夜の中で出逢った少女
夜の中で出逢った少女 -1
ヴェルレステ城は、黄昏時が最も美しいという。真昼の白い光に輝く様も神々しいが、夕暮れに染まる城は実に素晴らしいものだった。
夕日に照らされた城壁が、柔らかな橙色に染め上げられる。人々が幸福な我が家の灯りを思い出すような、温かな色だ。それは暗い夜がやって来る前の、ひと時の事。
陽の光まばゆい昼と、闇が支配する夜の、そのあわいの時間。
落日に照る王城、その内部。
窓から差す西日が強烈な分、物陰に濃く落ちた影の中で。一人の女がしきりに手を払うような仕草を繰り返していた。
「ああ……おやめ、おやめったら!なんておぞましい、来るな、来るな!」
半ば狂乱した、ほとんど悲鳴に近い声を上げる女がいるのは、城内でもひときわ高貴な部屋だった。手入れの行き届いた部屋は美しく保たれていて、その部屋の主である女も、その場に相応しい身なりと容貌をしている。
女が身につける藤紫色の衣服も、それが包む白い肌も、一点の穢れもない。
けれどその藤紫色の衣、その腹のあたりを、無数の黒い虫が這っていた。それを追い払おうとする白い手にも虫がとりついて、女は無我夢中で身をよじる。
「これは魔女の呪い、呪われた子どもの災い!」
女は己が手を掲げて、手のひらに蠢く無数の虫を確認する。
ぞろぞろと自身の身体を覆うそれは、虫ではなかった。
大量の文字が、虫のように這い回っていた。
「呪われた子どもに殺される!そのようなこと、あってなるものか!」
扉の向こうから、慌ただしく何者かが駆けつけてくる音がした。
「何事ですか!」
大きな音を立てて、部屋の扉が開く。人に命令することに慣れ切った口ぶりで、女は叫んだ。
「呪われたあの子どもを、殺しなさいッ!」
「王妃様⁉」
憎悪を叩きつけられた傍仕えの侍女は、驚愕に声を上擦らせた。
寝支度を整えながら、オリバーは頭の中で今日一日を振り返っていた。
嫌なことがあった。けれど良いこともあって、ひと悶着あった後にレナードが屋台の揚げ菓子をご馳走してくれた。あの時レナードは、ライエに頼んでいた薬草を受け取っていなかったからと追いかけて来てくれたのだった。渡し忘れたのはオリバーの落ち度だったのだけれど、レナードは何も言わずにお菓子をおごってくれた。小さくて丸っこい、狐色に揚がったほんのり甘いそれを食べたら、少し肩の力が抜けた。
家に帰れば昼ご飯も夕ご飯もいつもと変わらない献立で、夕飯に食べた魚とジャガイモの重ね焼きは、どこまでも口に馴染む味。喧嘩のことはライエに話さなかったけれど、薬草を渡し忘れていたことを白状したら案の定お小言を食らって。けれどそれもいつものことだ。
寝間着に着替えようと、寝台の上に畳んだそれに手を伸ばす。
(……あれ)
寝間着を手にしたところで、頭の片隅がじんわりと熱くなった気がした。気のせいかとやり過ごそうとした頭の違和感はしかし、急激に存在を増して、痛みとなってオリバーを襲った。
「っ⁈」
寝台に倒れ込んで、頭を抱えて歯を食いしばる。息が止まるようだった。得体のしれない痛みから自分を守るように、体を丸めた。
「っああ!」
耐えがたい苦痛に声を上げる。唸りながら、心の中で何度も痛みが遠ざかるように祈れども、苦痛は一向に収まらない。
(ライエ)
助けを求めようと、必死の思いで寝台から身を起こした。おぼつかない足取りで、よろよろと寝室の出口を目指す。
辿り着いた扉は、いつものように軽く開いた。それでも重い体を引きずって到達したオリバーにとっては、まるで違う世界の扉を開いたかのように感じられて――。
「……誰?」
扉を開いた先に、小さな人影があった。
食卓の上に置かれた灯りに照らされた姿。
少ない光では顔まではわからない。ただ、流れるような長い髪を見て、女の子だと思った。
少女は初夏だというのに、膝まで丈のある長い外套で上半身をすっかり覆っている。そのたっぷりとした生地の装いに反して、その背中は頼りなく貧相に見えた。自分が今、不安な状態で仕方ないからそう見えるのかもしれない。だけど外套の裾からさらされた二本の足は、あまりにも細い。左右に振り分けて結ばれた長い金の髪までも、色の薄さも相まって枯れ草が揺れるようだった。
「あっ……!」
唐突に声を上げて、少女が身を縮める。同時に、オリバーの頭の痛みも強まって、思わずその場に崩れ落ちた。
「オリバー、エルダ!」
ライエの叫ぶ声が聞こえた。何とか顔を上げると、ライエがオリバーの身を案ずる表情でしゃがみこんでいた。
「大丈夫かい」
「うー……」
唸り声を出すのがやっとだったが、先ほどの強烈な痛みを最後に徐々に苦痛は収まっていった。
「大、丈夫」
息を整えながら言うと、ライエは目元を和ませた。
「エルダとの接触で、一時的に魔力が反応しただけだね。もうそれほど強い反応は出ないだろう」
(エルダ?)
聞き覚えのある名前だった。けれど心当たりのある名前があまりに大層なものだったので、結び付けることもなく少女の方に視線をやる。
少女の傍らに人影があった。オリバーがライエに支えられたように、その人影も少女を気遣う様に寄り添っている。
「……レナード先生?」
見知った顔に、オリバーは瞬きをした。
「おう、オリバー。大丈夫か」
見知らぬ少女とレナードが並び立つ光景に、苦しみから解放されたばかりのオリバーは理解が追いつかない。
「えっと、何、なんなの?」
「そうだね。とりあえずもう少し、詳しい話を聞かせてもらおうじゃないの」
そういうと、ライエは食卓の手燭に手をかざした。明かりが四人分の顔を照らすほどに大きくなる。
灯りに浮かび上がった少女の顔。年のころはオリバーと同じくらいだろう。足と同じく細い首に乗った頭はやはり小さく、顔色も悪く見えた。それは単に明かりの加減かもしれないし、先ほどの様子からすると、オリバーと同じように痛い思いをした直後だからかもしれない。ただ、その繊細さの一方で、緑の瞳は強い光を宿しているように感じた。
「夜分にごめんなさい、ライエ」
少女は口を開いた。謝罪の言葉だからか、それとも切迫した事情があるのか、重い口ぶりだった。
「突然の訪問なのは、何か事情があってのことかい」
ライエの問いに、少女はゆっくりと答えた。
「呪いが、また害を成そうとしている」
呪い。昼間の諍いのもとになった原因の一つに、オリバーは眉根を寄せる。
「何か障りがあったのかい?オリバーは今の反応以外に、特に何もなかったみたいだけど」
突然自分を引き合いに出される。思わず口を出したくなったが、何を問うべきかわからず黙っているだけだった。
「私もいつも通りの支障以外には、何も。ただ、お母様が」
「王妃が?」
ライエの言葉に、耳を疑う。王妃だって?
「お母様、今、王の尊い子を宿していらっしゃるの。その身に、呪いがまとわりついて」
「ああ、そういうこと。今度は生まれる前からってことね」
厄介なこと、とライエは呆れたように息を吐いた。
「ちょっと待ってよ」
ようやく口を挟んで、オリバーは言った。
「呪いとか、その辺も気になるけど、それよりも。王妃とか、王の子とか、それってつまり、ちょっと待って、それって」
少女が王妃の現状をよく知っていて、その人を『お母様』と呼ぶのだとしたら。
「ごめんなさい。名乗りもせずに」
少女はオリバーの方へと向き直る。特に礼の姿勢のようなものはとらず、ただ真っすぐオリバーの方を見て。
「私はエルダ・ルイーザ・ヴェルレステ。ヴェルレステ国の第一王女」
その名と出自を名乗った。
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