扇の的(ニ)

(わたしが太宰府へ行っていれば……、菊王もいっしょに兄上のもとへ行っていれば、こんなことにはならなかったのに。──わたしのせいだわ)


 玉虫は無気力に上体を起こして、菊王の顔を見つめた。よく似ていると言われた弟の顔を見ているうちに、ふと自分が死んだときも、こんな顔になるのだろうかと思った。


(ごめんなさい、菊王。わたしが太宰府へ行かなかったから……)


 目も鼻も真っ赤にして、呆然自失とする玉虫に教経が低く声をかけた。


「……玉虫、宗盛どのがお呼びだ。無理なら、おれが断っておくが」


 そろりと教経へふりむき、玉虫は「行きます」と答えた。


 教経に支えられるようにして御座船へ渡り、評定の場へ連なった。玉虫のほかにも、数人の女房が扇で顔をひた隠してすわっている。


 人の好さそうなふっくらとした顔で、宗盛がなにやら言うのを玉虫は上の空で聞いていた。菊王のことを、太宰府へ知らせなければいけない。両親がどれだけ悲しむだろうかと思うと、また涙がこぼれそうになる。


 うつむく玉虫の視界に、隣にすわっていた女房の手がのびてきた。顔をあげると、周囲の視線が玉虫に注がれていた。憐れむような、案じるような、なんとも言えない表情をしている。


「玉虫どの、よろしいか?」


 だれかにそう聞かれて、玉虫は首をかしげた。それを肯定と受けとったのか、「それでは……」と言いかけたのを、教経がさえぎった。


「お待ちください。玉虫は、先ほどの乱戦で弟を亡くしています。いま、そのようなお役目を言いつけるのは、酷ではありませんか!」

「しかし……」


 教経の声がびりびりと響き、相手はたじろいだ。


「だいたい、扇の的を射抜けなどど、そんな悠長なことをせずとも、いますぐに攻め寄せてしまえばいいではないですか! 軍勢の帰りを待つ必要などありません。この教経にお任せくだされば、それで充分です」


 まとまりかけていた話をひっくり返され、一同はげんなりした顔をした。教経はそれらの顔を、凄むように見渡している。


 玉虫は隣の女房に耳打ちをして、いったいどういう話になっているのかとたずねた。


 宗盛たちは、今日明日にも帰着する阿波民部の息子が率いる軍勢を待って、行宮を占拠する源氏へ攻め入りたいらしい。


 それにはまず、今日の日没までは源氏が動かないようにしたい。


 そのための時間稼ぎとして、こちらから扇の的を掲げて射抜いてみせよと誘いかけることにしたのだと言う。


 その舟に乗せる女房を選ぶために、数人が呼ばれて、ここにいる。


 ほかの女房たちは怯えて首を振るばかりだったのが、話を聞いていなかった玉虫がなんの反応もしないので、決まりかけたのだと教えてくれた。


(わたしたちを立たせることで、余裕があると見せたいのかしら)


 玉虫は選ばれた女房たちの顔ぶれを見て、あることに気がついた。全員が、平家とはゆかりのない女ばかりだった。しかも、みな美しい。


(ああ……危険なお役目だから。お身内になにかあっては、一大事ですものね。──身内を亡くすことほど、つらいことはないもの)


 菊王の冷たくなった身体を思いだして、玉虫は宗盛に同情した。


 子煩悩なことで有名なあの惣領は、たとえ身内でなくとも心を痛めるだろう。玉虫たちを選ぶことすら、後ろめたさを感じ、悩んだにちがいない。


 武門の、しかもこのような状況下で惣領となった、心優しい彼の悲運を玉虫は哀れんだ。


(でも……わたしが立てば……)


 玉虫は、的を外した源氏の矢に射貫かれ、海へ沈む自分を想像した。


 冷たい海。小宰相や維盛たちが眠る海。


 菊王とおなじ死顔で隣に並べられる自分の姿を思うと、それはとても美しい光景のように思えた。


 玉虫は両手をひざからすべらせるように下ろし、指先を床へつけて頭を下げた。


「謹んで、お引き受けいたします」


 とたん、ほっとした空気が流れる。玉虫は「支度をして参ります」と言って、その場をあとにした。教経が追いかけてくるのがわかったが、するすると歩いていく。


「玉虫、待て! 行かなくていい!」


 教経が腕をとろうとしたのを感じて、玉虫はさっと身をかわした。教経にふれられることを心が拒否していると、はっきり自覚した。


 しかし、教経はなおも追いかけてきて、言った。


「おれが宗盛どのを説得するから、ここにいろ」


 ふと玉虫が足を止めて向きなおると、教経は安心したように息をついた。


「大丈夫だ。おれがあいつらを、納得させる。わかったか?」

「……わかりました」

「それでいい。菊王のところへもどるなら、だれかに──」

「小宰相さまのお気持ちが、少しだけ、わかりました」


 いぶかる教経に、玉虫は訴えた。


「おなじように大切な方を亡くしたとしても、その悲しみは、その人だけのもの。おなじ経験をしたからと言って、とても分ちあえるようなものではないのです。……それを軽々しく、お気持ちはわかりますなどと、わたしは言ってしまいました。ほんとうは、なにもわかっていなかったのに──!」


 最後だとわかっていれば、という小宰相の言葉が、玉虫の心をえぐる。


 菊王と最後に話したのはいつだったのか、なにを話したのか、ただのひとつも思いだせない。いつだって、次があると無自覚に思いこんでいた。


「玉虫、落ちつけ」


 そう言って、玉虫の肩へ手をのばしてきた教経を、玉虫はふたたび避けた。教経も玉虫の様子に気づいたのか、眉をひそめる。


「──おれを、責めているのか。……菊王が死んだのは、おれのせいだと」

「ちがいます! わたしが太宰府へ行かなかったせいです。わたしが太宰府へ行けば、菊王だって無理に連れていくこともできました。それだけです」

「それなら、なぜ避ける?」


 問いつめるような教経の口調に、玉虫は口ごもった。


「それは……わかりません。いまは、教経さまのおそばにいたくないだけです」


 教経は苦々しい顔で目をそらし、それから腰に佩いていた太刀の柄を握ると、厳しい声で言った。


「──玉虫、菊王は武者として死んだ。おれのために死んだのなら、それは菊王にも本望だったはずだ。申しわけないが、おれは菊王の死を悼むことはあっても、自分を責める気はない。だから、おまえに謝るつもりもない」

「わかっています! 教経さまを責める気はありません!」


 玉虫にもわかっていた。大将が個人の死にいちいち責任を感じていては、戦などできない。教経は正しい。


 むしろ、あの場面で危険を顧みず、迷うことなく自身の手で菊王を助けに行っただけでも、教経の情の深さがわかるというものだった。


(教経さまを責めるなんて……菊王も教経さまのために命をかけていたのだから、いつかこうなることはわかっていたはず。でも……それでも、だれかが死んでいくのは、もう見たくない。いやなの)


 いましがたの乱戦で命を落としたのは、菊王だけではなかった。大きな戦闘ではなかったが、それだけに戦の様子をつぶさに見ることができた。


 矢を射かけられ、まだ息のあるうちに首を掻き切られる兵たち。返り血で顔を真っ赤に濡らし、興奮した目つきで首をかかえて走る兵たち。浜辺は蘇芳の花を絞ったように、くすんだ赤色に染まっていた。


 それらをすべて、玉虫は目の当たりにしてしまった。はじめて見た戦場は、玉虫の感情を大きく揺さぶり、そして絡みあった糸のようにぐしゃぐしゃにした。


 教経のせいではないと理解しているはずなのに、顔を見るとちりちりと怒りがわいてくる。小宰相への自分の対応は、まちがっていたのではないかと苦しくなる。菊王の死顔が、いくつもいくつも浮かんでは消えていく。


 自分がなにを悲しみ、なにを憤り、なにを悔んでいるのか、もう玉虫にはわからなくなっていた。


「玉虫、いまはなにも考えるな。菊王のそばにいてやれ」

「……はい。これから、むかいます」

「それがいい。宗盛どのは、おれに任せておけ」


 それだけ言い残して、教経は評定の場へもどった。


 玉虫は教経が見えなくなるまで見送ると、自分の衣装をあらためはじめた。その中から早春にふさわしい色の衣を選び、ほかの女房たちに髪を梳いてもらう。遠目にもわかるように濃く紅をさすと、教経たちのもとへもどった。


「お待たせいたしました」


 宗盛たちは、美しく装いをととのえた玉虫に、満足したようにうなずいた。ふりむいた教経が目を見張るのがわかる。


 玉虫が現れた以上、教経の反対は意味がなかった。

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