巻第五 平家滅亡

屋島行宮(一)

 屋島の行宮あんぐうで過ごしはじめた平家の内部に、ひとつの噂が流れた。


 ここ、屋島での生活を送るにあたり、多大な貢献をする阿波民部あわのみんぶが、生田・一ノ谷の戦で早々に舟を沖へ出してしまったため、乗り遅れた者が多く出たという。


 ただ、あの混乱では話の真偽もたしかではなく、噂にとどまるだけとなった。


 そしてもうひとつ、その混乱に乗じて家人を連れて離反していた小松家の維盛これもりが、軍勢を解いたのちに入水により命を絶ったという報せも入った。


 じつは、太宰府を落ちのびたさいにも、維盛の弟のひとりがすでに入水により亡くなっている。遺された資盛すけもりの心中は穏やかではなかっただろう。


 甚大な痛手を蒙り、不穏な空気を内包しながらも、平家は衰えることがなかった。


 六月には、源頼朝が備後へ派遣した惣追捕使を追い散らし、播磨にいた味方の兵が救援にむかった隙を衝いて播磨室ノ泊を焼き払うなど、水軍を駆使して神出鬼没の戦術を展開した。


 平家は、まさしく武門だった。軟弱でも、脆弱でも、ひ弱でもない。彼らはあきらめることなく、何度でも立ちあがり、果敢に戦う武者の集団だった。そうでなければ、都落ちから二年近くも永らえることができただろうか。


 ただひとつ、帝や東宮などの幼い子どもたちや、女院や女房という、非戦闘員を多くかかえていたことが、彼らの悲劇だった。




 児島でしばらく過ごしたのち、玉虫は建礼門院のもとへもどり、教経は自身の父が陣を構える長門の彦島(山口)へ行ってしまった。もちろん、それには菊王も同行している。


 仮の内裏では、七歳になった帝と、六歳になった東宮の無邪気で元気な声が、周囲を明るくし、また、涙も誘った。


 都にあれば、顔をあわせることも稀だった兄弟が、手をつないで山野を歩く姿は、なんともほほえましくもあり、尋常ではない状況をも象徴している。


 そして夏が過ぎ、秋が深まり、やがて年の瀬も押し迫ったころ、太宰府から清元が玉虫を訪ねてきた。


 舟から行宮へ運ぶ荷物がひと段落ついたところで、玉虫は行宮の外で兄と会った。


「兄上! お久しぶりです」

「……なんだ、元気そうだな」

「はい、ここは京よりも温かくて雪もないので、過ごしやすいです」

「そうか。彦島は、ここよりも温かかったぞ」


 彦島と聞いて、玉虫の顔がさらに明るくなった。


「菊王にも会ったのですか? 教経さまは?」

「みな、息災だった。──通盛さまと、小宰相さまのことは、残念だったな」

「はい……。でも、親しい方を亡くしたのは、わたしたちだけではありませんから」

「……そうだな」


 清元は視線を落とすと、玉虫を行宮の裏にある山へ誘った。山と言っても、頂上が平らで、台地のようになっている。古代に築かれたらしい山城の跡があり、ふたりは無言のまま、そこを目指して歩いた。


(聞かれたくない話でもあるのかしら……)


 冬とはいえ、さすがに山道を歩くと汗をかいてくる。頂上へついたときには、吹きぬける風を気持ちよく感じるほどだった。


 眼下の大きな入江には戦舟が威勢を誇るように浮かび、平家がいまなお多数の軍勢を擁していることがわかる。清元はその様子をながめながら、玉虫へ言った。


「──玉虫、いまからでも、太宰府へ行かないか。父上たちも、心配している」

「いやです。きっと菊王にも、また断られたのでしょう?」


 迷わず答えた玉虫に、清元は皮肉な笑みを見せた。


「わかるか。あいつもすっかり、一人前の男になってきたな。教経さまに命を預けたから行けない、の一点張りだった。おれたちは武者じゃないのに……ばかなやつだ」

「菊王がばかなら、わたしは大ばかですね」


 玉虫は、屈託なく言った。いくら教経のそばにいても、その想いが叶うことはないとわかっている。けれど、ここで教経の帰りを待つ毎日が、玉虫にはしあわせだった。


 清元は、妹のあまりにもささやかな幸福に胸を痛めた。こうなる前に、平家とは関係のないところへ結婚させておけばよかったとさえ思った。時忠の猶子となったことが、いまでは仇となっている。


「……教経さまにも、おまえを太宰府へ連れていくように頼まれたんだ」

「どうして……。ここにいては、いけないのですか?」


 玉虫は顔をくもらせた。


「ご一門は、よく踏みとどまっていらっしゃると思う。都でも、平家はいまだに強いと評判だ。源氏を危ぶむ声すらある」

「それなら、どうして──!」


 玉虫は、にわかには納得できなかった。八月には安芸で源氏の兵を蹴散らし、十月にも教経の父たちが率いる軍勢が長門で源氏を破っている。


 つい先日、児島で源氏の兵が対岸から浅瀬を渡ってきたためにやむなく撤退したということはあったが、児島を明け渡したところで相手は水軍を持っておらず、追撃されることはなかった。


 屋島の行宮は安泰で、けっして悲観するような戦況ではないはずだった。


「源氏は、水軍を得るためにあちこちで工作しているようだ。安芸もすでに、源氏の手に落ちている。それに、東国へもどっていた源範頼が、追討使として九月に京を出て長門に入った。義経はまだ京にいるようだが、おっつけ派遣されるだろう」


 清元の言葉は、玉虫の耳を素通りしていった。不自由でもつらくても、この屋島での穏やかな生活が終わるかもしれないとは、考えたくなかった。


 清元は、ぼんやりとする玉虫の肩をつかんで言った。


「わかるか、玉虫? 源氏の本隊が動くということは、福原のときのような、大きな戦が起こるかもしれないんだ。だから、おまえだけでも太宰府へと──」

「いやです! それならなおさら、ここにいます!」

「ばかを言うな! 教経さまも、おまえを大事に思っているからこそ、ここから逃がすように言ってくれたんだぞ」


 一瞬、玉虫はひるんだ。教経が自分のことを考えてくれた、という言葉に思いがけず心が揺れる。けれど、天秤はあっけなく傾いた。


「……いやです。もし、教経さまになにかあったときは、おそばにいたいのです」

「不吉なことを……」

「だって、そういうことでしょう? あのときのような戦が起こるというのは、そういうことがあってもおかしくないから、わたしを太宰府へ連れていきたいのですよね?」

「それは……そうだが……」


 言葉を濁す兄を見あげながら、玉虫は御座船で教経たちを案じるあまりの恐怖を思いだしていた。そして無事にもどってきた姿を見たときの、安堵と脱力感も。


 遠く離れていては、すべてが終わるまで知ることができない。戦が始まったことも、終わったことも、その安否も、なにもかもが過去のこととして知ることになる。


(それでは、小宰相さまのように、時を待たずにあとを追うこともできないもの)


 玉虫の不吉な覚悟を知ってか知らずか、清元は眉を寄せて顔をゆがめた。子どものころから、したいようにしてきた妹の説得はむずかしいと知っている。


「──いまは、まだいいだろう。でも、いざとなれば、引きずってでも連れていく。おまえを無駄死にさせるなと、教経さまにきつく言われたからな。おまえには不満かもしれないが、教経さまは教経さまなりに、おまえのことを考えてくださっている」

「……はい。わがままを言って、申しわけありません」


 ふたりが自分を心配してくれていることは、玉虫も重々承知していた。それでも、ここへ残りたかった。教経のそばを離れたくなかった。


(もし、太宰府へ行ってしまったら、教経さまはもう、わたしのことなんて思いだすこともなくなるかもしれない。──だから、心配をかけることになっても、わたしのことを考えていてほしい。少しでもいいから、教経さまから気にかけていただきたいの)


 それが自分本位の考えだとわかっても、いまの玉虫には正直な気持ちだった。

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