい。入学して一学期を終え、更に夏休みが明けてしばらくしてから得た気付きだ。その証拠に、図書室で見かける顔はその彼女ただ一人だけだった。図書委員すら見たことがない。昼休みや他の休み時間はわからないが、少なくとも僕と彼女以外に図書室を使っている生徒は居なかった。当然ながら、彼女も僕の存在には気付いていたのだろう。ある日、本を選んでいると後ろから突然声を掛けられた。

 「ねえ、せっかくだし、一緒に読まない?」

 何故か、このまま一言も言葉を交わすことはないだろうと高を括っていた僕は、あまりに予想外な展開にひたすら面食らい、一通りあたふたした後で、その申し出を受けた。


 自己紹介らしい会話はしなかった。というよりも、僕はどうしていいかわからず、ちょうど一人分だけのスペースを空けて隣に座り、ただひたすら紙面を上滑りして、全然頭に入ってこない文章を目で追った。後で聞くと、彼女は彼女でそのときは気まずさを覚えていたらしく、ぎこちない沈黙の中、二人並んで黙々と本を読んだ。


 それからは放課後に図書室で顔を合わせると、並んで読書をするようになった。最初の日こそ緊張したが、次第にぽつりぽつりと会話を交わすようになった僕たちはお互いに本を薦め合ったり、感想を言い合ったりした。本に関係のない雑談なんかもしているうちに、彼女の印象も少しずつ柔らかいものになっていった。


 その後も相変わらず自己紹介はしなかった。僕から彼女を呼ぶ際には「あの」で事足りたし、彼女も「ねえ」や「君」で事足りていたのだろう。要するに、僕は彼女のことについては殆ど知らないままだった。おそらく上級生だろう、という事くらいだ。

 一回だけ名前を聞いた事もあったけど、軽くはぐらかされてしまった。曰く「言霊という概念を信じているから、名前を簡単に教えてしまうと何かあったときに簡単に黒魔術や呪いにかけられそう」との事だった。それを聞いた僕は流石に「何それ」と笑ってしまった。

 「黒魔術や呪いって、魔女じゃないんだから」

 と言った僕に悪戯っぽい笑顔を浮かべた彼女は立ち上がった。

 「そう、私は魔女だから。魔法で雨だって降らせられるの」

 そう言って窓を指さした瞬間、タイミングよく夕立が降り出した。単なる偶然だとわかってはいたが、僕は思わず窓を指さす彼女を見上げた。そんな僕を見返す彼女の方が、驚きのあまり目を丸くしていて、つい吹き出した僕につられて彼女も笑った。

 「火は?火とか噴けないの?」

 「噴けるよ。でも今日は雨で力を全部使っちゃったからまた今度ね」

 そんな馬鹿みたいな会話を交わして笑い転げた日から、僕の中で彼女は“魔女”になった。


 彼女とは校内の廊下や保健室でたまに顔を合わせることもあったが、そこに居るのは、僕が放課後に図書室で出会う彼女とは違う人物に思えたので、結局は声を掛けることもなく、いつも擦れ違うだけにとどめておいた。勿論、図書室以外で彼女から僕に声を掛けてくることも一切無かった。


 不思議な関係だと自分でも思う。でもその踏み込み過ぎない距離感が、僕たちにとってはちょうど良かったのかもしれない。放課後の図書室に行けば必ず会えるというわけではなく、何度か居ない日もあった。読書もそこそこに、話に花を咲かせるときもあれば、なんとなくお互いに一言も言葉を交わさないときもある。彼女は体があまり丈夫ではないのか、ごく稀に四人掛けのソファを独占して横になるときもあり、そんなときは僕は近くの椅子に腰を掛けた。仰向けで横になった彼女は決まって本は読まずに、本来持ってくることを禁止されているスマートフォンを鞄の奥から取り出して、何やら画面を弄る。そんな日はどこか鬼気迫る彼女の様子を感じ、僕は声を掛けることもせずに、いつもそれを横目で眺めていた。


 当たり前のように日々を過ごし、当たり前のように来る明日を迎えているうちに二学期が終わり、冬休みになった。僕は街の図書館に通いながら新しい本をたくさん読んだ。誰もが知っているような純文学の名作から、名前も聞いたことがないような作家の本も漁るようにして読み耽った。

 「これ、好きそうだな」

 なんて思う度に、三学期が始まったら早々に彼女に薦めようとメモを取った。雪がちらつく日は窓の外を眺めながら「これも今頃、彼女が降らせているのだろうか」と、あの夕立の事を思い出しては、にやつきそうになるのを咳払いで誤魔化した。


 冬休みの二週間は長かった。僕は早く彼女に冬休みの間に読んだ本を薦めたくてやきもきしていた。始業式が終わり、申し訳程度に行われる学級会を終え、早足で図書室に向かう。しかし、その日、彼女は図書室に姿を現さなかった。


 それから明らかに放課後に顔を合わせる事が減った。僕は今まで通りの頻度で足を運んだが、ただ単純に彼女が居ない日が増えたのだ。増えたのはそれだけではない。彼女は以前よりも、よくソファで横になった。ただでさえ、居る日が少なくなったのに、横になる頻度が増えたため、必然的に会話も減る。僕は、本の題名と作家が書かれたメモをポケットにしまったまま、彼女にそれを渡せずにいた。



 その日の放課後は雨が降っていた。夕方から雨脚が強まるらしい、と出掛けに母から傘を渡されていたが、今の段階ではまだ小雨程度の降り具合だ。

 どうしよう。と、少し迷った。今のうちに帰れば、きっとそこまで大変な思いをしなくて済む。でも、そんな思いとは裏腹に僕の足は図書室に向かっていた。心と体が別々になったかのような感覚だ。

 図書室のドアを開け、奥に進むとソファに横になっている彼女が既に居た。彼女は手に持っていたスマートフォンを伏せながら、こちらを向いた。

 「……ん、これから強くなるみたいだけど、帰らなくて大丈夫なの?」

 雨の事だろう。僕はそんな彼女の姿を見て、ここまで早足で来たことや、声を掛けてくれて嬉しく感じていることが急に恥ずかしくなり、なんとか言い訳を探した結果、手元の傘に意識が行き着いた。

 「いや、“魔女”さん、傘忘れたんじゃないかな、と思って」

 そう言いながら、ソファまで近づいて傘を差し出す。最悪今すぐ学校を出て走って帰ればなんとかなる。体裁を保つために傘一本犠牲にするのが代償として高いのかどうかわからないが、とりあえずこれでいいと思った。


 しばらく不思議そうに僕を眺めていた彼女はゆっくりと起き上がり、顔を伏せたまま手を伸ばし、

 「ごめんね」

 と呟いたかと思えば、傘ではなく、僕の手首を掴んだ。突然の事に脳の処理が追い付かず、ただ狼狽える僕に、彼女はもう一度だけ、ごめん、と呟いた。

 「ずっと言えなかったの。私、魔女なんかじゃないから、この雨を止ませることも出来なければ、火を噴く事も出来ないって」

 そう言うと、彼女は今にも泣きだしそうな顔で僕を見上げた。初めて見る表情だった。改めて、僕は彼女の事を何も知らないという事実を再確認させられた気がした。

 「うん、知ってる」

 やっとのことで言葉を絞り出した僕に彼女は続けて語り掛ける。

 「魔女じゃないから、ごめんね、……君の気持ちにも応えてあげられない」

 何を言ってるんだろう、と思うよりも先に、僕の目から涙がこぼれ、そして意識するよりも先に

 「……うん、知ってる」

 と、続けて答えた。そうか。ずっと隠していた僕の気持ちは伝わってしまっていたのか。

 「私の事は恨んでもいいから。呪っても、いいから」

 そう言うと彼女が僕の手を強く引いた。視界がぐるりと回り、背中が柔らかいソファに触れた。僕はいつも彼女がそうしていたように、仰向けにソファに倒れ込む形になり、彼女が僕の上に覆いかぶさった。

 「だから、最後に一回だけ」

 そう言って、薄暗くて表情の見えない彼女の顔が近づいてきた。僕は咄嗟に目を瞑る。柔らかい感触が唇に触れると思って構えていたが、実際に顔に触れたのは彼女の柔らかく流れるような髪の毛だった。耳元で彼女が囁く。

 「名前を教えてあげる」

 彼女の震える声を遮るように、雨音が一気に強く鳴り始めた。目を瞑った真っ暗なままの視界の中で、僕はその音だけを聴いて思った。きっと、これからも雨が強く降る日は何度も思い出すのだろう。初めて彼女を見たあの日の事を。初めて声を掛けてくれたあの言葉を。口に手を当てて笑う彼女の顔を。気怠そうに髪の毛をかき上げる仕草を。スマートフォンに魂を込めるかのような鬼気迫る表情を。あの気まぐれな夕立を。ポケットに入れたまま渡しそびれたあのメモの事を。そして、初めて、“自分以外の誰か”を想う気持ちを。

 そんな数々の瞬間と共に、彼女の消え入りそうな声が、僕の耳にゆっくり届く。

 この声音も、この雨音も、呪文のように、きっと—— 

 「私の名前は……」

 ——きっと、僕の密かな恋が燃え尽きる、その音になるのだろう。



(了)

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