Eustoma

由香木玲

Eustoma



 一日に七本の病院行きのバスは、閑散としていた。

 恭二はバス後方まで行き、座席に腰を下ろした。バスが発車すると、程よい揺れと暖気が眠気を誘う。


 姉に見舞いがてら現状報告に行く予定であった。

 寛解することのない病……それも国の難病指定を受けておらず、医療費の補助を受けることができない……姉はそれを患っていた。


 彼女が罹患したのは恭二が社会に出て間もない頃。数年前に両親が亡くなり、姉は恭二と二人の暮らしを支えて働いていた。過労で少し具合が悪くなったと思っていたら、状態がみるみる悪化し、ついに倒れた。近くの医院では原因が分からず、いくつかの大きい病院を転々とした。そして、ついにその病には治療法がないことを知ることとなった。

 できるのは対処療法のみである。入院しているだけで、毎月毎月金が飛ぶ。若い恭二がいくら働いても、蓄えが残らない。塞がらない傷から血が流れ続けるように、姉の病は姉弟二人家族の体力を奪っていた。

 恭二がダブルワークと看病で精魂尽き果てそうなとき、とうとう姉が自殺未遂を起こした。


 矢も盾もたまらず、恭二は世間に訴え始めた。この病が国の難病指定を受ければ、医療費の補助が得られるようになる。

 全国紙の新聞に取材を受けた記事が載ると、恭二の元には同じ病の当事者とその家族からの連絡が次々と飛んでくるようになった。活動のためのクラウドファンディングにも資金が集まった。

 一方で、望ましくないものも集まった。無視できない数の誹謗中傷と、名声と献金目当ての政治家、利権を狙う有象無象−−−−


「こういうことは、やはり数の力のある政党に頼らなければ、早期の実現は図れないでしょう」

 患者とその家族による患者会で、そうした声が上がった。

 正直なところ、恭二自身は議席の数に任せて暴力的な国会運営をしている現在の与党に好感は持っていなかった。しかし、既に運動は恭二だけのものではない。会のメンバーで会社経営者という男が、既知の関係の与党議員に渡をつけた。

 それからは−−−−


 恭二の思考を中断するように、バスが大きく揺れて停止した。

 病院前の停留所に着いていた。

 姉への患者会の経過報告は気が重く、そのまま病室に向かうのが躊躇ためらわれた。面会時間の終わりまではまだ1時間以上ある。

 恭二はバス停の向かいの売店で缶コーヒーを買った。乗ってきたバスと反対方向の停留所のベンチに座り、冷めていくコーヒーを手に持ったまま天を仰いでいると、隣に誰かがやって来て座った。


「君、何か悩んでいるね?」


 不意に声をかけられ、恭二は面食らった。丸縁まるぶち眼鏡の若い女性がこちらを見ている。低い鼻の上に乗ったアンバランスな眼鏡が、妙に滑稽な様子に見える。彼女の膝の上には紫色の花束が乗っていた。お椀のように丸く花弁が並んだ花、なぜかそればかりの花束。

「え……?」

「ああ、困惑するのは分かる。私は君と全くの初対面だし、弱ってそうな見知らぬ人に突然声掛けてくるのは大方宗教団体か詐欺の人だって思うじゃん?そりゃ当然の反応だ。あと、帰りのバスを待つのになんで花束持ってるのかも不思議だと思ったでしょ」

「はあ、まあ」

 戸惑いつつも、つい会話に応じてしまった。逃げ場がないというのもあるが、彼女の邪気の無さそうな表情に釣られた。

「あのさ、あたしも今悩みがあってさ。できれば知らない人に聞いて欲しいんだよね。でもタダで聞いてもらうんじゃ悪いから、良かったら先に君の悩みを聞かせてよ。あ、差し障りがあるなら別の条件でもいいよ。コーヒーでも…あ、持ってるのか」

 恭二は思わずふっと笑いを漏らした後、答えた。

「いいですよ。つまんない話ですけど、聞いてください」


 恭二は語った。

 姉が不治の病であること、難病指定を獲得するために運動を始めたこと、患者会が頼った政治家は献金を受け取ったのに全く動きがないこと、医師会や製薬会社が絡み始め、彼らの利益になる方向でなければ動かない見通しであること−−−−


「野党が政権批判ばっかりでね、残念ながら今回も話が進まなかったよ」

 件の議員はそう嘯いた。確かに今国会は、総理大臣のスキャンダルで紛糾した。だが、野党の延長の求めに応じず早々に国会を閉会したのは与党である。そして、この議員は難病の件について国会で言及したことすらない。

 結局、自分の利益にならなければ指一本動かす気すらないのだ。


−−−−恭二は歯噛みした。


「そりゃ……焦れるよねえ」

「もう、どうにも。何とかしたいけど、患者会も、もう俺たち姉弟きょうだい二人だけのものではないし。組織が大きくなれば、変えられるって思ってたんですけどね。全然甘かった」

 ふと、丸縁眼鏡の女性が立ち上がった。そして「ほい!」っと花束を恭二の方へ寄越して言う。

「青年よ、行動するもよし、しないもよし。思うようにしてみなさい。じゃあ、あたしは行くから」

「え?この花束は……ていうか、お姉さんの悩み、まだ聞いてない」

「あ、あたし?あたしの悩みはね、その花束を渡すべき人に渡せなかったってこと。でも君に会えたから良かった。じゃあ、またね」

 彼女は一方的にそう告げると、ちょうどやってきたバスに乗って行ってしまった。


 病室に入ると、ベッドの上の姉がこちらを向いて出迎えた。姉は花束を見て少し驚いたような顔をした。

「ああ、これ?さっきバス停で会った人に、なぜか貰って」

「そう……」

 恭二はベッド脇の収納から花瓶を取り出すと、花束の包装紙を解いた。

「具合はどう?」

 花を生けながら恭二が問う。

「いつも通り」

 いつも通りということは、不規則に襲い来る耐えがたい痛みを投薬でどうにか誤魔化しており、良くなっている様子はないということだろう。それを、いかにも悪くなっていないから大丈夫だという風に答える。

「そっちはどう?」

「……いつも通りだよ」

 姉からの問いに、恭二も同じように答える。

 恭二の暮らしは相変わらずだし、難病指定の話はくだんの議員のところで止まっている。その絶望感を姉に見せないよう、恭二はただ花を見つめた。


「それ、トルコキキョウ」

 姉が花瓶の花を指して言った。

「花言葉は、『希望』なんだって」

 へえ、と答えながら、恭二は花を見つめた。

「ねえ、恭二。無理することないからね。私のためでも、他の人のためでも」

 姉が改まって彼に向き合う。

「私も、我慢するの、やめる」

「え?」

「ほんとは、すごくキツかった。今日も」


 小さく笑って、姉が続けた。

「実は、さっき後輩が来てたの。恭二も会ったんでしょ。」

「もしかして、この花くれた、あの人」

「そう……何か話した?あの子、不思議な子でしょ。折角それ持ってお見舞いにきてくれたのに、怒って追い返しちゃった」

 恭二は驚いた。身内の恭二にすらあまり感情的なところを見せることのない姉が、見舞いに来た他人を追い返したとは。

「私、我慢しすぎだってあの子に言われて。でも恭二も頑張ってるのに私が弱音なんて吐けないって言ったら、そういうのは無駄な我慢だって、あの子……」

「無駄な我慢?」

「うん。そうやって私が我慢してたら、恭二も弱音吐けなくなって、二人ともがんじがらめになって仲良く共倒れだって言われて。何だか悔しくて、つい帰ってって言っちゃった」

 姉がふっとため息を吐く。

「でも、あの子の言うとおりだった。言われてみるまで全然分かってなかった。やっと今、恭二がすごく辛そうなのに気が付いた。私が張り詰めてたら、恭二も弱音吐けないよね……」

「あ……」

 恭二も理解した。いつの間にか、二人とも我慢して、互いに感情を見せないようになっていた。それぞれ、相手の頑張りを壊さないように、優しさのつもりで気持ちに蓋をし続けていた。そのせいで、結局互いの心をほぐすことすらできていなかったのだ。


「姉ちゃん……ごめん」

「ううん、私こそ」

 恭二は、このところずっと逡巡していたことを、思い切って姉に告げた。

「俺、患者会やめようと思う。あっちでやりたい人にはあっちで続けてもらって、俺は俺で、別のこと考えてみる」

 姉は安心したように頷いた。

「恭二は優しいから、周りの人のこと考えて色々遠慮してたんじゃないかと思う。でも、ずっと人に合わせてたら心が潰れちゃう。私は、恭二が思うようにしたらいいと思う。たとえ皆が間違ってるって言っても、私は応援する」

「姉ちゃん……」

「それにね、きっと私だけじゃないと思う。堂々とぶつかったら、案外あんたに付いて来る人も出てくるよ」

 恭二を後押しするように、姉が言った。

「ちゃんと自分の人生を大事にしよう。私もそうするから、恭二も遠慮しないで」


 病室の窓を彩る夕暮れ空を背に、トルコキキョウがこちらを向いたような気がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

Eustoma 由香木玲 @yukaki_rei

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ