魔法使いの導き -4
穏やかで、静かな海だった。
呪いか否かはともかく、近づくと実害があるという海域一帯は航行する他の船もない。時折現れる朽ちた建物だけが残る小島は、すでに住人がいないのであろう。寂寥感のあるそれですら、どことなくのんびりとした風景に移るのだから、呪われた島へ向かっているなんて嘘みたいだ。
波のはじけるような音、櫂が水面を叩く音。漕ぐ度に櫂が船体とぶつかる規則的な音も、耳に心地いい。
「気持ちいい」
エルダが思わず口走る。すぐに発言を恥じるかのようにして、口元を押さえた。
気持ちはわかる。
「良い天気だしね」
お日様の力とはかくも偉大である。オリバーも状況を脇に追いやって答えた。
「この辺まではね、楽なものです。このあたりの海域に執着しなくても他の場所で海の恩恵に預かれますから、皆さんわざわざこの辺に船を出しませんけれど。実際には、レイラ島が視界に入るくらいまでは大丈夫なんですよ」
船首側の席で船を漕いでいるトーラスのすぐ後ろ、船首に一人でオリバーは座っていた。トーラスはレナードよりも細身だけれど、それでも二本の櫂を捌く腕と肩、背中は力強かった。それでいて何の気負いも感じさせない動作。
勿論慣れているのだろうけど、ふとした疑問がオリバーの頭に沸き起こる。
「トーラスさん、この船って少し魔法で動かしてます?」
魔法は何でもありではないと言っていたけれど、それくらいならできるんじゃないだろうかという気がして尋ねる。
「いいえ。こんな穏やかな波の時にそんな手抜きしません。自分の力で動かせる時しか船は出しませんし、船を制御するために魔法を使うのは緊急時くらいですよ」
手を休めることなく、トーラスは答えた。
「手で漕いで海を渡れるなら、はじまり島にたどり着くのに魔法を使うわけじゃないの?島に入る時に、魔法が必要とか」
魔法の出番がないなら、トーラスを頼る必要はないのではないか。それとも魔法とは別のところで、レイラ島の住人であるこの人の力が必要なんだろうか。
「まあ、僕である必要はないのかもしれませんね。でも、例えばアデイルには厳しいでしょう。島に近づくには呪いに対抗できる力が必要ですので」
「対抗できる力?」
「なんていうか、実力行使です」
はあ、と気の抜けた返事しかできなかった。わけがわからなくて。
「トーラスさん、代わりましょうか」
暫く進んだところで、レナードが漕ぎ手の交代を申し出た。トーラスは少し考えるようにして、
「オリバー君、漕いでみます?」
後ろにいるオリバーを振り返りながら言った。
「あ、でも船くらい漕いだことありますかね」
「いや、俺もライエも船は持ってないし。どこかに渡してもらう時も自分じゃ漕がないんで」
海と船が生活に根付いていても、誰でも船を所有しているわけではないのだ。それで仕事をしているか、頻繁にヴェルレステの外に出かける機会がある人でなければ船を持っている方が少ない。渡し船の類は、それで稼いでいる人がいる限りオリバーは客になるばかりだ。
「ああ、やってみても良いかもな。経験、経験」
レナードも一緒になってオリバーに漕ぎ手を勧める。
「レナード先生、漕いだことある?」
「操船くらいは、ある程度身につけてるよ」
「ちょっとやってみたい、かも」
オリバーはトーラスと席を代わる。
「まずは一本任せてみましょうか。もう一本はレナードさん。息を合わせるのは、それはそれで難しいですけどね」
「俺もそっちに行く」
船尾に一人で座っていたレナードは、ゆっくり腰を浮かせて低い姿勢のまま動いた。船首側で船を漕いでいるトーラスと代わるには、船尾側で二人並んで座っているエルダとフランチェスカを越えなければならない。
道を空けようと、フランチェスカが腰を浮かす。
「フランチェスカは座っていて」
怪我をした己が侍女を気遣って、エルダが通り道を空けるため立ち上がろうとした。フランチェスカに止められる前に、素早く動こうとしたのだろうか。急な動きをして、エルダは揺れる足場に安定を崩す。
危ない、と咄嗟に手を伸ばしそうになったオリバーは、エルダの手が反射的に何かにすがろうとして、不自然な動きでそれを引っ込めたのに気づく。胸元に引き寄せられた両の腕には、鎖のような文字。
エルダはそのまま転んでしまった。船体が大きく揺れる。
「エルダ王女!」
フランチェスカは身を乗り出して、エルダの前にひざまずいた。触れない距離で、心配そうに顔を覗き込む。
「私は平気。それよりひどく揺らしちゃった」
レナードも視線だけでエルダの様子を確認する。
「船は大丈夫です。それより妙な転び方をしましたね、どこか変なところを打ったりしていませんか」
その様子を眺めながら、客船で襲われた時と逆だな、と思う。
あの時は、転びそうになったオリバーに手を伸ばそうとして、エルダは腕を縛られた。今はエルダが転びそうになって、また呪いに拘束されてはたまらないと気付いたのだろう。咄嗟に助けを求めることをやめた。
自分たちは、助け合うことができない
(そんなこと)
「エルダ」
体勢を立て直そうとしていたエルダに、オリバーは手を伸ばした。
触れられないことは、分かっているけれど。
「こっちの一本、エルダが漕いで」
自分の右側、二本の櫂のうち一本をエルダに任せよう。
自分よりもずっと身分の高い人間へ命じることになるのだが、この旅では自分たちは対等であっていい。
助け合うことが、できるはずなのだから。
「そんな、王女が力仕事なんて」
フランチェスカの言葉を、レナードが遮る。
「漕ぐ力が同じくらいの方が、安定しますしね。オリバーとエルダ王女なら、まだそんなに力の差がないでしょうから」
「私、やったことない」
「それは俺も」
エルダは戸惑うように視線をさまよわせてから、深呼吸するように息を吐く。
「うまくできないかもしれないけど」
細い腕を差し出して、エルダは櫂を受け取った。
二人で並んで座って、恐る恐る櫂を漕ぐ。
「腕だけじゃなくて、腰から上の体を大きく動かして」
トーラスの助言を受けて試そうとするが、そう簡単にはうまくいかない。体の動かし方も揃わないし、櫂の軌道もばらばら。派手に水しぶきを飛ばしてしまう。
「はい。いち、にー、いち、にー」
オリバーたちが苦戦していると、トーラスが掛け声を入れてくれた。愉快そうな合いの手に、歩き始めた子ども扱いじゃなかろうかと思ってしまう。けれど声に合わせて櫂を漕いでいると、次第に航行が安定し始めた。
櫂を水面に差して、抜いて。円を描くように漕ぐ。
「いち、にー」
オリバーとエルダ、二人で声を合わせて、呼吸を合わせて。
「お、うまくなってきた」
「本当に」
レナードとフランチェスカにも見守られながら、オリバーとエルダは船を漕ぐ。
「オリバー、ちょっとだけ力を緩めてくれないかな。私、それ以上だとついていけない」
「え、そう?」
「うん。やっぱりオリバーの方が力あるよ」
少しだけ手の力を抜く。
まだまだ未熟で子どもである自分だけど、エルダよりは大きくて力のある手。それが少しだけ誇らしいと同時に、なにか責務のようなものを負っている気分になる。
「お疲れ様です。この辺で僕とレナードさんと代わりましょう」
腕がしびれてきた辺りで、交代の声がかかった。今度は慎重に席を移動する。
「手が痛くなっちゃった」
エルダは小さな両手をひらひらとさせた。
「でも、嬉しい」
そう言ってエルダだは、赤くなった手のひらを胸の前で組んだ。
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