扇の的(一)
二月のある朝、行宮のある屋島の対岸で火の手があがった。炎は広範囲に広がり、灰色の空を黒煙が不吉にぬりつぶしていく。
「海へ! 帝をお連れして、海上へ逃げろ!」
対岸から行宮までは、浅瀬を馬で渡ることもできるほどに近い。海からの攻撃を想定していた平家は、突如として陸から現れた源氏の兵に動揺した。
飛んでくる矢を防ぐ
(あれが、源氏──!)
東国武者を間近に見ながら、玉虫も女房たちと海岸へ急ぐ。
太宰府落ちのような悪路ではなかったが、戦は目の前ではじまっていた。垣盾から矢を射かける平家と、浅瀬を渡り、浜辺の小さな漁船の影に隠れて応戦する源氏。
その混乱のなか、
教経はひらりと戦舟へ乗りこみ、
白波を立てながら浅瀬を渡ろうとする源氏へ、平家は舟からも次々に矢を射かけた。射かけながら、少しずつ沖へ漕ぎだす。
御座船へ移った玉虫は、遠くからその様子を観察していた。
(どうかご無事で。どうか、どうか!)
やがて源氏の中に、
教経も大将に気づいたようで、ふたたび舟を浅瀬へ寄せた。背負った
教経は大声でなにごとかを叫ぶと、それらの鎧武者を残さず射落とした。
波に揺られながらも、一本の矢も外すことなく弓を引く教経に、御座船からもどよめきが起こった。
身の丈よりも大きな弓を構え、源氏の武者たちを睥睨する姿は鬼神のようだった。遠くに見ているはずなのに、教経だけが異様に大きく、鎧の輪郭まではっきりと見える。
「海龍王……」
だれかがつぶやいた。さざめきのように、海龍王という言葉が伝播していく。
教経の背後で、炎をかかえながら空を覆うように立ち昇る黒煙が、まっ赤な口腔を見せて吠える龍のようだった。
みなが教経の姿に目を奪われているあいだに、最初に射落とされた武者の首を取るために、菊王がざっと舟から浜へ下りた。
ところが、白木の長刀の鞘を外し、一目散に走り寄る菊王の横腹へ、ひゅんと源氏の矢が刺さった。
「菊王──!」
玉虫は悲鳴をあげて、目を見張った。
どさりと尻もちをついた菊王を、教経が弓で威嚇しながら舟から飛び下りて、片手でかかえあげる。矢が飛んでくるかと思いきや、源氏も教経に落とされた武者を回収して、お互いにそのまま退却した。
そこからは、陸と海での源平の睨みあいが続いた。
大軍かと思われた源氏は、いっこうに増えることがなく、意外にも少数であることがわかった。平家ではまもなく、伊予での討伐を終えた軍勢が屋島へ帰着することになっている。そのことで、玉虫たちにも余裕が生まれた。
行宮からの退避を終え、御座船を囲むように舟がそろうと、玉虫は菊王が乗せられた舟へ移動した。
鎧を外して
「菊王、菊王!」
玉虫は菊王の手をとった。あまりもの冷たさに、ぞっとする。かたわらにすわっていた教経が、ひざの上で両手を硬く握りしめていた。
「矢を抜いてやろうと思ったんだが……もう、手遅れだと……」
菊王の呼吸はごく弱く、止まったかと思えば、ふっと吹き返す。腹に何重にも巻いた布が真っ赤に染まっているのを見た玉虫の背中に、ぞろぞろと蛇が這うような耐えがたい恐怖が駆けあがった。
「──いや、いやよ。菊王、行かないで、お願い。置いて行かないで。ねえ、お願い、菊王、目を開けて。開けてったら!」
ぽかんと口をあけて、浅い呼吸をくりかえす菊王へ、玉虫は叫んだ。
「菊王! 好きな女房がいるんでしょう? 都へもどったら、真っ先に会いに行くって言ったじゃない! 行くのよね? ねえってば!」
「玉虫、少し静かにしてやろう」
声を落として言いながら、教経が肩へ手をかけようとする。そうと気づいた玉虫は、身をよじって教経の手から逃げた。
ひとつしかちがわない菊王とは顔立ちも似ていて、ずっと双子のように育ってきた。玉虫の半身とも言える存在を失うことは、自分の身を切られるよりもつらい。
「ねえ、菊王……なにか言ってよ。姉上って呼んで。お願いだから……」
ぼたぼたと落ちる玉虫の涙が、菊王の顔を濡らしていく。
そのうち、菊王はひゅうっと喉を鳴らしながら大きく息を吸いこんだ。そしてそれを吐きだすことなく、しずかに息絶えた。
「菊王っっ!」
ぷつりと、なにかが途切れた気がした。
髪をふり乱して悶える玉虫を、教経が背後から強く抱き止める。けれど、玉虫は菊王にすがりつこうとして教経の腕を邪険にふりほどいた。
菊王の頬を何度もなでて、覆いかぶさるように抱きしめる。
だらりと横たわる菊王の胸に耳をあて、もしかすると鼓動が聞こえてくるのではないかと待ち続けた。けれど、いくら待ってみても、玉虫自身の鼓動が頭の中に響くだけで、なにも変わらなかった。
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