船上の襲撃者 -3
手燭の灯りが、ゆらりと揺れる。
「非常用縄梯子を収納した箱の裏。もうわかっているから、出てきたらいかがです」
木箱の陰からは、返事も姿もない。オリバーは息を飲んだ。
「わたくし達に何かご用ですか」
誰何の声ははっきりと、そして冷たい。
「ただの物盗りか何かなら、船員に突き出すだけで勘弁してあげても構いませんよ」
フランチェスカが大きく踏み出すと同時に、彼女の言葉通りの場所から影が飛び出す。床に落ちて消える手燭、金属のぶつかる音。
「……あなたがただのコソ泥だとしても、もうどうでもいいです。この部屋に、私達に刃を向けたということだけが事実」
影が握る刃物を、フランチェスカが小さな剣で受け止めていた。
「今すぐ甲板に出て、そのまま海に飛び込みなさい!」
襲い来る襲撃者を、フランチェスカは細腕で押しとどめていた。オリバーは慌てて部屋に飛び込む。
「レナード先生、助けて!」
部屋の中では、レナードがエルダをかばうようにして剣を構えていた。勢いあまったオリバーは、入り口でつんのめる。
(転ぶ!)
「ひゃ!」
エルダの小さな悲鳴が聞こえた。転倒したオリバーは、何事かと顔を上げる。
エルダの腕が、文字で縛られていた。
「え……」
「いいから早く立て!」
レナードに怒鳴られ、我に返る。
「フラン!」
膝をついたまま、背後を振り返る。傾いだフランチェスカの右肩が、真っ赤に染まっていた。
「フランチェスカさん!」
フランチェスカが、短刀を取り落とす。
(剣……)
自分だって持っている。
戦うことのできる剣があるじゃないか!
立ち上がり、レナードから授かった剣を腰から抜いた。
膝から崩れたフランチェスカの脇をすり抜けて、襲撃者はこちらとの距離を詰める。黒装束に身を包んだその姿は、まさしく影そのものだった。布でも巻いているのか、頭巾でも被っているのか、顔もわからない。
「来るな!」
恫喝したつもりの声は震えた。
頭の中で稽古を反芻することも、体で覚えたはずの剣術も出てこない。
身に余ると思っていた剣はやはり重く、柄を握り込んだ手は汗がにじんだ。
相手が素早い動きで突っ込んでくる。オリバーは思わず避けて、そんな自分の愚かさに一瞬で頭に血が上った。避けてどうする!
「あああ!」
興奮のまま、剣を振り下ろした。剣先がわずかに襲撃者の右手に届き、手首に赤く一筋入った。あまりに浅い一太刀は、相手の腕どころか剣を叩き落とすことすら敵わなかったけれど。
「……っ」
小さな呻き声と共に、影の動きが止まる。
「一瞬、隙を作ったな。よく頑張った、オリバー」
レナードの剣が、襲撃者の首に正確に狙いを定めていた。
「コソ泥だか反逆者だか知らねえけど」
ただで済むと思うなよ。
レナードは底冷えのする声で、うなだれた影に断罪の言葉を突きつけた。
「エルダ」
床に座り込んでしまったエルダに手を伸べようとして、いまだに彼女を縛る手首の文字が目に入った。エルダに己の手が届かないことを思い出し、声だけをかける。
「オリバー。大丈夫?」
エルダの顔は蒼白していた。オリバー自身、立っているのがやっとなくらい、膝が震えている。
「俺は、なんとも。でも、フランチェスカさんが」
部屋の外では、傷を負ったフランチェスカをレナードが介抱していた。その脇に、襲撃者が転がされている。
制圧された襲撃者は両足と、腕を後ろ手に縛られて拘束されていた。口も布を噛まされていて、レナード曰く、『舌でも噛み切られたら困る』ということだった。この者が、死を選んででも情報を秘匿するほどの目的を持っているのか、それとも本当にただの物盗りか、通り悪魔のような凶行だったのかはわからない。
「私は大丈夫だから。お二人の安全の確保と、犯人への対処を」
「大丈夫なわけあるか。とりあえず、二人も連れて船医のとこ行くぞ」
右肩に押し付けた止血の布を赤く染めながら、フランチェスカはレナードに抱えられる。
「行こう、エルダ。立てる?」
けれどエルダは唇をわななかせて、うなだれてしまった
触れることのできないエルダの力ない姿に、どうしたものかと思案していると、部屋の外の気配が増えた。廊下が騒がしかったので、隣室の客が様子を覗きにきたらしかった。何かあったんですか、と混乱した風な隣人の声に、レナードが返す。
「強盗に襲われた。すみませんが船員を数人と、船医も連れて来てもらえませんか」
レナードの言葉に、隣人は慌てた様子で廊下を駆けて行く。
「一度、人の手を借りよう。船乗りってのは屈強で、船内の規律を乱す人間には容赦がないから、まあ逃げられやしないだろう」
そうこうしているうちに、夜中の船内はにわかに騒がしくなった。
フランチェスカは船医がその場で診立てた後、すぐに医務室に運ばれて行った。襲撃者は連行されていき、船室のある区域の出入り口には、船員が配置される。
「これでもし新手が来たとしても、そうそう物騒な真似はできないとは思うけど」
エルダはまだ床に座り込んだままだった。あまり無理に歩かせたくなくて、フランチェスカのところにはまだ行けそうにない。
「ねえ、フランチェスカさんのところに」
『レナード先生だけで行って来たら』と、『エルダのことは任せて』と言いたかった。けれど拭いきれない不安に、言葉が継げない。
オリバーはそっと息を吸った。
「フランチェスカさんのところに行ってきなよ、レナード先生。エルダと二人で留守番してるからさ」
それでも咄嗟に剣を抜けなかった、自分の情けなさに立ち向かいたかった。
目を合わせた師との間に、一瞬の沈黙が流れて。
「……この状況なら、今夜はさすがにもう何もないと思うけど。俺が戻るまで、絶対に部屋を出ないこと。鍵を開けないこと」
レナードは一通り部屋の中と周囲を確認してから、部屋を出て行った。
扉を閉める時に、
「あとは頼んだ」
と言い残して去って行く。オリバーはすぐに、小さな閂錠をかけた。かちゃんと小さな音を立てた内鍵は金具同士しっかりとかみ合って、けれどそれでも心許ない。オリバーは息を吐いた。
「エルダ、少し落ち着いた?」
かがんで少しでも目線が近づくように。けれどうなだれた顔を覗き込むことまではできなかった。
「……立てないの」
「え?」
「足が震えて、立てないの」
冷たい床の上の、細く、頼りない足。
「オリバーやレナードが、私のことを褒めてくれたの、嬉しかった。自分は呪われているけれど、それでも進もうって。精いっぱい頑張ろうって思えたの」
前を向こうとしていたエルダ。
そんな姿に、オリバーは励まされた。
「だけど結局、立っていることすらできない。どんなに怖くても、理不尽な目にあっても。折れたくなかった、立っていたかったのに」
けれどエルダは、やっぱり一人の小さな女の子で。
「私ね、オリバーが転びそうになった時、思わず手を伸ばしたの。そうしたら、呪いが発動して」
あの時、オリバーとエルダの間には距離があったし、レナードだって間にいた。エルダの手が自由だったとしても届かなかっただろう。それでも呪いは、誰かに手を差し伸べようとしただけでエルダを縛り付けた。
「オリバーも助けられない、怪我をしたフランチェスカも支えられない。剣を握ったって、もしはずみか何かで呪いに腕を封じられたら、戦うことなんてできなくなっちゃう」
小さな肩は震えている。
「こんな呪われた手を抱えて、足まで使い物にならなくて。私はどこまで何もできない人間なの?」
泣いているのかはわからない。両の手は拳を握って、血の管が浮かび上がるほど。
「俺だって、ほとんどなんにもできなかった。もっと早く剣を抜いてたら、フランチェスカさんだってあんな怪我しなかったかもしれないのに」
剣術を習っただけじゃ駄目だった。レナードの背中を見てきただけじゃ駄目だった。初めての実戦になったからと言い訳したって、あんなにも傷ついた人がいて、なんのための剣。
「オリバーは頑張ったじゃない。レナードだって褒めてた」
「エルダだって、ずっと頑張ってたよ」
こんな風に慰め合って、何かが解決するわけでもないだろう。けれど己の無力さに打ちのめされた同士、せめて相手の心は救ってあげたかった。
「かっこつけて、レナード先生に留守番してるなんて言ったけどさ。二人になると、心細いな」
「だけど私、オリバーがいてくれるだけでも嬉しいよ。私を支えてくれる人がいるってことが、心強い」
「……うん。俺、弱いかもしれないけど。頑張るよ」
腰に納めなおした剣。
ライエが、心まで強くあれと願って勧めてくれた剣術。
エルダを守る、とまでは胸を張れなかった。
自分の決意だけで、大切なものを託してくれというのは勇気がいる。
それでも強くありたいと、オリバーは切実に願った。
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