千尋の海(四)

 本隊へ合流するために退こうとしていた平家の舟に乗せてもらい、玉虫は教経の姿を探し続けた。異様な姿の玉虫を、武者たちは遠巻きに見ている。


 そのうち、玉虫の目が教経をとらえた。赤地錦の直垂を着て、唐綾縅の鎧をつける教経は、鬼神ですら打ち払いそうな覇気を轟かせて立っている。


 けれど、太刀を抜き、大長刀の鞘もはらっているところを見ると、すでに矢は尽きているようだった。


「教経さま!」


 教経へ矢を射かけようとする源氏の兵へ、玉虫もこちらから矢を放った。足を射抜かれた兵が、海へ転げ落ちていく。


 玉虫を見た教経は、あっと驚き、そして怒りに眉を吊りあげた。


 舟が近づくと熊手で引っかけて固定し、玉虫は教経の舟へ渡ろうとした。ところが教経は、長刀を突きつけてそれを止めた。


「来るな!」


 海も割れるかと思うほどの大きな声で、教経は玉虫を拒否した。けれど、玉虫も負けずに言い返した。


「いやです! わたしは最後まで教経さまのおそばにいたいのです!」

「そんなことを言っている場合か!」

「──帝も女院も、すでに入水なさいました。わたしには教経さまのおそばしか、いるべき場所はありません!」

「帝が……それは、ほんとうなのか」


 教経が玉虫を乗せてきた舟の武者へ聞くと、みな、うなずいてみせた。教経は歯ぎしりをしながらうなると、「くそっ、これまでか……」とつぶやいた。


 そして、長刀を突きつけたまま玉虫を睨みつけると、苦しそうに言った。


「玉虫、この世でおれが最期に思うのは、おまえじゃない」

「教経さま……」

「連れていけ! 田ノ浦の浜に清元がいるはずだ」


 教経が命じると、従者のひとりが玉虫の舟へ乗りこみ、熊手を解いた。


「いやっ、いやです! 教経さま! わたしをおそばに置いてください!」


 海へ飛びこもうとする玉虫を、従者と武者が押さえこむ。舟が離れていくあいだ、一度もこちらを見ようとしない教経へ向けて、玉虫は叫び続けた。


「教経さま! わたしをおそばに! 教経さま!!」


 教経は源氏の舟と見れば突き進み、乗りこんでくる武者たちを一閃のもとに切り伏せていった。太刀が使いものにならなくなると、長刀で兜を跳ねあげ首を貫いていく。


 ほとばしる血飛沫が、驟雨しゅううのように教経を濡らしていく光景を、玉虫はその目に焼きつけた。あふれる涙で視界がぼやけ、血飛沫は舞い散る桜吹雪のように美しかった。


 やがて教経は、最後に残ったふたりのうち、ひとりを蹴り落とし、もうひとりの首を脇で締めあげながら、力強く跳躍して海へ飛びこんだ。


「教経さまぁっ!」


 玉虫は衝動的に飛びこもうとしたが、従者が羽交い絞めにして自由を奪った。


「玉虫さま、どうか、どうか教経さまのお気持ちを汲んで差しあげてください」


 尻もちをついてふりかえった玉虫に、従者は泣きそうな顔で言った。


「教経さまはずっと、あなた方ご姉弟のことを、心から慈しんでおいででした。玉虫さまの望む形でないかもしれませんが、教経さまはあなたさまをひとかたならず、大切に思っておいでだったはずです」

「……わたしが欲しかったのは、そんなのじゃない、ちがうの……」


 首を左右に振る玉虫に、従者は額を舟の底へ押しつけるように頭を下げた。


「どうか、生きてください。われわれの分までも」


 玉虫はのろのろと立ちあがった。


 戦はもう、終わりに近づいている。


 平家の紅い旗が紅葉を散らしたように波間にただよい、死人以外に乗る者もない小舟には、波が薄紅に泡立ちながら打ち寄せていた。


 おぞましいほどに赤く染まる海面と、死んだ女や兵士たちの黒い髪が奇妙に入り交じっている。


「ああ……真っ赤だわ──!」


 玉虫は、喉の奥から這いだした声に驚いて後ずさった。まるで自分の声とは思えないほどに幼い。


 けれど、聞き覚えのあるその声と言葉に、玉虫の記憶がよみがえった。


 教経と初めて出会った大火の夜。十一歳の春の夜。


(あの夜、このあとに教経さまがいらしたの……わたしの後ろに、教経さまが)


 玉虫はすがる思いでふりかえったが、そこにもやはり、血に染まった赤い海と無数の死体が浮いて見えるだけだった。


「あ……あのときみたいに、不用心だとおっしゃって! こんな格好でこんなところにいるわたしを、不用心だって……いつもみたいに笑って……」


 短くなった髪を頬にはりつけ、腰から砕け落ちるように舟べりへしがみつく。どれだけ涙を流しても、それは涸れることを知らない泉のようにあふれ続けた。


(わたしを、あの日にもどして。教経さまと出会ったあの日に──! もう一度、わたしの名前を呼んでいただきたい……叶わない恋でもいいから、もう一度、教経さまとあの日々を過ごしたい。だれか、わたしをあの日にもどして!)


 玉虫は時の流れに抗うように、喉が破れて血を吐くまで泣き叫んだ。




 寿永四年(一一八五)三月二十四日、平家滅亡──。


 この日、京の都では桜が満開を迎えていたという記録がある。


 最後まで武門であり続けた平家は、源氏が巻き起こした時代の烈風の中に散り果てた。

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