屋島行宮(ニ)
明けて、寿永四年(一一八五)。
平家は屋島で二度目の正月を迎えた。
一進一退の攻防戦で長引く膠着状態は、兵糧の調達に悩む源氏方の戦意を次第に喪失させていた。西国での制海権を握る平家が船団で海路をふさぎ、源氏の兵站線を断っているために、東国からの兵糧を運ぶことも難しい。
その間に、平家は反勢力である伊予の豪族を討伐しようと、阿波民部の息子に多勢をつけて派兵していた。
そのため、屋島の守りが薄くなることを懸念してか、教経が呼びもどされた。
行宮を訪れた教経が帝や女院へ挨拶に行き、その足で宗盛や時忠と話しこんでいるあいだに、玉虫は菊王を探した。
すぐに、教経のいる東対から少し離れた庭で、数人の従者たちと立っているのを見つけた。
玉虫が
「菊王、また大きくなったわね」
「そりゃあ、十八だもの。姉上だって、もう十九でしょう? いい年じゃない」
「……わたしったら、もうそんな年なのね。忘れていたわ」
玉虫は肩をすくめた。
都にいれば、とっくに結婚していたかもしれない年齢だ。それはきっと、教経ではないだれかだっただろう。そう考えてみれば、都落ちも案外悪いものではなかった。
「教経さまが、姉上のことを困ったやつだっておっしゃってた」
「え……あ、太宰府のこと?」
「そうそう、断ったでしょ? 兄上がここからの帰りに、また彦島へ来たんだよ。教経さまに、妹と弟をとりあげられた気分だって泣きついてたよ」
「兄上ったら、大げさね。教経さま、怒っていらした?」
「ううん、困った顔で笑っておいでだった」
「ふふ、あのお顔ね」
子どものころから見てきた、教経の「しようのないやつだ」という笑顔が浮かんだとたん、教経に会いたくてたまらなくなった。もう半年以上も会っていない。
「教経さまは、いつまでお話されるのかしら」
「そうだなあ……兵を分散して島の沿岸に配置しているのを見直したいって、教経さまがおっしゃっていたから、その相談もあるだろうし、宗盛さまや時忠さまは、彦島の様子もお聞きになりたいだろうし。お帰りは夜更けになるだろうね」
「そう……。お会いしたかったけど、今日は無理かしら」
「うん。でも、しばらくは屋島にいらっしゃるから、いつでも会えるよ」
「そうね、ありがとう」
従者たちの輪へもどる菊王を見送った玉虫は、教経のいる対の屋を見つめた。庇の間の半蔀を二間だけ跳ねあげ、御簾を下ろしている。中の様子はまったくわからなかった。
せめて御簾を通して透き影だけでも見えないかと思ったけれど、こちらのほうが明るいのだから見えるはずもない。
(やっぱり、無理かしら。少しでいいから、お会いしたいのに)
玉虫はどうしてもあきらめることができず、透廊を行ったり来たりした。ときおり背伸びをして、対の屋の様子をうかがう。やがてほかの女房に呼び止められ、後ろ髪を引かれる思いでその場をあとにした。
その夜、東対へ続く渡殿で、玉虫は浅い眠りのなかにいた。いつまでも話の終わらない教経が気になって、少しの物音にも目が覚めてしまう。
目が覚めては耳を澄ますことをくりかしているうちに、とうとう教経たちが出てくる気配がした。宗盛たちに見送られ、教経が中門へ向かうのがわかり、玉虫はあわてて起きだす。菊王たちに囲まれる前に、教経に会いたかった。
行宮とは言ってもただの小さな屋敷で、玉虫は宗盛たちに見られるのも厭わず、簀子縁をすべるように歩いた。
追いかけてくる衣擦れの音に気づいた教経が、怪訝な顔でふりかえる。そして、玉虫に気づくなり、見たくてたまらなかった笑顔へと変わった。
「まったく、おまえというやつは……」
教経は宗盛たちへ目礼すると、待っていた菊王たちが来るのを手で制して、玉虫を南庭へうながした。そこは庭と言えるほど手が入っているわけではなく、里山をそのまま活かしただけの雑木林だった。
「久しぶりだな、玉虫。元気そうで安心した。明るいうちに、透廊をうろうろしていただろう。よく見えていたぞ」
「あ……」
暗い庇の間からは、明るい透廊を歩きまわる玉虫がよく見えたことだろう。ちらちらと教経たちをうかがう玉虫の姿は、滑稽に映ったにちがいない。
恥ずかしさで玉虫がうつむくと、教経がふっと息をもらす音が聞こえた。笑われた、と思った玉虫は、つと顔をあげて抗議した。
「教経さま、鼻でお笑いになるなんて、あんまりです」
「ああ、これはちがう。おれ自身に笑ったんだよ。──透廊を歩く玉虫を見て、うっかり安心した自分がおかしかっただけだ。まさか、玉虫を見て安心する日がくるとはな。時忠どのは、頭をかかえておいでだったが……。でもおれは、玉虫が変わらずにそこにいると思ったら、ほっとしたんだよ」
教経の言葉に、玉虫の心が跳ねた。
時忠の反応は当然だとして、教経はいま、なんと言ったか。耳の奥に残る言葉を、頭のなかで咀嚼しようと真顔になった玉虫に、教経は重ねて言った。
「玉虫がここにいてくれて、よかった」
その短い言葉に、かっかと玉虫の身体が火照った。教経の真意を探ろうにも、月もない薄闇のなかでは、教経がどういう顔をしているのか玉虫からはよくわからない。
教経は、ふと一本の樹へ目を留めると、その幹へそっと手をあてて、枝ぶりを見あげながら続けた。
「──おれたちの周囲は、あまりにも変わりすぎた……失ったものも多い。そのなかにも変わらないものがあるということが、たまらなくうれしかったんだ。なにしろ菊王は、もう子どものころの面影もないくらい、立派に成長してしまったしな」
しゅっと音を立てるように、玉虫の身体から力が抜けて熱が冷めた。
「そ……それでは、わたしがひとつも成長していないみたいじゃないですか」
ふざけるように玉虫は言ったが、心の中では教経の言葉にわずかでも期待してしまったことを恥じていた。やはり教経は、自分のことをなんとも思っていない。
その証拠に、教経がその手にふれているのは、枝先まで目で追っているのは──
(山桜……。わたしったら、ほんとうに大ばかね。そんなこと、あるはずないのに)
しおれた心を隠しながら、ふくれて見せる玉虫へ、教経は山桜を見あげたまま言った。
「いいんだ、玉虫はそのままでいてくれ」
「……はい」
ほんとうは、もっとなにか言ってやりたかった。勝手なことを言うな、期待させるようなことを言うな、無神経にもほどがある、もっと、もっと、たくさんのことを言ってやりたかった。──でも、言えなかった。
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