そして、大雨のとき

 光の連絡通路を降りるとスピカがいた。一瞬だけためらうような顔を見せたけど、笑いかけたらそれで納得してくれたらしい。少しだけ泣きそうな顔であたしの前を進んでいく。

 ――シリウスは、いなかった。

 それはもう、どうしようもないことなのかもしれない。

 あたしとスピカで、軍の人たちを指揮して人を誘導する。

 途中途中、ホクトくんが地上の状況も教えてくれた。地上はもっと危うい。だって、軍人みたいなのはそう動いてくれないし、自警団がちょっとだけ助けてくれているらしいけれどその程度。でも、すばるさんたち、そしてなによりホクトくんの顔が広いことが幸いして、大雨が来ること、そして出来れば地下に――そしてシンが誘導する安全領域に――――避難することを知らせて回っているとのことだった。

 全員は救えない。大雨は容赦なく降り注ぐ。それでも、ほんのわずかでも、救える命があるのなら。あたしは、あきらめたくない。

「最後ですわ!」

 スピカが叫ぶ。最後の避難は、教会の地下へだった。領域的には赤。でも、この近くにいる人たちは、動くことを望まない人や、老人だった。今から青領域までは行けない。

 最後に、教会であたしと言葉を交わしてくれたおじいさんに手を振る。

 地下への扉が閉められた。短く息を吐く。汗が滲んでいた。

「スピカ、時間は?」

「あと二十七分」

 ――まずい。ここから走って行くとしても、時間が足りない。どうする。この地下に、一緒に隠れる方がいい? でも。約束、した。

「ナナセ」

 一瞬悩んだあたしに、スピカが声をかけてくる。顔を上げて、あたしは思わず素っ頓狂な声を上げていた。

「それっ」

「ここで、取り上げましたから。使います?」

 ――フライボード!

「二人乗り、行くよ! ちゃんと掴まってよっ」

 フライボードに飛び乗って、おずおずと腰に回ってきたスピカの手を握りしめる。

 さあ、行くよ。間に合いますように!

 だんっ、とフライボードに乗ったまま、地面を強く蹴る。一気に風を切ってフライボードがスピードを上げた。

 光の連絡通路にたどり着いたとき、残り時間は十七分だった。

 上へ行くとすぐ、ホクトくんの怒声が飛んできた。

「遅い!」

「ごめん! 状況は!」

「地上の被害状況予測の割り出しは終わった。カペラとリゲルが誘導してる」

 地上に降り注ぐ大雨は、やっぱりそれでも、大半が傘である『ほし』によって防がれるとのことだった。それでも、被害はあるだろうけれど。

「下は人手がやっぱり足りない。ギリギリになっている。なんとかやってるけど」

「……うん。出来るだけ、をやろう。ここの状況は?」

 ミナトに顔を向ける。ミナトの周りにはいくつものホログラム画面が開いていて、せわしなく指が端末を叩いていた。

「――移動する。正規船のドッグ周辺だけ、出来るだけ障壁を強化した。もともと『ほし』に備わっている大雨を誘導する――というとあれだけど、引き寄せる重力装置を、そこだけ切った。ここ自体は持たないだろうけど、船とドッグだけでも持てば」

 頷く。全員で正規船ドッグへ移動した。その間にも、地上との交信は続いている。

 船に乗り込んだ。ここに来たときのそれとは別次元に大きい。そのなかで、ひたすら地上に指示を出す。船のホログラム画面は、せわしなくたくさんの情報を映し出している。

「カペラ、リゲル! もう時間がない! お前らが避難しろ!」

 ホクトくんが怒鳴る。カペラとリゲルとの通信は、ほとんどぜえはあと弾む息ばかりだ。

 マオ・マオがカウントダウンを始めた。

「あとロクジュウ。ゴジュウキュウ」

「……っ、ついた、入れ早く!」

 リゲルが焦った声でカペラを促しているのが聞こえる。

「あと、ニジュウ」

 お願い。お願い。お願い!

「扉閉めろ!」

 シンも叫ぶ。

「閉めたっ、仲間は少なくとも全員避難完了した!」

 リゲルの叫び声に重ねるように、カペラが叫ぶ。

「こっちは絶対、だいじょうぶ! ホクトくんも、ナナセちゃんも、気をつけて!」

「ありがとう! 後で会おうね!」

「うんっ!」

 リゲルの頷く声と同時だった。

「ゼロ!」

「衝撃に備えて!」

 マオ・マオの叫び声と、スピカの叫び声が重なって。

 あたしは心の中で祈りを捧げる。

 toi toi toi――

 どうか。どうか。上手くいきますように!

 そして、次の瞬間。叩きつける音と衝撃が襲った。

『大雨』が降り始めた。

 右へ左へ。上へ下へ。瓶に詰めて思いっきり振られているような感覚に、上も下も何も分からなくなる。激しい音と、衝撃が繰り返される。

 どれくらい?

 体感がもう何にも当てにならない。揺さぶられ、殴りつけられ。それでもただ、耐える。

 そうしていくうちに、少しずつ――少しずつ。揺れも、衝撃も収まっていった。

「……う……」

 頭がぐわんぐわんする。

「ダイジョウブ?」

 マオ・マオの問いかけに、なんとも言えずに曖昧に笑った。ちょっと気持ち悪い。

「収まった、か……?」

 ホクトくんが息を吐く。全員、なんとか無事だ。スピカが少し手すりで頭を打ったみたいだったけれど、大事はなさそう。

 全員で外の状況を示す画面を見つめた。大雨の反応は、今は、ない。

「外、行くか」

 ホクトくんが言った。ミナトは表情のない顔のまま、静かに頷いた。

 全員で船を下りる。あたしはフライボードを小脇に抱えて、ゆっくりと顔を上げた。

「……ああ……」

 世界は――どういう理屈か――オレンジ色に染まっていた。

 まばゆいほどのオレンジの光が世界を染め上げていて、その空の中、いくつもの流れ星が白い船を描いて、輝いて、落ちていっている。

 なんて――禍々しくて、綺麗な。

 ゆっくり息を吐いて、視線を下げる。基地はまだ、かろうじて残っているようだった。ドッグを出ると、ぼろぼろの基地が迎えてくれた。障壁は吹き飛んだのか、凍えるように寒い風が吹き付けていて、空気も薄い。

「長くはいられない。戻って、地上か『ほし』に降りないと」

 ホクトくんが言った。本来、人が耐えられる状態じゃないのかもしれない。

 ミナトが、ゆっくりと歩き出した。建物を出て、外へ。

「まだ、終わってないかもしれないから危ないぞ」

 ホクトくんの言葉に、ただ、ひらっと手を振る。あたしはホクトくんと顔を見合わせて、うなずき合う。ミナトの後についていく。基地の端にまで歩いて、ミナトは足を止めた。

 静かに下を見下ろしている。背中からは、表情は見えないけれど。

 ふと隣を見ると、同じようにスピカが下を見つめていた。泣きそうな顔で。

「……シリウスは、ミナトに身を守れって、言われてたから。きっと、だいじょうぶ」

 あたしの言葉に、スピカは少し迷ってから、ちいさく微笑んでくれた。

「ええ、そうですわね」

 見下ろす『ほし』は、いくつかの場所で黒煙が上がっている。

「ホクト、地上と連絡を取りたい」

 シンだった。ずっと通信してくれていたから、なおさら気になるんだろう。

 ホクトくんが慌てて、通信機を出した。

「無事か!」

 少し、時間があった。応答を待つ間心臓が苦しかった。でも、すぐに、カペラのはじけるように明るい声が聞こえてきた。

「無事だよ、こっちは! 被害も大きくないと思う!」

「――っしゃあ!」

「よかったぁ!」

 シンがあたしを抱きしめる。あたしも嬉しくて声を上げていた。

 少なくとも地上は、被害はゼロではないだろうけれど、想定以上に被害は少なく済んでいるとみて良さそうだ。あとは。

「下、降りる?」

 あたしはミナトに声をかける。ミナトは背中を震わせて、そのまま静かに、言った。

「ぼくは行けた義理じゃないよ」

 静かな――本当に静かな、声音だった。

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