終章

終章

 鏡のように凪いだ春の海を見ながら、玉虫は浜辺を歩いていた。薄く紗のかかった青空にはヒバリが舞い、せわしなく鳴いている。


 肩のあたりで切りそろえた髪に、墨染めの袿を着た玉虫は、足もとを歩く小さなカニに目をとめた。カニのあとについて歩いていると、子どもたちの声が届いた。


海御前あまごぜさまぁ! お客さんが来とるよぉ!」


 玉虫は小さく手を振って応え、海が見える庵へもどった。


 舞良戸まいらどを開けて中へ入ると、白い頭巾をかぶり、玉虫と同じように青鈍色の袿を着た老女が座っていた。老女は玉虫を見るなり、わずかに驚いたような顔をした。


「まあ、玉虫ったら……あなた、ぜんぜん変わらないわね」

「按察使局さまこそ、お元気そうで安心しました」

「あら、なつかしい名前だこと。わたくしは、いまは出家して千代と名乗っていますよ。あなたは、海御前と呼ばれているのね」

「ええ、はじめは尼御前だったのですが、飽きもせずに海ばかり見ておりましたら、いつのまにか、村の子どもたちがそう呼ぶようになったのです」

「そう……。わたくしも、おなじですよ。海をながめて、波の音を聞いていると、一門の方がたが思いだされるのです。ともにさすらった日々は、忘れられるものではありませんからね」

「──楽しかったことなど、ひとつもありませんのにね」


 ふたりは数珠をたぐりながら、沈黙した。


 壇ノ浦での決戦後、建礼門院や按察使局、東宮の乳母だった知盛の妻らは、源氏の手で引きあげられ、都へ送られた。そのなかには、宗盛や時忠、忠快もいた。


 東宮も都へ還啓後は、東宮としては廃されるものの、上西門院の猶子となり、のちに親王宣下を賜っている。


「それで……今日はどうされたのですか。筑後から豊前までおいでになるのは、大変だったのでは?」


 これまでも、まれに文のやりとりはあったが、ふたりがこうして顔をあわせるのは初めてだった。玉虫は壇ノ浦に近い豊前に、按察使局は太宰府のある筑後で庵を結び、一門の菩提を弔っている。


 玉虫と向かいあう按察使局は、頭巾に隠れて髪の色はわからないが、眉毛に白いものが目立って見えた。目は落ちくぼみ、指も細く骨張っていて、肌も乾いている。


「これといって、用件があるわけではないのですけどね、先日、忠快が会いにきてくれたのですよ。あの子も、もう六十近いですからね。そろそろ旅をするのもきつくなってきたみたいで、会えるうちにと思い立って来てくれたそうよ」

「忠快さまが? お元気でしたか?」


 教経の弟だった忠快の名前を聞いて、玉虫の心が弾んだ。いまでは法印権大僧都ごんのだいそうずにまで昇り、比叡山は横川の長吏を務めていると聞いている。


「ええ、あの子もずいぶんと出世しましたからね。あの頭の良さは、だれに似たのかしらねえ……。出家させておいて、よかったと思いましたよ」

「鎌倉殿も、忠快さまに帰依しておいでだったとか」

「どうしたことか、頼朝さまも、実朝さまも……あの子も複雑だったでしょうね。親兄弟を滅ぼした相手が、自分を引き立ててくれるのですから」


 都へ送られたあと、忠快は伊豆へ配流になり、その四年ほどのあいだに頼朝をはじめとする鎌倉の有力者たちの帰依を得た。とくに三代将軍実朝からの帰依は篤く、たびたび鎌倉へ招かれたという。


「実朝さまと言えば、ご正室は按察使局さまの……」

従姪いとこめいですわね。子ができなかったのは残念ですけれど、実朝さまがああなってしまわれたとなると、そのほうが幸いだったかもしれませんね」

「そうですね……わたしも、まさか、三代で源氏が絶えるとは思いませんでした」

「ほんとうに、ねえ。わたくしたちの辛苦の旅は、なんだったのかしらね」


 按察使局は、あきれたようにため息をついた。


 実朝は、按察使局の従弟の娘を正室に迎えたが、数年前に甥に暗殺されている。ここに、平家を滅亡させた源氏の嫡流は絶えた。


 さらに二年後には、上皇(後鳥羽)が鎌倉の北条氏に対して挙兵し、鎮圧されるという内乱(承久の乱)が起こっている。


「あのころは、騒がしかったわねえ」

「わたしたちのころとは、比べ物にもならないでしょうけれど」

「まあ……」


 五年近くにおよんだ源平の内乱を、ともに駆け抜けたふたりはくすりと笑った。


 上皇は高倉帝の第四皇子で、平家が都落ちをした直後に践祚している。母は按察使局の従妹で、この皇子を養育したのは、教経の妹夫婦だった。


 しかも、教経の妹が生んだ女子は上皇へ入内し、皇子を産んだ。皇子は上皇の寵を受けて即位(順徳)し、鎌倉北条氏に対する挙兵にも加担した。


 上皇の女房の中には、小松家の資盛の恋人で、過去に建礼門院へ仕えた女人もいる。平家に関係した人びとは、一門が滅亡したあとも宮中に深く関わり続けていた。


 おそらくは、上皇も皇子も、親や兄弟、夫や恋人を滅亡へと追いやった鎌倉への恨みつらみを、幼いころから寝物語に聞かされて育ったのではないか。


 教経の妹が産んだ子らの中には、内乱の首謀者として処刑された者もいた。この教経の甥にあたる公卿は、知盛の娘を妻に迎えている。


 承久の乱とは、平家が遺した女たちの忘れえない修羅の妄執も、まったく無関係だったとは思えない。彼女たちは意図的にしろ無自覚にしろ、反鎌倉の素地を作りあげてきたのだろう。


 けれど、玉虫も按察使局も、それを口にすることはなかった。


「──そろそろ、お暇させてもらいますよ。わたくしも、年ですからね。もう、お会いすることもないでしょうけれど、お元気でね、玉虫」

「はい、お元気で」


 外へ見送りに出た玉虫を、按察使局は足を止めてふりかえった。


「もうひとつだけ、いいかしら。……あなた、忠快と変わらない年ごろだったわよね。とても、そうは見えないのだけど?」

「そうですか? お年のせいで、目がよくお見えになっていないのでは?」

「ああ……それもそうね。最近は針仕事ができなくて困っているのよ」

「お大事になさってくださいね」


 あっさりと納得した按察使局を、玉虫は笑顔で見送った。


 時の流れは、あらゆることを変化させていく。苦しみも、悲しみも、人間関係ですら角を削りとり、まるく、まるく、変化させる。


(わたしは、その流れから取り残されている……)


 ふたたび浜辺へ下りてきた玉虫は、海へ向かって腕をのばし、自分の手を見つめた。


 六十近い老女とは思えないほどに艶やかな肌で、シミひとつない。髪も墨染めの衣よりも黒く、声も玉をころがすように澄んでいる。


 身体の異変に気づいたのは、いつだったか。


 壇ノ浦の戦いから四十年近くが過ぎているが、玉虫は老いることを知らなかった。教経が海へ消えたのとおなじ、二十代半ばになったころから、時が止まっている気がする。


 そのせいで、自分を見る村人の目が変わりはじめるたび、住まいを変えなければいけなかった。


──千年も万年も、わらわのように孤独に生きるやもしれぬ


 市寸島比売命の言葉が、きのうのことのように耳の奥でくりかえされる。


 思い当たるのは、ただひとつ。教経からの口移しで薬湯を流しこまれた、あのとき。薬湯にしては、妙なる甘みが喉をすべり落ちた。


(宝珠の名残が……教経さまの一部だったものが、わたしの中にある)


 確証はないけれど、ただそれだけが、玉虫の生きる糧だった。


 永い孤独に耐えられなくなれば、教経のように自分で命を絶つという選択肢もあるのかもしれない。けれど、命の灯が明日に消えようとも、千年の孤独をかかえようとも、教経の遺したものがあるかぎり、それを手放すことなど考えられなかった。


(──生きていてほしいと、おっしゃったから)


 潮風になびく髪を押さえて、玉虫は首に下げていた錦の小袋をするりと出した。あの日、田ノ浦の浜で待っていた兄が、教経から預かっていたという形見。


 袋の口をその手にあけると、竜神の鱗の欠片が落ちてきた。夕日を受けて鈍く光る欠片は、以前よりもずいぶんと色がくすんでいる。いつかもっと色褪せて、やがてひびが入り、とうとう玉虫の命を道連れに砕けてしまうのかもしれない。


 玉虫がさらに袋を振ると、小さく畳まれた薄様が出てきた。美しい薄様には教経の髪がひと束、包まれている。


 そして、ただひと言、さらりと玉虫の名前が書きつけてあった。


 たった一度きりの、たったひと言だけの、教経からの文。


 その力強い手蹟を目にするたびに、低く響く教経の声がよみがえる。その声で名前を呼ばれると、まるで耳もとから恋に染まっていくように心が震えた。


「ほんとうに、勝手な方。いつまでも、わたしの心を離してくださらない」


 手にした当初は、まだかすかに残っていた荷葉の香りも、すっかり消えてしまった。


 それはまるで、あの争乱の記憶も、一門の栄華も、そしてそこに生きていた人びとまでもが、遠い過去のものとして消えていくかのようで心細くなる。


 けれど、玉虫が教経を恋い慕う気持ちは、いまでもたしかに残っていた。


「ずっと、想っていてもいいですよね。……教経さま」


 玉虫の呼びかけに応えるように、波がさざめいた。



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