千尋の海(三)
うららかな春の早朝、源平最後の戦いがはじまった。
互いに鏑矢を射て、合戦のはじまりを告げる。
序盤、平家側の第一陣を率いた山鹿秀遠の水軍は凄まじかった。数百人の兵がいっせいに強弓で矢を射かけ、それらは滝のように源氏へ降りそそいだ。
その後も遠矢で次々に義経の水軍を打ち払い、ぐんぐんと奥津へと後退させていく。
しかし、源氏を破る勢いで攻めていく平家軍のなかに、突如として混乱が起こった。平家の紅い旗をあげていた阿波民部の軍勢が、ざっと白旗へ変えたのだ。
いきなり目の前に現れた敵に、平家はおおいに動揺した。
山鹿軍は源氏の本隊を相手にしており、背後まで気が回らない。その上、阿波民部の離反を見て同調する者も出てきた。
平家の本隊は、あっという間に敵陣に取り囲まれる形になった。
強弓を射かけ、近づいた舟を熊手で引きよせて、相手方の舟へ斬りこんでいく。そのような戦が、あちこちで展開された。
数で勝っていたはずの平家は、阿波民部の裏切りによって数を激減させ、しだいに押しもどされて壇ノ浦まで後退した。この辺りは狭い海峡になっていて、陸で待ちかまえていた範頼軍がここぞとばかりに矢を射かけてくる。
劣勢になっていく状況に、玉虫たちの舟では女たちが色を失くして震えていた。
(教経さま……教経さまは、どこにいらっしゃるの!)
玉虫は教経の姿を探そうとしたが、数百の舟、数千の兵が入り乱れる戦場では、それもままならない。
そこへ知盛がやってきて、時子となにごとかを話して立ち去った。時子はやおら立ちあがると、建礼門院の腕にしがみついていた帝を招きよせた。
「おまえたち、読経を──」
舟に乗っていた僧侶たちへ、時子は読経を命じた。僧侶のなかには、教経の弟の忠快の顔も見える。
しばらく耳を傾けていた時子は帝へささやいて、ふたりで東と西へ向かって手を合わせた。建礼門院は呆然と、頭をゆっくり左右にふりながらその光景を見ている。
上げみずらに結った髪まで震わせ、珠のような涙をこぼして経を唱える幼い帝を見た玉虫は、その足もとへ飛びだし、ひれ伏した。
「二位殿、どうか帝をお連れすることだけはご勘弁ください!」
驚いて後ずさった帝を抱きしめた時子は、不快に顔をゆがめた。とたん、額を床へこすりつけて懇願する玉虫の髪が、ぐっと引きあげられた。
「痛いっ!」
玉虫が顔をあげると、按察使局がその手に玉虫の髪を巻きつけて立っていた。
「おやめなさい、玉虫! わたくしたちは、誇りある死を選ぶのです」
「なんの誇りですか! こんな……こんなにお小さい命を、どうして
「おまえが気にかけることではありません!」
読経の声が響くなか、ふたりは睨みあった。その横で、時子が帝を抱きあげようとしてよろめいた。
「二位殿!」
按察使局は玉虫の髪を数本、ぶちぶちと引きぬきながら時子へ駆け寄った。
時子の腕から落ちそうになった帝をしっかりと抱きとめ、玉虫を傲然と見やると、そのままざっと海へ飛びこんだ。
「ああっ!」
「おまえたちも、続きなさい!」
時子は悲鳴をあげる女たちを一喝すると、自身も三種の神器のうちの宝剣を抱いて帝の後を追った。ざぶりと飛沫があがる。
あわてて舟べりへ両手をかけた玉虫は、按察使局に抱かれて波間をただよう帝に、白い腕が伸びてくるのを見た。腕には翡翠が巻きついている。
(市寸島比売命──!)
按察使局からするりと帝を奪いとり、その腕にしっかりと抱いた市寸島比売命は、玉虫を見あげて満足げにほほえんで見せた。
そして、翡翠の玉をくゆらせながら、深く、深く海底へ沈んでいった。
「そんな……どうして、そんな……」
呆然とする玉虫の背後から、女たちが憑かれたように入水していく。読経の声がひときわ大きくなり、玉虫は水しぶきを顔に浴び続けた。
やがて「ありがとう」という声が降ってきて、玉虫が涙に濡れた目で見あげると、表情をなくした建礼門院が立っていた。
「おまえだけが、わたくしの子を案じてくれた。──あの子の命を惜しんでくれた」
「女院さま……」
目の前でわが子を奪われた建礼門院へ、玉虫はそれ以上の言葉が出なかった。そして建礼門院もまた、倒れこむように波間へ身を投げた。
「女院さま!」
玉虫は身体を乗りだして手を伸ばした。海面には長い衣が浮袋となって沈みきれない女たちが、水をかいて苦しさにもがいている。すぐそばまで迫っていた源氏の兵が、熊手を使って彼女たちを拾いあげていた。
(源氏が、もうここまで──!)
玉虫は身をひるがえすと、屋形の中へ入って衣も袴も脱ぎすてて小袖だけになった。長い髪を小刀でざくざくと切って、菊王の腹巻鎧を身につける。最後に自分の弓矢を手にすると、舟を飛びだした。
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