夜の中で出逢った少女 -3
「俺の、お母さん?」
どこかにいる、自分の家族。
それを想像したことがないわけではなかった。ただ、ライエとの生活は十分満たされていたから、思い切り焦がれたことも、求めたこともなかったけれど。
「言っただろう。私はあんたを預かっているだけだって」
ライエが度々示す明確な線引きは、実際に共に暮らしていると、真実がどうであれ構わないと思うことの方が多かった。自分がどういう立場の子どもであれ、ライエの態度も愛情も――そう、確かにオリバーはライエからの愛情を感じていたから――変わるものではないだろう。
ライエがそういうなら、それはそれでいい。よその子であったって、本当の母親がどこにいるんだって、なんだっていい。
「ねえオリバー。あんたもレイラ島に行きなさい」
だからライエの提案を聞いた時、オリバーの心臓は大きく飛び跳ねた。
「どうだろう。エルダ、レナード。オリバーを一緒に連れて行くのは、問題あるだろうかね」
「えっと……。オリバー、さんの事情も分かるけれど。こちらの都合に巻き込むようなことになりかねないし、私たちも配慮できないかもしれないし……。ああでも、呪いのことを考えると、私たちは同じ立場とも言えるのだし」
二人が会話を続けるのを遮って、オリバーは声を上げた。
「俺、行くなんて言ってない!」
「あんただって、呪いの被害者なんだよ。エルダの受けているものとは性質が違うとはいえ、あんたの呪いを解く鍵だって、レイラ島にあるのは一緒なんだから」
「別に記憶がなくったって、困ってない」
オリバーは首を振った。過去にこだわるのをやめたって良い。今の生活があればいい。
「母親に会いたくないのかい」
「別に良い。ライエがこの家に俺を置いてくれれば、ライエが……」
あなたが母であれば、それでいい。
多分、ずっとそう思っていた。そう言いたかった。なのに。
「私はオリバーの母親じゃない」
返ってきた言葉は、刃物のように冷たかった。
泣きたいのか怒りたいのか、頭が考えるのを拒否し始めたところで、肩に痛みが走る。
「私は誓ったんだ。預かったオリバーをちゃんと育てて、何があっても無事に母親のもとに返すって」
指先が震えるほどの強い力で、ライエがオリバーの肩を掴んでいた。
「本当は、私がオリバーをアデイルのところに送り届けてやりたい。だけどね、エルダの頼みだってあるからね」
きっとアデイルというのが、オリバーの母親の名前なのだろう。初めて聞く名に、郷愁も親しみも何もありはしないけれど。ライエがその人に強い思いを抱いていることだけは、オリバーにもよく分かった。
「行っておいで。オリバーの記憶と、家族を取り戻しに」
「……行くけど、帰ってくるからね」
小さな声で、少し拗ねたような口ぶりで返すと、ライエはオリバーの額を一撫でして。
「待ってるよ」
アデイルと一緒に、帰っておいで。
そう言うライエの穏やかな笑顔は、やっぱり母親の美しさだなと、オリバーは思うのだった。
「夜明けに出港する船に乗る。だからこんな時間だけど、ライエを訪ねたわけだ。王妃のことを頼んで、道中の薬類を見繕ってもらおうと思ってな」
「わかった、すぐ用意するから」
エルダとレナードと共に、レイラ島へ行くとは決めたオリバーだった。けれど寝る前には全く考えもしていなかった急な展開に、目の前で進む旅支度をまだ他人事のように見ているしかできない。
「ライエ、オリバーの荷物は?」
「今、揃えてしまうよ。あと、レイラ島へ上陸する手段だけど、まずは……」
オリバーの分の荷物もライエとレナードに詰めてもらった。なんだか小さな子どものようだけれど仕方がない。海原へ出たことなど、ないのだから。
「オリバーさん」
手伝うことも見当たらず成り行きを見守っていると、エルダから声を掛けられた。本来なら声の届かぬ雲上の存在から呼びかけられて、オリバーは慌てて返す。
「はいっ」
「あの、そんなに気を張らなくても……」
「いえ、そんな。エルダ王女こそ、ほんと、俺のことなんか呼び捨てで構わないんで。ライエとかレナード先生のことも、呼び捨ててるんだし」
「それは二人と初めて逢った時に、私が幼くて礼儀がなってなかったからで……。そのままで来てしまったというか」
それはわからないでもない。オリバーだって、礼儀作法など知らないうちに出逢ったライエは呼び捨てているし、それ以前に、家族のように過ごしてきたし。レナードのことは先生と呼んでこそいるものの、時を経てずいぶんと気安くなってしまった。その気安さに込められた親愛はとても心地の良いものなので、正すものでもないと思っている。
「堅っ苦しいのは、この先の道中もたないよ」
ライエは背嚢をよこしながら言った。
「あんたたち、年も近いんだし、こんな丘の上の魔女の家で出逢ったんだ。王宮の舞踏会でもあるまいし、取り繕うような場所じゃないだろうに」
「場所が変わったって、王女様は王女様だろ。失礼のないようにしないと」
「じゃあオリバー、あんた宮中の礼儀作法なんてわかるのかい」
う、と一瞬言葉に詰まるが、オリバーはすぐに言い返す。
「宮中の作法は知らないけど、舞踏の方ならできる!」
今、問題にしているのは舞踏会のことではないのだが。自分の無知をからかわれたような気がしたオリバーは脱線を続けた。
「散々ライエに叩きこまれたんだから」
年に一度の豊漁祭では、街のあちこちで賑やかな楽曲と踊りの輪が生まれる。一緒に舞い踊った者同士、特に男女は祭りをきっかけに親しい間柄になることも多い。出逢いや特別な相手を求める者は、祭りの舞踏を絶好の契機ととらえるのだ。
ライエは毎年のように、魔女への好奇心だったり度胸試しだったり、そして何よりお近づきになりたいという下心だったりで、多くの男たちから踊りの相手に誘われる。それをいちいち断るのが面倒だということで、オリバーを相手に踊ることで誘いを回避していた。そのため、オリバーはこと舞踏に関しては、誘いの礼儀から終曲の作法まできっちり覚えている。
「これ持ってて」
背嚢をライエにつき返し、オリバーはエルダの方を向き直った。
背筋を伸ばして、顎を引く。胸の前に置いた手の指は真っすぐと揃えて、軽くお辞儀をした。エルダに向かってそっと手を差し出す。
エルダは困ったように笑った。
「ごめんなさい。できないの」
その言葉に、我に返る。
あまりにも身分不相応なことをしている。それでなくても、遊んでいる場合ではないというのに。
「あの、すみませ……」
言い切る前に、エルダの手が伸びてきた。差し出したのに行き場を無くしたオリバーの手のひらに、エルダの指先が近づいた、その時。
「わ!」
文字が躍った、ように見えた。
エルダの両腕に刻まれた文字が、彼女の腕の周りで暴れていた。文字はまるで羽虫のように、せわしなくエルダの手元で飛び交っている。そのうち文字は鎖のように繋がり合い、両腕を一つにして巻き付いてしまった。
「これが私にかけられた呪い」
エルダの二本の腕は両手首でくっつきあうような格好で、文字の鎖に拘束されていた。
「普段はちゃんと腕も動くし、両腕は離れているのだけれど。人と触れ合おうとすると、文字に縛り上げられてしまうの」
囚われた両腕は離れることを諦めたように、一つになったまま。エルダはだらりと両腕を体の前に垂らした。
「だから私、踊ったことも手を繋いだことも。誰かに抱きしめてもらったこともないの」
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