第31話 勝負
ゆっくりと目を開けるとそこは個室のトイレの中であった。
千春(姿は千夏)はバツの悪さを感じつつもヘッドギアを外す。おもむろに個室のカギをスライドすると扉がゆっくりと内側に開いてきた。個室の外は窓から差し込む夕日で綺麗なオレンジ色に染まっていた。
ここは千夏が勤めている学校の職員トイレである。時刻は放課後。既に部活が始まっている時間だ。遠くから野球部やバレー部っぽい掛け声とか器楽部の練習の音等が聞こえてくる。
「……さて、行くか」
千春(姿は千夏)は明太子で妹を買収し、再度現実世界に戻ってきていた。
――でも千春兄さん、いくら兄さんが剣道強くても私の体じゃ剣道出来ないでしょ?どうやって藤堂先生を説得するのですか?――
現実世界に来る前に千春が千夏に言われた言葉である。確かに千夏の言う通り、千春がいくら剣道が上手かろうと体は妹の千夏なのである。どうにかして言葉で説得するほかない。
千春はう~むと腕を組んだまま考える。千夏には何とかすると言ってみたものの、これと言ったプランはまだ浮かんでいなかった。聞いた話が本当であれば藤堂教師は典型的な根性論タイプの教師である。楽しさや甘えを捨てた厳しい練習の中にこそ真の強さが宿ると信じて疑わないタイプであろうことは容易に想像がつく。そんな教師にろくに経験のない新人女教師が何を言ったところで聞き届けてもらえる可能性はゼロに等しい。
しかし、だからと言ってこのまま手をこまねいていればいつか事故が起こるまで藤堂教師は改めることは無いだろう。事故が起こってからでは遅いのに、事故が起こるまで変えることが出来ないと言うのは歯がゆい状況であった。
どうしたものかと考えながら歩いている間に千春(姿は千夏)は校舎の外に出てしまっていた。剣道場を探そうと千春(姿は千夏)はあたりを見回すが、聞いたことのある音がすぐに耳に入る。
「……あそこか」
それは聞き間違えようがない音である。竹刀の音、足さばきの音が千春(姿は千夏)の右斜め上方のグランドへと続く坂の途中にそれらしき建物があった。
千春(姿は千夏)は導かれるようにその場所に向かった。
近くまで行くと中で防具を付けて練習をする剣道部員たちの姿が見えた。千春(姿は千夏)は開け放たれた扉の前まで進む。
「何度言ったら分かるんかお前は!!」
千春(姿は千夏)がその扉の前に立った瞬間、藤堂教師の怒号と蹴り飛ばされた男子部員が目の前に転がってきた。衝撃映像である。それまで千春は何とか説得する方法を頭を捻って考えていたのだが、
その瞬間千春は頭に血が上ってしまった。
「……剣道って足で相手を蹴り飛ばすスポーツでしたっけ、ねえ藤堂先生?」
千春(姿は千夏)は咳き込む男子部員を助け起こすと藤堂教師を睨みつけた。
「誰かと思えば竹田先生ですか。先日、剣道場には立ち入り禁止だと言ったはずですが?」
藤堂教師は悪びれもせず答える。
「大丈夫?防具を外して安静にした方がいい」
「うっ、……え?竹田先生、なんで……」
男子部員は千夏の姿を見て驚いた表情を見せる。その部員の垂れネームには大島と書かれていた。
「大袈裟ですね……、胴を付けているのだから大したことないだろう大島!さっさと立たんか!」
「うっ」
大島と言う部員が無理して立とうとするのを千春(姿は千夏)腕で制した。
「……なんですか竹田先生。練習の邪魔をしないで貰えますかね」
「こんなのは練習とは言えません。厳しいのは結構ですが、私にはただのしごきにしか見えませんでしたが」
千春(姿は千夏)は一歩も引くことなく言い放った。部員たちは明らかにハラハラとして成り行きを見守っていた。恐ろしい藤堂教師に立てつく者など今まで生徒であろうが教師であろうが存在しなかったのである。これから恐ろしいことが起こると言うのはそこにいる誰もが想像できたことだろう。
「竹田先生、あなたは一体何がしたいんですか?本当にこれ以上は校長に報告せざるを得ませんが」
「別に報告して頂いて構いません」
周囲がざわっとする。千春(姿は千夏)の怖いもの知らずの言動に周囲はハラハラしっぱなしだ。何回も剣道部を全国大会に導いている藤堂教師は校長からの信頼も厚い。藤堂教師が校長に進言すれば事の真偽と関係なく千夏に厳しい処分が下ることはほぼ間違いないだろう。
「勝負しませんか藤堂先生?」
「勝負?」
千春(姿は千夏)はすたすたと藤堂教師の前まで移動すると藤堂教師の目をまっすぐ正面から見据えた。
「私が勝てば指導方針と練習内容を見直してください。少なくともこまめな水分補給をすることと竹刀や足で部員たちを殴ったり蹴ったりなどは辞めて頂きます。藤堂教師が勝った場合、私はもう藤堂先生の指導に口を出しません。校長に報告も好きにしていただいて構いません」
「馬鹿馬鹿しい。何故私がそんな勝負をしなければならないのですか」
「……怖いですか?」
「何……?」
めちゃくちゃ挑発する千春(姿は千夏)に周囲は戦慄する。いつもおどおどとしている千夏とは別人のような言動に皆驚いていた。まあ、本当に別人なのだが。
藤堂教師の額に青筋が浮かんでいる。
「ろくに剣道の経験もない小娘に負けるのが怖いですか?」
「……竹田先生、まさか本気で私に勝てるとでも思っているのですか?」
「勝てます。この程度の指導しか出来ない方に負けるわけありませんから」
千春(姿は千夏)の啖呵に藤堂教師はブチ切れ寸前であった。もはやいつ額の青筋からピューと血が噴き出してもおかしくないのではないかというレベルであった。
「すみませんが、どなたか余っている道着を貸して頂けませんか?」
「……安田、世話してやれ」
「は、はい!」
安田と呼ばれた女子部員は恐る恐るといった感じで千春(姿は千夏)を更衣室に案内する。
「……竹田先生、そっちは男子更衣室ですが」
「え!?あ、ごめん!間違えた……」
つい、男子更衣室に入ろうとしてしまう千春(姿は千夏)。女子トイレもそうだが、女子更衣室に入るのはいささかの抵抗がある千春(姿は千夏)はなるべく中を見ないように心に誓いながら女子更衣室に入る。
「先生ヤバいって、今からでも謝った方がいいよ。殺されちゃうよ」
道着を準備してくれながら安田という女子部員は青ざめた顔で千春(姿は千夏)をたしなめる。千春(姿は千夏)は予備の道着に袖を通しながら安田という女子部員を見る。
「安田さんだっけ?剣道は楽しい?」
「え?……えと、楽しい?剣道は楽しむためにやるものではないと思いますが」
「私の兄だったら一秒で楽しい!と答えたと思うよ」
千春(姿は千夏)慣れた動作で道着を着ると安田の肩に手を置いて微笑んだ。
「大丈夫、おれ……じゃない、私に任せて」
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