第32話 先生のお仕事

「それで、勝負は何本勝負なんですか?」


 千春(姿は千夏)が更衣室から出てくるなり、苛立たし気に藤堂教師は問う。こんな勝負に何の意味があるのかと思っていそうである。


「竹田先生が私から一本でも取れたら竹田先生の勝ちでも私は構いませんが?」


「……そうですね。どちらか『まいった』と言った方が負けというルールにしましょう」


 千春(姿は千夏)の言葉に藤堂教師の眉根がピクリと動いた。藤堂教師にとってそれは予想外の提案だったであろう。周囲の部員たちの顔が皆青ざめていた。自ら火中に飛び込むようなものである。


「まあ、いいでしょう。すぐにその思い上がりを後悔させてあげますよ。剣道はそんなに甘いものではない」


「では、決まりですね。では準備をしますので少々お待ちを」


 一方の千春(姿は千夏)はブチ切れ寸前の藤堂教師の事など意に返さず、さっさと準備運動を始める。


「(……大分体が凝り固まってる。千夏の奴運動サボってるな。竹刀も重い、筋力が全然付いてないからか……)」


 千春はまるで品定めするかのように妹の体を準備運動しながら確かめていく。まさに借り物の体である為、無理をして怪我でもしてしまったら大事である。


 しっかりと準備運動をして千春(姿は千夏)は慣れた手つきで防具を付けていく。千春は面の紐を結びながら懐かしさを感じていた。そして久しぶりに剣道が出来ることに千春は少しわくわくしていた。


「……よし。お待たせしました。始めましょうか」


 藤堂教師は小さく頷くと自らも防具を付けて、試合会場に足を踏み入れた。


 剣道の試合は試合場と呼ばれる10メートル四方の正方形の中で行われる。中央に中心線というバツ印に貼ったテープがあり、その手前にある開始線まで選手は互いに進み竹刀の先を中心線に合わせて、蹲踞という屈んだ状態になると準備完了。あとは審判のはじめの声で試合が開始される。


「中村、お前が審判だ」


「は、はい!」


 中村と呼ばれた男子部員が赤と白の旗を持って試合会場に入ってくる。確か千夏の話しではこの中村という生徒は剣道部の主将だったと千春は記憶していた。


 通常、剣道の試合は主審1人と副審2人の計3人の審判で行われる。これは有効打突かどうかという判断を的確にするためである。剣道の試合ではただ竹刀が面、小手、胴に当たれば良いと言うものではなく、有効打突と認められなければ一本にはならない。有効打突とは「充実した気勢、適正な姿勢をもって、竹刀の打突部で打突部位を刃筋正しく打突し、 残心ある打突」というもので、つまり声が出ていなかったり、残身という打ち終わった後の姿勢が悪かったりすると一本にならなかったりするのである。


 しかし、今回のように身内だけでやるものや練習試合などでは副審までつけず主審だけでやる場合もある。今回審判は中村という主将だけでやるようだ。


 千春(姿は千夏)と藤堂教師が試合会場の中で既に準備を終えていた。あとは主審である中村主将の掛け声一つで試合が始まってしまう。


 面越しに千春(姿は千夏)と藤堂教師がにらみ合う。異様な静寂が広がっていた。主審の中村首相も思わず息を飲んだ。



「はじめ!!」



「「やあああああ!!!」」


 中村主将の声で威勢よく立ち上がる二人。道場内にいるすべての人がこれから始まるであろう藤堂教師による公開処刑を恐れた。


「めえええぇぇん!!!」


 それは一瞬の出来事であった。あまりに一瞬の出来事でそこにいる全員が事実を理解するのに数秒を要した。


「め、めんあり……」


 皆が唖然とする中、中村主将が上げた白い旗で初めて皆千春(姿が千夏)が藤堂教師から一本を取ったのだと理解できた。


「な、……んだと?」


 藤堂教師も自分が一本取られたことに驚いていた。藤堂教師も若干油断していたとはいえ、試合が始まっているのにノーガードで打たれるわけがない。つまり、それほどに千春(姿は千夏)が放った打突は鋭く、速く、正確であった。


 一本になった場合はまた両者開始線に戻り、仕切りなおすことになる。千春は内心ほっとしていた。自分が思い描いた通りではないものの、何とか体を動かすことが出来たからである。これは完全に「体が覚えている」というものの逆の状態である。千春の意識の中の経験が体を動かしている状態である。


 場内はあまりに予想外に事態にざわめき始めていた。



「は、はじめ!!」



「「やあああああ!!!」」


 再度中村主将の掛け声で試合が始まると今度は藤堂教師の方から仕掛ける。力強い打突、しかし、その打突の始動の瞬間を千春(姿は千夏)は見逃さなかった。


「こてえええぇぇ!!」


 またも鋭い一撃が藤堂教師の右手に決まった。文句のつけようがない打突である。


「こ、小手あり!」


 旗を上げた中村主将もかなり戸惑っている。いや、文句なしの一本なのだが完全に想定外に事態である。その場にいる全員が藤堂教師が一本取られるところなど今まで見たことも無かっただろう。しかも連続で二本取られるなど。普通の試合であれば既に藤堂教師の負けである。しかし、今回はどちらかがまいったと言うまで勝負が続く。


「どうしたんですか藤堂先生?早く戻って構えてください。勝負はまだ終わっていませんよ」


「ぐっ!!この……」


 藤堂教師は小娘にいいようにあしらわられて怒り心頭といった感じであった。


「(く、筋が何本かいってるな。関節も嫌な感じだし、最後までもたせなければ……)」


 しかし、千春(姿は千夏)も余裕が無かった。たった2回の打ち込みをしただけで千夏の体は悲鳴を上げていたのだ。しかし、千春に一切の躊躇は無かった。たとえこの後千夏が体の痛みで悶絶することになったとしても、千春に迷いはない。


「はじめ!!」


 三度開始の号令が発せられる。


「(お?)」


 千春(姿は千夏)は藤堂教師の雰囲気が変わったのを察した。ぶっちゃけさっきのまでの二本は藤堂教師の油断するところが大きい。しかし、今は違う。有段者特有の圧のようなものすら感じられる気迫である。じりじりと間合いを詰める動作といい絶対に逸らさない視線といい、もう千夏を初心者とは見ていないのは明白である。


「めえええん!!」


 今度は藤堂教師が飛び込んでくる、千春(姿は千夏)はそれを竹刀で受け止めるが、


「っっ!!!」


 力の差と言うものだろう。つばぜり合いになった瞬間千春(姿は千夏)の体は押し負け、後方に吹っ飛んでしまった。


 「や、やめ!」


 すぐさま審判中村主将は一旦試合を止める。場外に吹っ飛んだ千春(姿は千夏)は何とか立ち上がる。


「竹田先生!大丈夫ですか!?」


 慌てて部員たちが駆け寄る。しかし、千春(姿は千夏)大丈夫だというジェスチャーをして試合場に戻る。


「すみませんねえ、竹田先生。わざとではないのですよ。こんなに簡単に吹っ飛ぶとは思いませんでしたので」


「……ええ、問題ありません。今のは受け止められなかった私が悪いですから。さあ、続けましょう藤堂先生」


 千春(姿は千夏)は不敵な笑みを浮かべる。それを見て挑発したつもりだった藤堂教師は苦虫を嚙みつぶしたような顔で千春(姿は千夏)を睨んだ。しかし千春(姿は千夏)は全く臆することは無かった。むしろ久しぶりにやった剣道を楽しいと思った。


「(やっぱ剣道は楽しいよな)」


 千春は体中に痛みが走っていてもなお、剣道が出来る喜びを感じていた。


「はじめ!」


 再び開始の号令が発せられる。今回も慎重に間合いを詰める両者。あまりの緊張感に息を飲む部員たち。最初に仕掛けたのはまたも藤堂教師であった。


「めええええん!!」


 気合十分、見事な打ち込みだった。


「ほっ!」


 千春(姿は千夏)はこれまた見事な足さばきで藤堂教師の打ち込みを紙一重で躱す。この対格差ではつばぜり合いに持ち込まれると勝機はないと感じた千春の策であった。


「めええええん!!」


 藤堂教師の打ち込みを躱しつつ、若干相手の竹刀を上から抑え込んだ後の下がり面。一瞬でこれだけの動作を正確にするのはかなり熟練の技が必要である。そこにいた誰もがその見事な技に開いた口がふさがらない。中村主将も見とれるあまり旗を上げるのを忘れるほどであった。


「……きれい」


 試合を見ていた女子部員の一人が思わず呟いた。それほどまでに千春(姿は千夏)の動作は美しいものだった。武道において究極の到達点は真善美だという考え方がある。相手を倒すことを超越した修練の先に至る極地。武道においても洗練されたものは究極に美しいものなのである。


 そのあとも試合は一方的な展開になった。頭に血が上った藤堂教師は千春(姿は千夏)から一本も取ることが出来ないままであった。一体だれがこんな展開を予想出来たであろうか。


「まて」


 もう何十回と打ち合ったあと、突然藤堂教師は試合を中断した。藤堂教師も千春(姿は千夏)もかなり息が上がっていた。


「竹田先生、あなた剣道初心者じゃないですね。……いや、今はそんなことはどうでもいい。どうしてそんなにも強いのですか?私は生涯をかけて修練を積んできました。絶対に竹田先生の何十倍もの時間をかけて修練してきたのです。それなのに……」


 藤堂教師は構えを解いた。それを見て千春(姿は千夏)も竹刀の切っ先を降ろした。正方形の試合場の真ん中で対峙する二人。


「私から一本も取れないことが不思議ですか?」


 千春(姿は千夏)はゆっくりと口を開いた。


「まず、言っておきますが藤堂先生の技量は素晴らしいです。お世辞抜きでこれまで何十年も修練されてきたと言うことが嫌でも分かります。それなのに何故二回り近くも年下の小娘の私から一本も取れないのか、理由は明白です」


 その言葉は静まり返った道場の中で一際大きく響いた。


「私が藤堂先生よりも剣道が好きだからです」


 その言葉を聞いて藤堂教師は顔を真っ赤にして激怒した。


「ふ、ふざけるな!!好き?何の答えにもなってない!」


「いいえ、これが答えです。藤堂先生は私と比べて剣道を好きと言う気持ちで負けていたから私から一本も取れなかった。では聞きますが、藤堂先生は何のために剣道をやっているのでしょうか?」


「そんなの決まっている!試合に勝つことだ。試合に勝つために修練を積み、己自信を高めていくのだ。全ての剣道民は試合に勝つために修練を積んでいるのだ!」


 藤堂教師はかなり興奮していた。


「本当にそうでしょうか?仮に試合に勝つことだけが全てなのだとしたら、この世で剣道での勝者一人だけになってしまいませんか?そして頂点に立って一人きりになってしまったら剣道をする意味とは一体何なのでしょうか?」


「……そこまでいうなら竹田先生にとっての剣道とは何なのですか!?」


「私だって一番を目指さなくてよいなんて言うつもりもありませんし、試合に勝つと言うことも大事な要素だと思っています。でも私が剣道を好きなのは、剣道が色々なことを教えてくれるからです。文武両道の精神を教えてくれる剣道が好き。忍耐力、集中力が重要だと教えてくれる剣道が好き。剣道を通じて仲間と出会える剣道が好き。相手を重んじる心の大切さを教えてくれる剣道が大好きだからこそ、私は情熱を持って楽しく剣道が出来ると思っています」


 そう言うと千春(姿は千夏)は部員たちに向き直る。


「この中で剣道が好きだと、楽しいと胸を張って言える人は手を上げてください」


 いきなりの質問に剣道部員たちは戸惑っていた。それぞれ顔を見合わせているが最終的に一人たりとも手を上げる者はいなかった。


「……一人もいないんですね。俺はこれが悲しい。どうして好きでもないものに情熱をもって取り組めるでしょうか?藤堂先生が剣道を好きでないのに、どうして生徒が剣道を好きになることが出来るでしょうか?好きでもないものをどうして無理してまでやらないといけないのでしょうか?」


 もはや、そこにいる誰もが黙って俯いているだけだった。千春が間違って俺と言ってしまったことにも誰も気づいていなかった。千春(姿は千夏)の正論が分かるからこそ何も言えないのだろう。藤堂教師すら黙って千春(姿は千夏)の話を聞いていた。


「好きであれば情熱を持って取り組むことが出来ます。情熱を持って取り組めばきつい練習にも耐えられます。藤堂先生がきつい練習を強いらなくても生徒自ら真剣に練習に取り組むでしょう。……藤堂先生、私たちが本当にしなければならい事は生徒たちに剣道って楽しいんだよ、素晴らしいものなんだよと伝えることで剣道を好きになって貰うことなのではないですか?」


 それを聞いた藤堂教師はまるで雷に打たれたかのような衝撃を覚えた。それは今まで藤堂教師が考えもしなかったことの筈である。練習はきつくて当たり前、よりきつい練習を耐えたものが試合で結果を出すことが出来る。負けたものは練習が足りなかっただけの甘ちゃんであると教えられ続けていた藤堂教師に千春(姿は千夏)の言葉は心の奥底にまで深く突き刺さった。


「……そして皆には剣道を辞める自由がある。自分を壊してしまう前にそれを選択するのは逃げでも何でもない。でもどうかこれだけは聞いてほしい、俺からのお願いだ。どうか剣道を嫌いにならないで欲しい。剣道は素晴らしい。君たちはその素晴らしい剣道を通じて心身を鍛え、大切な仲間に出会い、己自信を成長させることが出来る。つまり君たちも素晴らしい、胸を張っていい。それだけは覚えておいてほしい」


 千春(姿は千夏)は涙を流していた。そして涙ながらに訴える千春(姿は千夏)の姿をみて生徒たちは皆泣いていた。それをみて千春は自分の思いが伝わったような気がして少し嬉しかった。


 藤堂教師は糸が切れた人形のように膝をつき項垂れたまま、絞り出すような声で告げた。


「……俺の……まけだ」


 千春(姿は千夏)はそんな藤堂教師の手を取り立ち上がるサポートをするとにっこりとほほ笑んだ。その顔は涙で赤くなっていたが最高の笑顔だったという。

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