慟哭(二)

「都では、そろそろ桜が咲きますね」


 そう言って、玉虫は水をむけた。教経は「そうだな」と答えてから、ふたたび黙った。考えこむように目を閉じ、ぎりぎりと歯ぎしりをしている。


「――おれのせいだろうか」


 低くつぶやいた教経に、玉虫は首をかしげた。


「おれが、化け物だと……あの時、市寸島比売命を否定したから、加護を取りあげられたから、それで、あんな負け戦に……」

「いいえ、ちがいます。教経さまおひとりのお力で、どうにかなるような戦ではなかったはずです」


 自分自身を責めはじめた教経を、玉虫はすぐさま否定した。


 あの戦は、これまでの戦とはちがっていた。木曽義仲から源頼朝へと、戦う相手が変わり、法皇も平家を陥れるために入念に策を練った。


 そういった実情がわからない玉虫にも、あの戦の規模が格段に大きかったことくらいはわかる。ひとりの武将の力量で左右されるような、単純な戦ではなかった。


 教経は、迷いなく答えた玉虫を見つめてから、ふいに鼻で笑った。


「――そうだな。おれが負けた理由を、他人へ押しつけるところだった。おれが勝ち戦を続けたのは、おれや家人たちの力だ。加護のせいじゃない。だったら、負けたのもやはり、おれの力だ。もっと兵たちを油断させず、鼓舞してまわるべきだった」


 教経は悔むように唇を噛んで、うつむいた。


 教経ひとりのせいではないとしても、武将のひとりとして、戦への責任を感じることは仕方がない。けれどそれは、怪異のせいにするよりもずっと、前向きな自省だった。


「そうです、市寸島比売命のことは、なにも関係ありません。加護も呪いも、最初からそんなものはなかったのだと思います」

「ああ……今日死ぬか、一年後に死ぬか。いつ死ぬかわからないのなら、それは呪いではなく、ごく普通のことだ。おれの寿命は、おれが決める」

「はい。それでこそ、教経さまです」


 教経は菊王がもどってこないことを見てとると、玉虫へ視線をもどした。玉虫を見ているけれど、そこにいない人を見ているのを感じる。


 都落ち以来、玉虫が姉妹のように過ごした可憐な人を、教経の目が探していた。


「兄上は、小宰相どのを都に残してくるべきだったと、ずっと後悔しておいでだった。おれも、そう思っていた。乳母どのとふたりで、こんなところへ身を置く必要なんてなかったんだ……」


 教経の言うように、上西門院のそばにいれば、小宰相は変わらぬ生活を続けることができた。通盛を亡くしても、いずれ再婚できただろう。わざわざ、いらぬ苦労をする必要などなかったのだ。


「でも――」


 言いさした玉虫を、教経がさえぎった。


「そう、わかっている。それでも小宰相どのは、しあわせだった」

「そうです。小宰相さまも、そうおっしゃいました。通盛さまと児島でお過ごしになったこと、お子を授かったこと……それに、わたしとの出会いも、すべてに感謝しておいででした。きっと都に残されていたら、そのほうがよほど不幸だったでしょう」


 福原へ渡る小舟で、小宰相は自分のしあわせに心から満足していた。あたたかな充足感に満たされた小宰相は、内側から輝いて見えた。都にいては、それほどの幸福は得ることができなかったかもしれない。


 教経もうなずき、視線を落とした。


 そして、恥ずかしそうに苦笑いをしながら玉虫へ言った。


「……知っていたと思うが、おれは、ずっと小宰相どのが恋しくてたまらなかった。いまもだ。どうしようもなく、あの人に焦がれている。兄上の妻になってからも、あの人は光だった。おれのすべてだった」

「存じています……」


 玉虫は消え入りそうな声で答えた。まさか、正面から小宰相への想いをぶつけられるとは思っていなかった。


「おれは、あの人がしあわせなら、それでよかった。兄上のおそばで、おれの名前があの人の耳に入ることもあるかもしれない――そう思うだけで、うれしくて居ても立ってもいられなかった。おれの名前が、少しでもあの人の記憶に刻まれることを思うだけで、おれは充分しあわせだった。苦しくても、おれは満足していたんだ」

「……はい」

「それなのに、ふたりとも消えてしまった。おれの光が、おれのすべてが、目の前から消えたんだ。――なあ、玉虫。これは夢ではないのか? 命がけの戦をしておいて、なにを言っているのかと自分でも思う。それでも、つらいんだ。苦しいんだ――!」


 片手で口を覆い、声を殺して嗚咽する教経を、玉虫は抱きしめたいと思った。涙がこぼれないように、まばたきもせずに耐える教経が、たまらなく愛おしかった。


「教経さま、ここは人がおりません。ここなら、泣いておしまいになっても、だれにも聞きとがめられることはないでしょう」

「……玉虫」


 とうとう涙をこぼしながら、目を真っ赤にして教経は顔をあげた。そして、おずおずと玉虫へ聞いた。


「ふれても、いいか?」

「――はい」


 玉虫が答えるなり、教経は手をのばし、指先が玉虫へふれるとわずかに引いた。しかし喉の奥を鳴らし、新たな涙があふれると、なにもかもをかなぐり捨てるように玉虫を抱きすくめた。


「兄上がいなければ、だれがおれを導いてくれる? だれがおれを諫める? 小宰相どのがいなければ、おれの目はなにも見えない。この世は、まったくの闇になってしまった――!」


 力任せに抱きしめられた玉虫は、苦しさにあえいだ。だれの目も耳も気にせずに慟哭する教経は、ほとんど獣のようだった。


 玉虫の鼓膜をびりびりと震わせながら、通盛を敬い慕う気持ちと、小宰相を恋い慕う気持ちが、咆哮となって児島の海を割るように駆け抜けていく。


(いま、教経さまの腕のなかにいるのは、わたしじゃない……)


 教経の力強い腕を全身で感じながら、玉虫は自分が薄絹になった気がした。教経が必死でその腕に抱くのは、そこにいる玉虫ではなく、通盛であり小宰相であり、耐えがたい苦痛をかかえる自分自身だった。


 玉虫の髪へ顔をうずめる教経からは、土埃と汗の匂いに混じって、かすかに荷葉の香りが立ち昇ってくる。しかし、すでに薫物たきものを日常的に嗜む状況にはなく、それは都の残り香と言えるほどに淡い香りだった。


 まだ一年も経っていないのに、都での生活は遠いものになっていた。幼い帝や東宮に不自由な生活を強いてまで、なにを得ようとしているのか。


(――それでも、わたしは教経さまについて行く)


 玉虫がやっとのことで呼吸をすると、教経がわずかに身体を離した。


「ああ……。すまなかった、苦しかっただろう」

「いえ、大丈夫です。――教経さまは、もうよろしいのですか?」


 見あげる玉虫に、教経は恥ずかしそうに笑った。


「大丈夫だ。みっともないところ見せてしまったな。菊王には言わないでくれ」

「言わなくても、教経さまのお声は、きっと従者の方にも聞こえていたと思いますよ」

「……そうだな、獣が出たとでも言っておこう」

「まあ、ずいぶんと大きな獣ですね」


 ふたりは目をあわせて笑い、そして近づきすぎていることに気づいて反射的に離れた。


「その……すまない。玉虫には、どうも遠慮がなくなってしまう」

「子どものころから、おそばにおりますから」

「――そうだったな。あのじゃじゃ馬が、よくこんなに育ったものだ」


 玉虫はなにも言わずに笑顔で応えた。


 成長したと言いながら、教経が自分を見る眼差しは、子どもだった玉虫を見ていたころとまったく変わらない。


 けれど玉虫は、教経にいちばん近いのは自分だと自負した。教経の心が小宰相で占められていたとしても、だれよりも教経のそばにいるのは自分だと思っていた。


 教経に想いが届かなくてもいい。ただ、教経のそばにいたい――それだけだった。




 玉虫たちが屋島へ入ったころ、都では討たれた武将たちの首が大路を渡され、獄門に晒された。


 都にあれば高位高官であり、宮中ともゆかりの深かった彼らの処置には、貴族のあいだでも反対の声があがった。しかし、すでに官職を解かれている彼らに対して、法皇は容赦しなかった。


 しかも、重衡は生捕りにされ、開け放たれた牛車で見世物のように都へ入っている。三種の神器と重衡の身柄の交換が持ちかけられたが、交渉はまとまらなかった。


 平家側はもはや和平など望むべくもなく、軍事的勝利を収めることでしか、自分たちが生き残る道はないと覚悟を決めたのだった。

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